第三話「籠の中の月」-1-
非現実的な出来事の興奮が、頭の片隅にこびりついて離れない。
創作と現実を混同しない月音優菜でも、今日の出来事を簡単には飲み込めるわけはなかった。
当初の予定よりも帰宅が遅くなってしまい、彼女が家路を急いでいた。
急いでいるのは、ひとえに夜道に対する幼い頃から植え付けられた警戒心のためだった。「夜のひとり歩きは、絶対にダメよ」「特に、優菜みたいに綺麗な子は、悪い人に狙われやすいのだから」——周囲から、呪文のように、何度も何度も言い聞かされてきた言葉。それが、心の奥底に深く刻まれた傷跡のように、彼女の心をじわじわと不安な気持ちにさせるのだ。
閑静な住宅街に佇む瀟洒な三階建て。それが月音家だ。
金属製の冷たい門扉を開け、敷地に入る。背後でカチャン、と無機質な音がした。それは、外の世界とここを隔絶する合図のよう。
重厚な玄関扉の前で、優菜は一度、祈るように深く息を吸い込んだ。
扉をゆっくりと引き開けると——全身から、さあっと血の気が引いていった。今は最も見たくなかったもの——父親の革靴が、きちんと揃えて置かれていたのだ。
「……ただいま」
かろうじて声を絞り出す。スニーカーを脱ぎ、上がり框に上がって、罪人のように自分の靴を綺麗に揃えて置いた。
「あら、おかえりなさい、優菜」
リビングの方から、どこか緊張を含んだ母の声が聞こえてくる。その声色もまた、優菜の不安をさらに増幅させた。
深く、もう一度息を吸い込み、リビングの戸を開ける。
静まり返ったリビング。ソファには腕を組む父と、うなだれた母。
父・浩介が、鋭い視線だけをゆっくりと優菜へ向けた。
「おかえり。こんな時間まで出歩くなんて、危ないじゃないか」
口調は穏やかだが、言葉の端々に鋭い棘がある。
作り笑いは無駄だ。母の様子を見れば、既にすべてを話してしまったことは明白だった。言い訳は、火に油を注ぐだけ。
「……今日は、お帰りが早かったんだね、お父さま」
「ああ。一応、二時間残業をしているが」
父は腕を組んだまま、ぶっきらぼうに答える。大手企業で管理職に就く父が、その程度の残業時間で帰宅してくる日は珍しい。
「それで? 今日はライブハウスに行ってたんだって?」
「……はい。星輝のバンドのステージがあったの」
父は眉を顰める。
優菜は、父が星輝のことを快く思っていないことは承知の上で、名前を出した。どこの馬の骨とも分からない人間のステージと思われるよりはマシだ。
「あんな野蛮な場所に、ひとりで行ったのか?」
父の声には、明確な侮蔑の色が込められていた。
「いいえ、クラスの女の子と」
「その子は、優秀な子か?」
またその尺度か——。
優菜は、心の奥底で深いため息をついた。
父にとって、人間の価値を測る物差しは、常にそれだけなのだ。
成績が良いか、悪いか。
優秀か、そうでないか。
優菜は、うんざりとした気持ちを顔に出さないように気を配りながら、静かに頷いた。
「うん」
「……そうか。母さんも、優菜を危険な目に合わせるような許可を出してしまって反省しているようだからな。今日のところは許してやろう」
優菜は特別な用事がない限り、夜の外出を禁止されている。ただし、母は、年頃の娘が友だちのステージを見にいくこともできないなんて可哀想だと感じ、この日は優菜に外出の許可を与えていた。これまでも、ときどきこっそり許してくれたことはあった。父が帰宅するまでに帰ってくることが条件で。
もう、できないのか——。
星輝に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せめて、お昼に行われるステージくらいは、見に行ってあげたい。
しかし、父はそれすらも許してはくれない。
「ただし、昼間だろうとロックのライブなど金輪際禁止だ」
震える父の声。これは理不尽な支配欲ではない。娘が危険な目に遭うことを恐れる、愛情なのだと、優菜は理解していた。
顔を上げ、父が望む完璧な「良い子」の仮面を貼りつける。
言葉にならない感謝を、表情だけで必死に演じて見せた。
「はい、お父さま。……よく、分かりました」




