第二話「ひとりでは創れない音」-4-
「ここが無の邦の音楽会場か」
外套の大柄な男——メルキーヴァはライブハウスの最後列に立っていた。スタンディングのライブハウスの中で、頭ひとつ抜けた巨体は目立っている。だが、ステージを心待ちにしている観客のほとんどは、彼のことなど気にもしていない。
当然、メルキーヴァは観客のほとんどの後頭部を視界に収めることができた。彼が見つめるのは、染谷瑞季。
メルキーヴァは、学校からずっと瑞季をつけていた。メルキーヴァの図体は目立つが、彼は普通の人間なら気づくはずもないほどの遠距離から観察していたため、瑞季が気づいていないのも無理はない。
彼の本来の任務は、ヒナを連れて帰ること。だが、仕事を急ぐ気にはならなかったので、この日は観察をするだけに留める予定だった。瑞季の家を特定し、暗くなるまで外出しなければ本拠地へ帰る予定だったが、瑞季が外出したため、追跡することになった。そして、たどり着いたのがライブハウスだった。
「いやあ、別世界の音楽とは、実に興味があるよ。じっくり聴かせてもらおうか」
メルキーヴァはほとんど休暇のつもりでこの場にいた。しかし、居心地の悪さも強く感じていた。彼の知る「音楽の場」と、この空間はあまりに雰囲気がかけ離れている。
ステージに鎮座しているマイクスタンド、ドラムセット、ギターアンプ。
メルキーヴァにはすべてが正体不明だった。
「まさか、あれは機械か? 音楽に機械を使うのか?」
その声は、暗転して盛り上がる観客の声や拍手に打ち消された。そのことに、さらにメルキーヴァは戸惑う。
「なぜ騒ぐ? 音楽とは静かに聴くものだろ。拍手はともかく、なぜ観客が声を出すんだ。周囲の者はおまえたちの声を聴きに来てるわけじゃないだろうに……。まあ、こういうのも悪くないか」
歓声の中、ステージに三人の少年少女が現れる。中央の少女がギターを掻き鳴らした瞬間、硬く甘い轟音が会場を揺らした。
観客の熱狂が、会場の温度を一段階引き上げる。
だが、メルキーヴァは思わず耳を塞いでいた。
「なんだ、この馬鹿みたいな騒音は」
ギターを鳴らした少女——高橋星輝は、笑顔を見せ、地声よりも高い声を響かせる。
「こんばんは! Magical Heartです!」
観客たちは思い思いに歓声で応える。小柄ながら大人びた少女だったが、笑顔には年相応の幼さがあった。
「今日は、新メンバーを迎えての初ライブです。自己紹介をしてもらいところだけど、口より先に演奏を見せなきゃね。聴いてください。『新たな未来に、すでに僕らは降り立った』」
ドラムがビートを刻み始める。やや気怠げのゆったりしたリズムだ。二小節目の終わり、ギターがグリッサンドをすると、三小節目からベースとともに重厚な低音リフを刻み始めた。全体のリズムはルーズだが、八分裏を強調したリフとカッティングはタイトに刻まれる。
そして、バンドは急加速する。ギターは中音域で旋律を奏で、ドラムスは先ほどの倍速で音符を刻んで疾走感を演出していた。観客のボルテージもすさまじい速度で上昇していく。
同時に、メルキーヴァの怒りも。
「なんだ! この馬鹿でかいだけの汚ない音は!」
メルキーヴァの叫びは、やはり歪んだ爆音と歓声に埋もれて誰にも届かない。
「こんなものが音楽? 信じられない! 百歩譲って、この壊れた音を良しとしても、リズムが噛み合っていないじゃん!」
彼にとって当然の違和感を、周囲の人間が気に留めている様子はない。そして、ステージに漂う不穏な空気に気づいている者も、メルキーヴァ以外にはいない。
「ほう」
ギターの少女は、ベースの少年やドラムスの少年に、細かく目配せをしてリズムをとっていた。時折観客の反応を楽しんでもいる。ドラムスの少年も同じだった。
しかし、ベースの少年はバンドメンバーはおろか、観客すらまともに見ていない。
そんな彼に、ドラムの少年が冷めた視線を送り、裏拍を刻むスネアの打音をわずかに強くした。
それを、メルキーヴァは見逃さなかった。
「面白い黒感情だ。ちょうどいい。利用しちゃおうか」
ライブハウスの熱狂は、曲が進むにつれて少しずつ盛り下がっていった。音楽に疎い瑞季でさえ、違和感があったのだ。
最初の一分は、全身が震える感動があった。
ゆったり入ってから急加速するイントロ。
リズムが消えてギターのアルペジオとボーカルだけが残るAメロ。
サビでの爆発を感じさせつつ静かに盛り上げていくBメロ。
そして、緊張感が最高潮に達したところで転調し、高音のボーカルが炸裂するサビ。
サウンドの迫力だけでなく、曲の展開も大好きだった。
しかし、何かが噛み合っていない感覚が、時間とともに浮き出るようになっていた。地盤が緩んでいるような、不安定な感覚。
ステージに立つクラスメイトの歌声は、変わらずまっすぐだ。客席に漂う奇妙な雰囲気に気づいているのかは判別できない。
曲が終わると拍手が鳴るが、本番開始時以上の盛り上がりはなかった。
観客の反応に、高橋星輝が一瞬だけ顔を歪める。しかし、すぐに彼女はいつもの笑顔に戻った。
「拍手ありがとう。次の曲は私の好きなバンドのカバーです。知っている人は、一緒に歌ってください」
ベースが奏でるリフには耳覚えがあった。しかし、
「こんな曲だっけ」
瑞季が知っている原曲は、疾走感の中にも重厚な安定感がある。
だが、今鳴っているベースは、どこか浮ついていた。
跳ねるリズム。落ち着きのないスラップ。
ドラムの星輝とギターが、困惑したようにアイコンタクトを交わす。
ふたりはベースに合わせてリズムを変え、セッションを成立させようと試みる。結果としてジャジーなアレンジには聞こえるが、歪さは拭えない。
ボーカルが重なる。
違和感の正体は明白だった。
ベースが、一歩も引かないのだ。
イントロからサビに至るまで、他の楽器を食い殺すような自己主張を続けている。ボーカルの旋律さえも塗り潰すような、傲慢な独奏。
客席がざわめき始める。
——いつもと違う。
誰かの囁きが聞こえた、そのとき。
俯いていたベーシストが、不意に顔を上げた。
その瞬間、心臓を叩くほどの不協和音がライブハウスの空気を切り裂いた。
星輝が絶句して振り返る。
ドラムとギターが、糸の切れた人形のように崩れ落ちていた。
倒れ伏す彼らを、漆黒の霧が飲み込んでいく。
霧は瞬く間に膨張し、観客のざわめきを悲鳴へと変えた。
ドラムセットの位置で実体化した影が、マイクスタンドを鷲掴みにし、数キロの鉄塊を小枝のように放り投げた。
スタンドがスピーカーに直撃し、打撃音が増幅されて爆発する。
キィィィィィン
鼓膜を食い破るようなハウリング。
誰もが耳を塞ぎ、顔を歪める。
だが、暴力は止まらない。
ベースの位置に顕現した巨人が、肩に担いだ楽器のような物体を弾いた。
強烈な重低音が酸素を弾き飛ばし、空間そのものを圧迫する。
二秒間の窒息。
その隙に、誰よりも怪物のそばにいた高梁星輝がマイクを掴んだ。
「みんな逃げろ! 早く!」
客電が灯り、非常口が開かれる。
パニックに陥った群衆が雪崩を打つ。
その濁流の中で、瑞季だけが理解していた。
——スレイヴだ。
認めたくなかった悪夢が、現実を侵食している。
彼女は流れに逆らい、視線だけを巡らせた。
あの男がいるはず。
「……いた!」
壁際。パニックに動じることなく、頭ひとつ抜けた巨体が佇んでいる。
視線が交錯する。
戦わなきゃ——。
本能が警鐘を鳴らすが、出口付近の圧力が増し、身体が押し出される。
そのとき、瑞季の手を温かいものが包んだ。
「染谷さん!」
月音優菜だった。
彼女の手は強く、迷いなく瑞季を安全圏へと引いていた。
瑞季の脳内で、ふたつの選択肢が火花を散らす。
振り払って戻るか。
このまま逃げるか。
——ここで変身なんてできない。
——スレイヴ二体なんて無理だ。
言い訳が盾となり、瑞季の足を出口へと向かわせる。
背後で獣の咆哮が轟く。
廊下を走りながら、優菜の言葉がフラッシュバックした。
——わたしは、物語が教えてくれる大切なことを、素直に受け止めているだけ。そして、教えられた通りに実行しているだけなの。物語が、わたしの一番の先生だから。
彼女は正しい。
物語の主人公なら、無力な友人を守って逃げるだろう。
なら、私は?
力があるのに逃げている私は、物語の何だ?
いや、勝てない相手から逃げるのは、間違いじゃない——。
正しさと弱さが混ざり合い、思考が泥沼化する。
ふと、脳裏に一本の線が浮かんだ。
現実と虚構の境界線。
月音優菜は、その線を引かずに生きている。だから彼女は眩しい。
じゃあ、デシリアになった私は?
もうとっくに、線の向こう側の住人じゃないか。
何を、今さら——。
「……考えるな」
いつか読んだ、少年漫画のセリフがこぼれ落ちる。
「考える前に、走ってしまえ」
思考を断ち切るように、瑞季は月音優菜の手を振り解いた。
驚愕する優菜を人の波に残し、脇道へ飛び込む。
壁の案内図が、舞台裏への道を指し示していた。
もう迷わない。
瑞季はひとり、闇の奥へと走り出した。




