第一話「ヒーロー」-1-
日曜日の朝。世界がまだ半分ねむってるみたいなこの時間は、わたしだけの魔法の時間。
テレビから楽しい歌が聞こえると、キラキラの光に包まれた女の子たちが、画面いっぱいに飛び出してくる。ピカピカの変身、まっすぐで強い目、わるいヤツをやっつける必殺技のカッコよさ。ぜんぶに、小学二年生のわたしの心は、きゅーって、ドキドキした。
「——負けない! 私たちの輝きは、誰にも消させない!」
主人公の決め台詞に、心がぎゅっと掴まれる。
そうだよ、そのとおりだよ。
テレビの前で小さくうなずき、手のひらをにぎりしめた。
お話がおわって、世界に平和がもどると、おまちかねのエンディング! 主人公たちが、フリフリのかわいい服で踊りだす。はやい歌にあわせて、みんなの場所がくるくる変わる。指のさきまでぜんぶがそろった、かんぺきなダンス。
わたしはテレビの前に座ったまま、夢中で手と足を動かした。右手をのばして、くるり。左足をちょっとだけ浮かせて、タン、タン。座ってるからヘンだけど、気持ちだけは、みんなと踊ってるつもり。
このキラキラした気持ち、ドキドキする想い。
早くともだちと話したい!
気づけば、わたしは白いモヤに包まれた教室のざわめきの中にいた。
クラスメイトの顔、チョークのにおい、窓から吹きこむ風。私はワクワクをおさえきれず、一番に話したかったともだちの元へ走った。
「ねえ、昨日の——の新しい必殺技、すっごくなかった?」
どういうわけか、自分の話した言葉が、とぎれて聞こえた。
声がはずむ。きっと、みんな同じ気持ち。どんなにカッコよかったか、エンディングのダンスがいかにステキだったか、もう、一日中しゃべっていられる!
ともだちが「見た見た!」と笑い返してくれたときだった。
とつぜん、横から影がさした。すごく、いやな声がした。
「へえ。染谷って、まだあんなの見てんの?」
ふりむくと、うでをくんだ男の子がいた。顔はぼんやりしてるのに、ニヤニヤ笑ってる口だけ、はっきり見えた。
「あんなうすっぺらい話、おこちゃましか喜ばないよ」
男の子の言葉が、とげみたいにチクッて刺さった。
違う。違う。違う。
わたしの、宝物だったのに。日曜の朝の光も、みんなの笑顔も、歌も、ぜんぶわたしのキラキラの宝石だったのに。
それを、バカにしないで——。
ぷつり、と。頭のなかで何かが切れた。
目の前がまっしろになって、まわりの音が聞こえなくなる。セミの声も、ともだちの声も。ただ、ニヤニヤしてる男の子の口だけが、ゆっくり動いて見えた。
わたしの『好き』を、バカにするな。
おなかの底から、黒くてアツいものがぐわーってこみあげてくる。気づいたら、床をけってた。のどから「うー!」って声が出て、あのムカつく顔に、両手を振り上げて——。
はっ、と息を吸い込むと同時に、中学二年生の染谷瑞季の身体が跳ねた。
心臓が警鐘のように激しく脈打っている。じっとりと滲んだ汗が、首筋を伝うのが不快だった。
部屋の電気はつけっぱなし。どうやらまた寝落ちしてしまったらしい。自室のベッドの上、横たわっていた瑞季の顔のすぐそばには、無造作にスマートフォンが転がっていた。
「何してたんだっけ、……あ、宿題」
数学の宿題から逃げるように、お絵描きの参考資料を探していたことを思い出す。
スマホのサイドボタンを押し、時間を確認する。
「二時間経ってるし」
あの不快な夢は、忘れた頃にやってきては心を蝕む呪いだった。
——あんなうすっぺらい話、おこちゃましか喜ばないよ。
今なら「お前もおこちゃまだろ」とアイアンクローを決められる。だが、あの頃の自分にとって「おこちゃま」という言葉は、最大級の侮辱だった。
あの後の記憶は曖昧だ。取っ組み合いのケンカをした光景が、断片的に残るだけ。
けれど、はっきりと覚えていることがある。
可愛い子が戦うなんて、ただの子供騙しだ——と結論づけてしまったこと。そうして瑞季は、大好きだったアニメを、自分の手で捨てたのだ。
苦い過去の記憶を反芻しているうちに、瑞季の眠気は、すっかりどこかへ吹き飛んでいた。ゆっくりと体を起こし、枕元に、いつも変わらずにそこにいてくれる、愛用の猫のぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめる。
「おはよう、ネー子」
手足はまんまるで短く、目を閉じて眠った顔をしている。五十センチほどあるふわふわした体は抱きしめ甲斐があり、悲しいときも嬉しいときも、瑞季はネー子を抱きしめて感情を共有していた。昔からお絵描きの被写体としてよく使っていて、幼児向けアニメ卒業前は翼の生えたネー子をよく描いていた。
ぬいぐるみに命が宿り、不思議な力で自分を変身させる。そして、一緒に悪い奴を倒す。
それが、幼かった頃の瑞季が描いた、ささやかで、かけがえのない未来地図だった。
「宿題やんなきゃ……」
ネー子をベッドに残し、起き上がって勉強机に戻る。
机の中央には、開きっぱなしのまま放置されている、お絵描き用のノート。まだ輪郭だけの、ローブを着た女性が描かれていた。机の隅には、邪魔者扱いされたみたいに追いやられた数学のワークブックが転がっている。
ノートを閉じ、本棚に立てた。重い気持ちで数学のワークを開く。
そのときだった。
「……わっ!?」
驚いて椅子から飛び上がる。
地鳴りのような重低音が腹の底を揺さぶったのだ。どこから響くのかも分からない。重い音に混じり、金属の扉をこじ開けるような甲高い軋み音が微かに聞こえる。
音が窓の向こう、南の方角から鳴っていることに気づいたときには、音は余韻だけとなっていた。
おそるおそるベランダのカーテンを開ける。
「真っ暗で、何も見えないや」
夜空は厚い雲に覆われ、月も星も見えない。
コンコン、と背後から控えめなノックの音がして、部屋のドアが開いた。
「瑞季、大丈夫? 今の音、すごかったけど……」
「あ、お母さん……」
顔を覗かせたのは、心配そうな表情を浮かべた母だった。一階にいた母は、二階の瑞季の部屋で、何か重たいものでも落ちたのではないかと思い、慌てて駆けつけてきたらしい。瑞季が無事であることを告げると、母は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「気をつけてね」
眉をひそめながら、再び一階へと戻っていく。
「気をつけてったって、何に気をつけたらいいんだろう」
ただのひとり言のつもりだった。
「——もちろん、『ヘヴン』の刺客に、だニャ」
「え?」
不意に、部屋のどこかから、聞き慣れない声が聞こえた。
「誰?」
警戒しながら、声のした方へと視線を向ける。
「ふぁああ、よく寝たニャ」
そいつは、こともなげにベッドの上に座っていた。
クリーム色がかった白い毛並み。その所々に、濃淡様々な茶色のぶち模様。体に不釣り合いなほど大きな顔には、ピンと立った可愛らしい三角の耳が、左右にちょこんと乗っている。手足は、ぬいぐるみ特有のまるっこくて短い形状で、尻尾はずんぐりとしている。
ネー子だ。
「ね、ねね、ネー子が動いた!? しゃ、しゃしゃしゃ喋った!?」
腰を抜かさんばかりに驚き、後ずさった。
「……む? ネー子? ……なんだニャ、その、頭のいい耳垢でも思いつきそうな安直な名前は」
声は、愛らしい見た目に反してふてぶてしい。少年とも少女ともつかぬ響きだ。
ネー子は短い前脚をぐーっと突き出し、猫のように伸びをする。短い手足のせいで、ほとんど体は伸びておらず滑稽だった。
やがて器用に前脚を畳み、香箱座りもどきの体勢になる。
「うーむ、どうにも背中が痒いニャ……。おい、おぬし」
「は、はい」
「背中を掻いてくれニャ。優しく頼むニャ」
ネー子とは、幼稚園の頃からの付き合いだった。一方的にこちらから言葉をかけ、黙って抱きしめるだけの関係だったが、それでもネー子は、いつもどんなときも、瑞季の味方でいてくれ、悲しい気持ちや悔しい気持ちを文句ひとつ言わずに受け止めてくれた。定期的にブラッシングをし、汚れたら優しく手洗いするなど、瑞季はネー子のことを本当の家族のように大切にしてきたのだ。
そんな親友が初めて喋った。
図々しい態度で。
「……うむ。もうちょっと右。あ〜そこそこ」
超常現象に困惑しつつも、言われるがまま、ネー子のふわふわとした背中をゆっくりと掻いてやっていた。すると、ネー子はとろとろに溶けた饅頭のような、だらしない顔をし、その短い尻尾をふわふわとご機嫌そうに振った。
「あ〜気持ちいいニャ」
「おじいちゃんみたい」
「うるさいニャ! 誰がおじいちゃんだニャ! 失敬だニャ!」
急にふてぶてしく「背中を掻け」とか言ってくる動物(?)には言われたくない。
そんな言葉は飲み込んで、そのまま指の腹でゆっくりと背中をさする。感触はいつものソフトボア生地だ。
「おぬし、なかなか加減というものを心得ているようだニャ。きっと、ぼくたち空の邦の精霊の背中を癒す天職ニャ。その腕があれば一生安泰に暮らしていけること間違いなしだニャ」
「あまり嬉しくないけど。……ん? 空の邦の精霊? なに? その、何かのアニメで聞いたことあるようなフレーズは」
「ぼくは何年くらい眠っていたニャ?」
「眠ってた? よく分からないけど、私が拾ってからは八年くらいかな」
「八年かニャ……」
それが長いのか短いのか、瑞季には分からなかった。
「今は夜かニャ?」
「うん」
「あっちがどうなってるかは気になるけど、奴らの居所も分からぬし、奴らが動き出してから動くしかないかニャ……」
幼い声ながらも、神妙な響きだった。
「あの、よく分からないんだけど。説明してよ」
「順に説明したいのは山々なんだけどニャ。いかんせん、寝起きで身体がしんどいんだニャ。もうちょっと寝かせてくれニャ。明日の朝に起こすよう、よろしくニャ。あと、ぼくのことは誰にも言わないように。じゃ、おやすみー」
「え、ちょっ、ちょっと! 二度寝!?」
ネー子は、すぴーすぴー、とイビキをかき始めた。
「寝るの早いな」
小さな背中が呼吸に合わせて上下している。
現実離れした光景に、言葉を失う。現状を少しずつ整理しようと試みるが、まるで整理できず、たったひとつの事実以外、何も理解することができなかった。
「こいつ、ベッドのど真ん中で寝やがった……」




