第七話 寝坊助
ーー穏やかな風が、新緑の香りを孕んで三人の間を通り抜けていく。
小鳥のさえずりが心地よく響く、清々しい朝。本来ならば、希望に満ちた旅立ちの風景であるはずだった。
だが、その中心で一人だけ、心臓がやかましく警鐘を鳴らしている者がいた。
(あ、やべっ。これ、またやらかしたか……? 二人とも、目が笑ってねえ。怒るのやなんだよなー、朝っぱらから……)
ソウは、まだ微かに残る睡魔の膜越しに、自分の置かれている絶望的な状況を把握した。
昨晩の情景が、走馬灯のように脳裏をよぎる。焚き火を囲み、干し肉を噛み締めながら交わした熱い作戦会議。「日の出と共に発つ」「起きた順番で互いを叩き起こす」……。指切りこそしなかったが、それは男同士の、否、過酷な冒険に身を投じる者たちの鋼の約束だったはずだ。
しかし今、ソウの視界にあるのは、突き抜けるような青空ではない。
仁王立ちで太陽を背負い、巨大な影を自分に落としている、二人の「激怒した大人」のシルエットだった。
ソウが起きられないのには、実は深刻な(と本人は主張する)理由がある。
彼の寝相は、もはや芸術の域に達していた。朝日が昇り、その光が地を照らし始めると、彼の体はまるで光を拒絶する深海魚のように、無意識のうちに日陰を求めてゴロゴロと転がっていくのだ。今朝もまた、彼は約束の場所から十メートルほど離れた、湿った岩影の窪みにすっぽりと収まっていた。
「ソウ。お前……まーたやったな」
ゲンの声は、低く、地を這うような重圧を伴っていた。仁王立ちのまま見下ろすその顔は、逆光で見えない。だが、放たれる殺気だけで、彼がどれほど「待たされた」か、ソウには痛いほど伝わってきた。
「ゲンさん、こりゃあ……。昨日あんなに威勢よく『一番に起きてやる』なんて言ってた理由が、ようやく分かった気がするよ。……逃げ足だけは一流、ってことだろ?」
ラルクはやれやれと首を振り、肩をすくめる。その皮肉めいた視線が、ソウの胸に突き刺さる。
「何だよ! 二人とも、アンタらはおじさんだから朝が早いんだろ! こっちは育ち盛りなんだよ! 睡眠は成長の糧なんだ、仕方ねえだろ!」
ソウは、半分は寝ぼけ、半分は気まずさからの防衛本能で、起き抜け早々に吠えた。
「それに、寝相なんだからどうにも出来ねえし! 勝手に体が動くんだよ、本人の意思は関係ねえんだ!」
逆ギレ気味に言い放ったソウの言葉に、ラルクの眉間がピクリと跳ねた。
「……誰がおじさんだ。おい、もう一度言ってみろ。俺はまだ、ピチピチの十代……、いや、二十代の入り口だぞ。お゛れ゛は゛、まだ若いんだっての!!」
ラルクの悲痛な叫びが、早朝の森に響き渡る。しかし、返ってきたのは静寂だけだった。近くを飛んでいた鳥が、驚いて羽ばたいていく。ラルクの必死の主張は、冷ややかな空気の中に空しく霧散していった。
その様子を黙って見ていたゲンが、静かに一歩、ソウに歩み寄る。
そして、その大きな掌を、ソウの華奢な肩にポンと置いた。
「ソウ。お前が言いたいことは分かった。寝相は生理現象だ。仕方ねえ……。だがな」
ゲンの目が、獲物を狙う猟師のように鋭く細まる。
「お前がもし、一人で野営をしていて、その無様な寝相で敵に寝込みを襲われたらどうする? 『すみません、寝相が悪いんで待ってください』とでも言い訳するのか? ……いや、そんな余地はねえ。お前は言い訳する前に、首を撥ねられて死ぬんだよ。覚えとけ。今は、俺たちがいる。だがお前が大人になれば、一人で荒野を渡り、一人で巨大な獲物を狩らねばならん時が必ず来る。そんな時、誰も頼れねえ。己の感覚、己の肉体のみが唯一の味方だ」
ゲンは、ソウの目を見据え、父親としての、そして一人の先達としての言葉を刻みつける。
「今はまだ、甘えていようが寝坊しようが、お前の親である以上、俺が引導を渡してやる。それが親の責任ってもんだ。……まあ、とりあえず。落とし前、つけようか」
「え、ちょっ、ゲンさん、目がマジ……」
「問答無用! ゲンコツな!」
ーー ゴンッッ!!
鈍く、そして重厚な衝撃音が、野営地から森林の奥深く、深淵の果てまで響き渡った。
「んぎゃっ!!」
ソウの短い悲鳴が重なり、彼はそのままスローモーションのように、再び地面へと沈んでいった。
「ふぅ……。今回の遅れの分は、これで勘弁してやる。だがな、次はこれの1.5倍でいくぞ。期待しとけよ?」
ゲンは、心なしかスッキリした表情で、自分の拳をふーっと吹いた。
「ゲンさん……。なんでちょっとウキウキしてるんですか。時間が押してるんですよ! せっかく昨日は無理して距離を稼いだのに、これじゃあまた今夜も野営ですよ。勘弁してください。……それに、さっきのゲンコツ。ソウ、完全に白目剥いて伸びてますって」
ラルクが呆れたように、大の字で倒れたソウを指差す。
「ゲッ、出力ミスったか。おーい、起きろ。死ぬな、ソウ!」
ゲンは慌ててソウの襟首を掴み上げると、意識を呼び戻すために、その両頬を往復ビンタで叩き始めた。
「オラッ! 起きろ! 日が暮れるぞ!」
「アバババババババババババババー、アパーーーッ!!」
高速のビンタに翻弄されるソウの口から、もはや言語とは呼べない、魂の叫びが漏れる。
「……ゲンさん、それやりすぎじゃないですか? ん? 最後、なんか芸人みたいな叫びが聞こえた気が。……ああ、気のせいか」
ラルクが眉をひそめて首を傾げている間に、ようやくソウの意識がこの世に戻ってきた。
「ぐぞっ……、お゛や゛じ……。グぞ……っ!!」
ソウは、熟れたリンゴのように真っ赤に腫れ上がった両頬をさすりながら、涙目でゲンを睨みつける。その目は、まさに親に反抗する若き狼そのものだった。
「へいへい、寝坊助さんよ。睨む元気があるなら、ちゃっちゃと荷物をまとめろ。置いていくぞ」
ゲンは鼻歌混じりに、昨晩の残骸を片付け始めた。その背中には、一仕事終えた男の妙な充足感が漂っている。
(……俺、本当にこの二人と一緒で、村まで辿り着けるんだろうか)
ラルクは、空を見上げて深く、深く溜息をついた。
正直、一人で森を駆け抜けるよりも、この予測不能な親子と一緒にいる方が、精神的にも時間的にも消耗が激しいのではないかーー。そんな不穏な予感が、彼の脳内をよぎる。
「……無事に。どうか、何事もなく辿り着けますように」
ラルクは胸元で小さく十字を切り、まだブツブツと文句を言いながら荷物をまとめる少年と、それを笑い飛ばす大男の背中を追うべく、重い足取りで歩き出した。
森の朝霧が晴れ、陽光が強くなる。三人の旅路は、まだ始まったばかりであった。
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