後編
しばらくの間、広間には音がなかった。
砕け散った氷の名残だけが、床に白く残っている。
アルヴィスは、まだ自分の左腕に触れていたエリーザの右手を、優しく握りこんだ。
力は強くない。
だが、離す気を感じられない。
アルヴィスは、ゆっくりと息を吐いた。
まるで――
何年も溺れていた者が、ようやく水面に顔を出したかのように。
「……一瞬で、止まった」
誰に言うでもなく、低く呟く。
次いで、もう一度。
今度は、確かめるように。
「俺の魔力暴走が……止まった」
アルヴィスは、自分のもう片方の手を見つめた。
今はもう微塵も乱れいない魔力の流れ。
暴走の名残すら、ない。
それは――
彼自身が、誰よりも信じられない光景だった。
「……君、いや、エリーザ・エヴァンス」
アイスブルーの視線が、ゆっくりとエリーザに向いた。
「何者だ」
責める声音ではない。
だが、わずかな緊張が含まれていた。
エリーザは、思わず肩をすくめる。
「……わかりません」
本当にそれしか言えなかった。
「私、魔力がないのです……」
もう何度も口にした”魔力ゼロ”。
それを口にした瞬間、アルヴィスの眉がわずかに動く。
「……魔力がない、だと?」
「はい。2回測定しましたが、2回ともゼロでした」
自嘲気味にそう言うと、胸が苦しくなった。
そのせいでおよそ貴族としては終わってしまった自分。
「……なるほど、あり得るな」
アルヴィスは何かに納得したように呟いた。
そして、静かに告げる。
「君は、魔力を“持たない”のではない」
「え…?で、でも、たしかに測定器には”0”と・・・」
エリーザは、息を呑む。
「”0”ではない。おそらく、エリーザ、君は、魔力を“打ち消す”存在だ」
(魔力を打ち消す・・・)
その言葉は、ゆっくりと胸に落ちてきた。
「俺の魔力は膨大で、王家の優秀な魔導士でも制御はほぼ不可能だった。
だから、恐れられ、疎まれ、ついにはこの北の地へと、追いやられた。そのせいで家族も失った」
せつなく揺れる青い瞳が窓の外の雪を写す。
「だが、君は触れただけで、止めた」
アルヴィスはエリーザとつないだ手を見つめた。
まるで――
長い間探し続けていた“答え”を、ようやく見つけたかのように。
「……俺には」
一瞬、言葉を選ぶような沈黙。
「君が、必要だ」
微かな悔恨が滲む表情をしている。
だがその視線は正面からエリーザを捉えていた。
「朝は失礼なことを言ってすまなかった」
エリーザの手を握ったまま、アルヴィスは片膝をつく。
そのままエリーザの手の甲にわずかに触れるだけの唇を落とす。
「もう一度言わせてくれ、俺には君が必要だ。助けてくれて本当に、ありがとう」
真剣な表情に、エリーザの胸が大きく跳ねた。
◇ ◇ ◇
数日後。
王城の紋章を刻んだ馬車がシュヴァリエ公爵家の屋敷に到着した。
近衛騎士を複数伴い、あからさまに「正式な案件」であることを示していた。
応接室で面会した、エリーザとアルヴィスに、
現国王の侍従であるという使者は開口一番、こう告げた。
「エリーザ・エヴァンス殿。
直ちに王都へ帰還していただきたい」
使者の声は少し傲慢を伴った。
そしてその理由を彼は隠そうともしなかった。
「最近、北方の魔力結界に”安定”を観測しました」
使者の後ろに控えている近衛騎士たちも、不満げにこちらを見ている。
まるで四の五の言わず協力しろ、とでも言うかのように。
「ここ10年ほど、つまりシュヴァリエ公爵がこちらにいらしてからは―――初めての事態です」
名前を出されたアルヴィスがギロリと視線をむけると
使者は少しひるんだ様子で続けた。
「一方、王城結界には、不安定化の兆しが観測されました。
調査したところどうやら、魔力の過剰流出を抑える必要があるようなのです」
その“必要”が、何なのか。
使者の視線が物語っていた。
「既に一部に欠けが発見され、それが王城の近くなのです。
一刻も早くエリーザ様にはご帰還いただきたいと、アレクセイ王子より伝言をあずかっております」
内容とは裏腹に、使者の声色はいまだ傲慢をにじませている。
「第一王子殿下は
エリーザ様を王都に留めなかった判断を、深く悔いておられるとのことです」
――悔いている?
あの日あの大広間で、貴族全員の前で自分を笑いものにした王子が?
(・・・バカにしないで)
王都の危機を知らされても、エリーザの胸は静まり返ったままだった。
怒りすら、湧かなかった。
ただ、遠い。
すべてが、もう関係のない世界の話のようだった。
そんなエリーザの隣で、アルヴィスは黙って座っている。
低く、簡潔な声が鳴る。
「エリーザ、君が王都へ戻りたいなら俺は止めない」
エリーザ自身に委ねる言い方。
――でも。
エリーザは気づいてしまった。
彼の指先が、わずかに強張っていることに。
暴走を抑えてからというもの、少しずつ話すようになってわかった。
アルヴィスは感情を表に出さない。
だが、その指先や視線に。
エリーザはアルヴィスの感情が少しずつわかるようになっていた。
(……この人、私を失うのが怖いのね)
その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
エリーザは、ゆっくりと首を振った。
「私は、戻りません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「私を役立たないと切り捨てた場所に、今更戻る気なんてありません」
使者たちが、はっと息を呑む。
「で、ですが、第一王子が――!」
「“都合のいい存在”、ですよね」
エリーザは、静かに言葉を継いだ。
「私は誰かの尻ぬぐいをするために、生きているわけではありません」
それは、拒絶の言葉だった。
「ここには」
エリーザは、そっとアルヴィスを見上げる。
「私を“役に立つかどうか”ではなく、一人の人間として大切にしてくれる人がいます」
エリーザはアルヴィスの手をそっと握った。
「だから、行きません」
もう、揺るがなかった。
必死に王子妃教育に食らいつき、王子の婚約者であろうとしていたあの頃のエリーザを知っているのだろう。まああの頃のエリーザにも王子に恋愛感情は一切なく、ただ、自分の存在を認めてもらいたかっただけなのだが。
エリーザの返答を聞いた使者の顔色が、みるみる青ざめていく。
憔悴して慌ただしく帰っていく馬車。
その様子をエリーザとアルヴィスは寄り添って眺めた。
その後、何度も帰還を催促する手紙が来たが、全てアルヴィスが暖炉に投げ込んでいた。
◇ ◇ ◇
王都は急速に混乱へと傾いた。
北方結界の安定と引き換えるように、王都の結界は日を追うごとに不安定化。
魔導士たちは対応に追われ、貴族のみならず庶民たちも不安にかられていく。
次第に、責任の所在が問われるようになった。
第一王子アレクセイ。
状況証拠ではあるが、彼が嬉々として婚約を破棄したエリーザ・エヴァンスこそが、
国家魔力の均衡を保つ存在だったのだ。
その事実は、隠しきれなかった。
国会で判断力の欠如を指摘され、ついに、次期国王候補から外された。
エリーザを切り捨てたことで、
彼自身が、すべてを失ったのだ。
◇ ◇ ◇
シュヴァリエ公爵家のとある部屋では
暖炉の火が、静かに揺れている。
アルヴィスは静かにエリーザの前に立ち、両手を握った。
「……君を、手放すつもりはない」
表情は乏しいが、その青い瞳ははっきりとエリーザを映していた。
「これだけは誤解しないでほしい」
エリーザの手を握る力が強まる。
「俺が君を必要としているのは、魔力の暴走を止められるからじゃない」
(え・・・?)
想定外の言葉に息を呑んだ。
「君は、自分の危険を顧みず、魔力を暴走させた俺に手を伸ばしてくれた。とても恐ろしかっただろうに」
「自分が壊れるかもしれない状況で、それでも俺を見捨てなかった」
アルヴィスの言葉に、確かな熱を感じる。
「……それを、俺は尊いと思ったんだ」
エリーザの胸に熱が伝染する。
「エリーザ、君のことを尊敬している。そして・・・」
それは、依存ではなく信頼の言葉。
そして―――
「君のことが好きだ。ずっと、俺の隣にいて欲しい」
アイスブルーが熱を宿し、少しこちらをうかがうように揺れる。
エリーザは、そっと微笑んだ。
「……私も」
小さな声で。
「私も、ずっと、アルヴィス様の隣にいたいです」
そういった瞬間、アルヴィスの腕が力強くエリーザを抱き寄せた。
(あたたかい・・・)
雪がしんしんと降り積もる冬、
堅牢な城の中で。
不要とされた二人は、初めて――
互いを“選び合う”存在になった。
毎日寒すぎるので、この話をアップしてみました。
楽しんでいただけたら嬉しいです!




