嫌だなぁとしみじみ思うことが増えてきた気がする。
大人になれば嫌いなものは減っていくものと思っていたが、必ずしもそういうものでもないらしいということを実感する今日この頃だ。
歳を取れば我慢や妥協を覚え、いわゆる社会性というやつを獲得して子供の頃のような激しい好き嫌いは鳴りを潜めると考えるのが普通だ。確かに、人間関係が複雑になってきた中学校時代あたりから周囲との軋轢を避けるために空気を読むというか、自己主張を控える方向にシフトした記憶がある。くだらない行列に並ぶことを覚えたの学生時代だ。
経済面、健康面がどんどん悪化したとしても、歳をとり大人になることで精神的には安定するだろうと高を括っていた学生時代の私は恐ろしい楽観主義者であったと言わざるを得ない。子供の頃のようにはっきりと嫌いだと感じることはめっきり少なくなったが、なんだか嫌だなぁという気持ちが小刻みに心に降り積もっているように思える。
子供の頃の好き嫌いというのは、幼く非力な生命体が生き残るために、自身の生存に有益なものとそうでないものを本能的に判別しているようなもので、そこにはある種の切実さが感じられる。
保育園児だった私がウルトラマンが好き過ぎていつもウルトラマンごっこに興じていたのも、生物として至極真っ当な行動だったと言える。生存本能からウルトラマンのような巨体と特殊能力に憧れるのは当然の帰結であり、始終ウルトラマンと怪獣のことばかり口にしているという理由で親が保育園の先生に苦言を呈されたとしても、それはやむを得ないことだったのだ。大人になった今となっては、嗜みとしてちょっと高級な変身アイテムを買うくらいで、ウルトラマンごっこからは卒業している。
好きなものはウルトラマン一本槍の保育園児だったが、嫌いなものはバラエティに富んでいた。食べ物であれば、レバー、銀杏の茶碗蒸し、エビは断固として口にすることを拒否していた。高いところに登ることになる遊具は避けていたし、昼寝と遠出を蛇蝎の如く嫌っていた。昼寝を拒否するとは、疲れた毎日を送る現在からは考えられないことだが、当時は元気あふれるやんちゃ盛りだ。昼寝は欲求不満しか生み出さなかったのだろう。
あそびの聖地といえば家の近所の公園で、その範囲を超えた場所に行くことにはかなり難色を示していたということを親から伝え聞いた。車に乗って出掛けるなんてもってのほかという子供だったらしい。子供のは様々な体験をさせたいと考える親からすれば随分と困った態度である。安上がりで家計には優しい存在だったが、将来が不安になること請け合いである。
いずれにせよ、こういった好き嫌いは子供なりの理屈や感情で組み上げられたものであり、それが正しいかどうかはともかくとして、どこかハッキリとした清々しい印象がある。
対して、大人になってからの好き嫌いには打算的というか、もう少しねっとりした印象が付き纏う。仕事での立ち回りだとか、友人や恋人との付き合いにおける優位性の確保だとか、社会における評価がどうなっているのかといった、ややこしい思惑が絡むのだ。
嫌いという気持ちにしても、絶対に間違っている、存在してはいけないというような強烈な気持ちではなく、世の中的には仕方ないのだろうけど、なんだか受け入れたくないなという中途半端な落としどころに行き着くことが多いように思える。
人間は平等であると謳いながら社会の階層に明確な分断がある現状だとか、言葉を飾ることを放棄した身も蓋もない歌や映画が流行する文化だとか、芸能人や配信者にVtuberといった人たちがお金を持った企業とグルになって荒稼ぎをしながら回している経済だとか、世の中で肯定されている物事へのモヤモヤした気持ちが日々積もっていくのである。
なぜそういったことにモヤモヤを感じるのか、冴えない人間の単なる僻みと片付けてしまえば簡単だが、これが生存本能が囁く警告なのだとしたら、この状況が続くことで何か取り返しのつかないことが引き起こされる可能性もある。自分の感情にもう少し深く向き合ってみることも大切なのかもしれない。終わり




