世界で一番長くて幸せな白い結婚
【1】
「申し訳ないのですが、あなたとは関係を持つことはできません。今宵だけでなく、一生涯」
ユリアン第五王子と私、アメリア・ローズフィールドの初夜の夜、そう告げたのは私のほうだった。
王家の花であるアザミの花と、我がローズフィールド家の花である白い薔薇が部屋中に飾られている。
部屋を満たすお香の甘い芳香。
ユリアンさまが優しく天蓋付きのベッドにエスコートしようとしたタイミングで、私は意を決して、そう告げたのだ。
新妻が初夜に口にするには、あまりにも不敬で、冷酷な言葉だっただろう。
貴族同士の、それも王家との政略結婚において、「世継ぎを作らない」という宣言は、婚姻の破棄を意味するに等しい。
罵られるだろうか。あるいは、……無理やりにでも従わせられるだろうか。
自分の想像におびえて、身体がぶるっと震える。
しかし、私のこの予想は大きく外れることとなった。
「そう言うと思っていたよ」
ユリアンさまは優しく微笑んでいた。
怒気を含まないその表情に、私は呆気に取られてしまう。
「聞いているよ。教会での誓いのこと」
「し、知っていらしたのですか?」
「ああ。政略結婚とはいえ、これから生涯を共にするパートナーだ。それくらいのことは知っている」
ユリアンさまが窓を開けると、主役が去った宴の余韻を楽しむ参加者たちの笑い声と楽団の演奏がかすかに聞こえる。
「アメリア。キミが十歳の頃、お父上のバルガン伯爵が流行り病で生死の境をさまよったそうだね」
「……はい」
いまでは国の英雄、軍神とすら讃えられる父だが、その時は病に侵され、もはや立つことも、話すことすらできなくなっていた。
医者から「お別れの準備をするように」、とすら告げられたほどに。
「その時、キミは教会に三日三晩こもり、食事も摂らずに祈り続けた。『お父様を助けてください。もし助けてくださるなら、私は一生、この身を神さまに捧げます』と」
その通りだった。
幼かった私は、ただ必死だったのだ。
父を失いたくない一心で神さまと契約を交わした。
――そして奇跡は起きた。
父は嘘のように回復し、言葉を発し、食事を口にするようになり、そして、再び立ち上がり、その一年後には戦場で数々の武勲を立てて『英雄』と呼ばれるまでになった。
私の身は神に捧げられた供物。王子とはいえ、手を出すことはできない。
「知っていて、なぜ私を……? 王家の方なら、世継ぎを産める女性を選ぶべきではありませんか」
窓から月を眺めていたユリアン殿下は振り返り、真っ直ぐに私を見つめる。
月光のような金色の髪と、夜を映したかのように深い瑠璃色の瞳。
「キミの父上は国の英雄。その娘を娶ることで、王家の人気は盤石なものになる。第五王子である私には世継ぎが正妻の子である必要はさほどない。別妻との子でもかまわない。……それが陛下、我が父、ベネディクト・グランドールの意思だ」
なるほど。
すべてを知ったうえで……。さすがは王家。
ずっと秘密を抱え続けていた私の胸が軽くなった気がした。
と同時に一抹の寂しさも感じてしまったのだが……。
私の心の小さな揺れを感じ取ったかのように殿下が優しく微笑む。
「でもね、それだけじゃないんだ。僕は、キミのその性格に惹かれたんだよ」
「私の、性格……?」
「学園でも、キミはいつも誰かのために動いていたね。目立たない場所で、怪我をした下級生の手当てをしたり、花壇の手入れをしたり。僕はそれを遠くから見ていて……ずっと、素晴らしい人だと思っていた」
よく知っている……!
学年は二歳違ったため、ユリアンさまはすぐに卒業してしまい、貴族学校ではほとんど交流がなかったのに。
思い返してみれば、私が一年次の頃、何度か視線を感じた気がする。
まさかあの視線の主がユリアンさまだったとは。
「私が二十一歳、キミが十八歳、まだお互いに若い。ここは親の意思に従って、しばらくこのままの関係を続けないか?」
「……分かりました」
私は深く息を吸い込み、覚悟を決めてユリアンさまを見つめ返した。
「では、お言葉に甘えて、白い結婚生活をいたしましょう。三年後、ユリアンさまに正式に離縁する権利が発生するまでの間」
この国サン・ローラン王国の法では、王族や貴族の婚姻において、三年間世継ぎが生まれなかった場合、それを理由に『白い結婚』として離縁を申請することができる。
そして身を神に捧げた私が世継ぎを生むことはない。
つまり三年後に殿下の名誉を傷つけることなく、離婚することができるのだ。
ただちに離縁するよりもはるかに良い判断だ。
王家のためにも、私の家、ローズフィールド伯爵家のためにも殿下のためにも。
それまで、私は精一杯、妻としての、いや、パートナーとしての務めを果たそう。
「アメリア、これから三年間、よろしく頼むね」
「こちらこそ、神に捧げた身ですが、殿下に精いっぱいお尽くしいたします」
そう言うと、ユリアンさまは嬉しそうに目を細めた。
こうして、私たちの『期間限定』の夫婦生活が幕を開けたのだった。
【2】
結婚を機に、臣籍降下によりユリアン・グランドール新公爵となった夫には新しい領地が与えられた。
新公爵領テラ・ノヴァ――。
その地はその名に反して古び、枯れ果てた土地だった。
馬車の窓から見える景色は、どこまでも続く赤茶けた荒野。
普段から雨の少ない地域なのだが、今年は特に日照りが続き、すっかり田畑も荒れ果ててしまっているのだという。
挨拶に訪れた領民たちの顔にも諦めと疲労の色が濃く滲んでいた。
しかし、その顔を見て、私の心に芽生えたのは落胆ではなく、戦う意欲だった。
学校生活でもそうだった。私は人が困っている顔を見ると、むしろやってやろうという気持ちになる質なのだ。
到着した翌日、私はドレスではなく、動きやすい麻のシャツと革のズボンに着替え、自ら鍬を持って荒野に出た。
「アメリア、キミには農家の経験があるのかい?」
「ありません。でも、じっとしていられなくて。なにかできないか、農家のみなさんに聞いてきます」
私がそう言うと、ユリアンさまは声をあげて笑う。
「それはいい! 我々のような素人では農作業の助けにならないかもしれないが、なにもしないよりはずっといい。私も行こう」
ユリアンさまが従者に農作業しやすい作業着を用意するように伝える。
「アメリア、さっそくキミに教えられた。領主が汗を流さずに、誰がついてきてくれるものか」
ユリアンさまが新公爵家としてこの地を与えられたのは、おそらく王家の配慮だ。
ユリアンさまは第五王子。世継ぎはあくまで第一王子。あまり存在が大きくなられては困る。
英雄の娘を娶って王家と軍のつながりをアピールしては欲しいものの、実権を持つのはよろしくない。英雄と王家の象徴としてこの地で静かに暮らしてほしい。そういう意図だろう。
だからこそ、このような貧しい田舎を領地とされたのだろう。
しかし、この課題山積の状況が私とユリアンさまの絆をかえって強くした。
ユリアンさまと私は地域の有力な農家を訪ね、現在抱えている問題について長く詳細に語り合い、解決策を模索する。
水が不足しているのであればと、私有地に流れる泉を開放し、そこから水路を引いた。
さらには商人に掛け合い、乾燥に強い穀物を探すよう命ずる。
そして、私たちは時間があれば自ら鍬を手に取り、大地を耕した。
ユリアンさまの絹のように白い肌も瞬く間に日に焼け、小麦色になり、その腕は太くなり、そこかしこに虫刺されの跡や傷ができている。
「さあ、いよいよ蕎麦を植えるぞ」
蕎麦とは私が遠方から取り寄せた穀物で、乾燥し、夏は暑く、冬は寒いこの地に適しているらしい。
「まずは屋敷の実験農場に植える。村のみんなが手伝いに来てくれるとのことだ」
私が意気揚々と語るユリアンさまを見つめていると、「どうした?」と不思議そうな顔をする。
「いえ、すっかりたくましくなられたと思いまして」
「はは、たしかに。名乗らねば、とても第五王子とは思われないだろうね」
ユリアンさまは自虐的に笑って見せるが、私にはその姿は王宮にいた時よりも、ずっと気高く、眩しく見えたのだった。
γ γ
――共に語り、共に苦しみ、共に励まし合い、日々は忙しく過ぎていく。
寝室は別だったが、私たちはそれ以外の時間を濃密に過ごした。
私たちが耕した大地がゆっくりと豊かになったように、私とユリアンさまの関係も豊潤さと複雑さを育んでいく。
そして――。
ついに三年目の結婚記念日の夜を迎えた。
執務室に呼ばれた私は、用意していた書類を胸に抱いていた。
「三年間、本当にありがとうございました。殿下のおかげで、私も領主の妻として多くのことを学ばせていただきました」
震える指先を隠しながら、私は書類を差し出した。
書類の内容はもちろん離縁の申請書。
教会にこの婚姻が白い結婚であったことを申し立て、この離婚が正当なものであることを訴える書類だ。
「これで世間体を気にすることなく、正々堂々と離縁できますね。すでに私のサインを記入してあります」
懸命に笑顔を作って見せるが、胸が張り裂けそうだった。
愛している。いつの間にか、私はこの方を、一人の男性として深く愛してしまっていた。
だからこそ――。
だからこそだ、神に捧げた身体を持つ私が、これ以上彼の隣にいてはいけないのだ。
「もう三年か」
ユリアンさまは私の手から書類を受け取ると、しみじみと嘆息する。
「はい。あっという間でした。私にとって実り多き三年間でした。あとはご自由に後妻をお迎えください」
「そのことなんだが……」
「はい……」
ユリアンさまが書類に落としていた視線を私へと向ける。
「アメリア、……よかったら、もう三年、この関係を続けないか?」
「え……?」
予想外の言葉に、思考が停止する。
「キミの言う通り、この三年間は実り多きものだった。だから……キミと一緒にこの実りを収穫したい」
実際に領地の経営は軌道に乗り始めていた。
遠方の国から取り寄せた蕎麦、見事にこの地に適合し、ようやく本格的な栽培と収穫が可能になったのだ。
それ以外にもイモ類など土地に根付かせる実験は続いている。
「ここでキミと離れてしまっては、収穫の喜びを分かち合うことができない。それは寂しいことじゃないか」
ユリアンさまは、私の書類にサインする代わりに、手元の引き出しから一枚の紙を取り出し、テーブルに置いた。
それはユリアンさまの自筆で認められた宣誓書だった。
「……これにサインしてほしい」
宣誓書の内容はユリアンさまと私、双方が異論なく、白い結婚をさらに三年続けることを同意するといった内容だった。
すでにユリアンさまのサインがなされている。
「肉体的な繋がりはなくとも、僕たちは誰よりも心が通じ合っていると思っている。それとも、君は僕といるのが苦痛かい?」
「まさか! そんなことはありません!」
私は思わず叫んでいた。苦痛なはずがない。
この三年間は、私の人生で一番充実した、輝くような日々だったのだから。
「よかった、これで私は蕎麦を独り占めするために離縁したとの噂を流されずに済む」
そう言うと、ユリアンさまは手入れをせずにすっかり長髪になってしまった、髪を手櫛で荒々しくかき上げるのだった。
【3】
私たちの二度目の〝三年間〟は、前回よりもさらに濃密で、そして甘いものだった。
この三年間でテラ・ノヴァ公爵領の景色は一変していた。
かつて赤茶けていた荒野は、今や一面の白い花畑となっていた。蕎麦の花だ。
初秋の乾いた風が吹くと、白い波がさざめくように揺れ、私たちの元に爽やかな香りを運んでくる。
この地を「不毛の大地」と呼ぶ者はもういない。蕎麦だけでなく、共に試行錯誤して植えた根菜類も豊作で、領民たちの生活は見違えるように潤っていた。
そして、結婚から六年目が近づきつつある秋の夜のこと。
「アメリア、こっちだ。いまなら誰もいない!」
ユリアンさまが、まるで悪戯を企む子供のような顔で手招きをする。
私たちは使用人たちを全員下がらせ、二人きりで厨房に忍び込んでいた。
「もう、ユリアンさまったら。公爵自ら夜食作りだなんて、料理長が知ったら泣いてしまいますよ」
「いいじゃないか。これは僕たちの〝収穫祭〟なんだから」
そう言ってユリアンさまが取り出したのは、挽きたての蕎麦粉だ。今夜は二人で、この領地の名産となった蕎麦粉を使ったガレットを作るのだ。
蕎麦粉のガレット、農作業の休憩中に村の女性たちから教わった、この地域の新しい郷土料理になりつつあるものだ。
かまどの火加減を調整し、ユリアンさまが生地を薄く広げる。ジュワッという音と共に、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がった。卵を落とし、チーズとハムを乗せ、四隅を折りたたむ。
「上手すぎです、ユリアンさま、こっそり練習してましたか?」
「ふふ、実はイヴァンおばさんのお家で特訓してもらったんだ。どうだ、すごいだろう」
「第五王子ともあろうお方が、農家のおばさまに特訓を願い出ないでください」
と言いつつ、私も隣のかまどで、この地方の名物である、野菜と干し肉のスープを作っている。もちろん、これも農家のおばさま方に教わったものだ。
「自分たちが作った蕎麦粉と、自分の鶏が生んだ卵でガレットを作る。この楽しみを料理人に取られてたまるか。これは我々夫婦の特権だ」
並んで料理をする私たちの距離は近い。ふとした拍子に肩が触れ合い、狭い場所を通るときは自然に腰に手を回し、後ろを通る。
もちろん、それ以上のことはない。けれど、そのたびに少し心が躍る。
六年も経つのに色あせることのないときめきだ。
こうして、慣れた分業で焼き上がったガレットとスープを作り、私たちは小さなテーブルで向かい合った。
一口食べると、素朴ながらも力強い大地の味が口の中に広がった。私たちが汗を流し、悩み、育てた味だ。王宮で食べたどんな豪華なフルコースよりも美味しく感じられた。
「……美味しいね」
「はい、とっても」
自作の料理を囲むと、自然に会話は弾む。味の評価や、さらなる改善点、そして最近の農場の様子、今後の計画。話は尽きることはない。
六年も経つと貴族の夫婦はたいてい会話がなくなるものだと聞いたが、かえって白い結婚が功を奏しているのだろうか……。
よくわからないが、そういう夫婦はとりあえず、蕎麦粉でも挽くとよろしいかと思います……。
とにかく、私たちは笑い合いながら食事を終え、温かいお茶を飲んでいるタイミングでユリアンさまが切り出した。
「また、三年が経つね」
六回目の結婚記念日が近づいていた。
本来なら、今度こそ離縁の話が出るはずだ。けれど、私の心臓は不思議と落ち着いていた。以前のような悲壮な覚悟はもうない。
「ええ、そうですね」
私が穏やかに返すと、ユリアンさまはティーカップを置き、真剣な眼差しを向けてきた。
「もしよかったら……あと三年、延期してもらえないかな」
「理由は、また〝独り占めしていると思われたくない〟ですか?」
私が少しからかうように聞くと、ユリアンさまは照れくさそうに頬を掻いた。
「最近、キミと二人で品種改良している〝乾燥に強い小麦〟があるだろう? あれが実るところを、どうしても二人で見たいんだ」
それは、私たちが次の目標として掲げている夢だった。
蕎麦だけでなく、主食となる小麦がこの地で育てば、テラ・ノヴァは完全に豊かな穀倉地帯として生まれ変わることができる。
「……はい、喜んでお受けします」
私は迷わず答えた。三年ごとの契約更新。それは、私たちが互いを必要とし、共に未来を見ていることの証。私はこの奇妙で愛おしい関係を、心から愛していた。
「ありがとう、アメリア。次の三年間も、よろしく頼むよ」
ユリアンさまが嬉しそうに私の手――ではなく、空になった皿に触れた。
「皿は洗っておくよ」
そう言うと、ユリアンさまは皿を持って、調理場へと消えていく。
もちろん、皿を洗うことなど料理番の新人にでも任せればいい。
しかし、ユリアンさまは自分で料理をしておいて後始末は他人にさせるというのが、あまり好きではないらしい。
その不器用な優しさに、私はまた恋をするのだった。
【4】
そして、さらに三年後。私たちの結婚生活はそろそろ九年目を迎えようとしていた。
公爵家のテラスから見下ろす景色は、黄金色の海だ。
風が吹くたびに、重たい穂先がさわさわと音を立てて波打つ。
かつて不毛の荒野だったテラ・ノヴァは、今や見渡す限りの小麦畑へと姿を変えていた。
私たちが夢見た『乾燥に強い小麦』が、ついに実ったのだ。
「壮観だね、アメリア」
「はい……本当に」
隣に立つユリアンさまの横顔は、太陽に焼けてさらに精悍さを増し、身体は一回り逞しくなっている。
九年という月日は、青白かった貴公子を大地に根差した頼もしい領主へと変えたのだ。
もちろん、順風満帆なだけではなかった。
小さなトラブルはいくつもあった。
あれもそんなトラブルのひとつだろうか……。
私はひとつの出来事を思い出す。
γ γ
それは、小麦の栽培がようやく軌道に乗り始めた、去年、白い結婚八年目の夏のことだった。
王都から視察に来ていた有力貴族の娘、パメラ侯爵令嬢が、突然領主館を訪れたのだ。
聞くとパメラ侯爵令嬢はユリアンさまの幼馴染なのだという。
彼女は煌びやかなドレスに身を包み、農作業帰りの私を扇子越しに冷ややかな視線で見下ろした。
「ごきげんよう、アメリアさま。……いえ、〝うまずめ〟の公爵夫人とお呼びした方がよろしいかしら?」
彼女の声は、わざとらしく周囲の使用人たちにも聞こえる大きさだった。
「あら、失礼。でも事実ですわよね? 結婚して八年、いまだにお世継ぎがいないなんて。噂では、夜を共にすることすらまともにしていないとか」
彼女の実家は王都でも有力な派閥で、以前からユリアンさまの後妻の座を狙っているという噂は聞いていた。白い結婚だという情報を嗅ぎつけ、ここぞとばかりに乗り込んできたのだろう。
「ユリアンさまもよくこんなに長くかりそめの結婚を続けてこられました。しかし、もう十分にその責務を果たされたのでは? 戦争も休戦状態。戦争の英雄はいまや存在感を失っています」
五年ほど前、長く続いた隣国との戦争が停戦となり、平和ムードが国中を覆っていた。
たしかにお父さまの役割は終わったように思える。
それは国にとって非常に喜ばしいことだが。
「もはや、政略結婚は必要ないでしょう。私なら、すぐにでも可愛い跡取りを産んで差し上げられますわ」
彼女は鋭利な刃物のような視線を私へと向ける。
反論できなかった。神への誓いがある以上、私は子供を産めない。
貴族の義務を果たしていないのは事実だ。
私は屈辱で唇を噛み締め、反論の言葉もなく俯く――。
と、なるには、少し時間が経ち過ぎていた。
「パメラさんでしたっけ? たぶらかしに来るのが遅すぎます」
私は平然と言い返す。口元に余裕の笑みをたたえながら。
実際、私が傷つき、うろたえるには、彼女は登場のタイミングが遅すぎた。
変な話だが、もはや私たちの白い結婚はすでに盤石となっていたのだ。
「たしかに、遅かったかもしれないね。まあ早く来られても困ってしまうけど」
あっけにとられるパメラさん、その表情を見つめながらユリアンさまは苦笑している。
「ど、どういうことです?」
「アメリアの言葉の通りだ。私が気移りしてしまうんじゃないのかとアメリアにヤキモキさせるには遅すぎるよ。見なよ、この余裕を」
そんな風に言われると少々気恥ずかしくはありますが……。
「ちなみに周りから攻めても無駄だよ。私が離縁するつもりも、別妻を持つつもりがないことは、家族には常々伝えているし。納得もしてもらっている」
実際に何度も第二婦人を持ってはどうかとの提案はあった。
しかし、ユリアンさまはその度に怒りを見せながら、その提案を断り続けた。
あまりにユリアンさまが不機嫌になるので、数年前から、陛下ですらその話題には触れなくなっているのだ。
「アメリアは荒れ果てたこの地に共に立ち、泥にまみれて花を咲かせた唯一無二のパートナーだ。彼女がいなければ、今のテラ・ノヴァはない。白い結婚などはもはや些末なことなんだ」
ユリアンさまはそう言うと、カップを手に取りゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
「パメラ、せっかく来たのだから、蕎麦粉のガレットを食べていかないか? 今年は蕎麦の実の出来がよくてね。このガレットが私とアメリアの代表作なんだ」
「い、いえ……。結構です」
パメラ令嬢は顔を真っ赤にして、逃げるように去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、私は少し切ない気持ちになる。
ユリアンさまと私の関係は盤石。それは疑いようもない。
それでも私の心には『申し訳ない』という気持ちが消え去ることはない。
……この八年間ずっと。
「ユリアンさま……本当によかったのですか?」
ほとんど無意識にその思いが言葉となって漏れてしまう。
その言葉にユリアンさまはむっとした顔になる。
「なにを言う。私に愛する妻を裏切れと言うのか? そのような言動はいかに愛する妻であっても許さないぞ」
少々、いえ、だいぶ妙なことを、堂々たる態度で言うユリアンさま。
自分でも言った後にちょっと変だと気づいたのか、小首をかしげている。
しかし、その妙な言葉は、私の胸に温かく沁み渡った。
――愛する妻。
領地経営のパートナーとしてではなく、妻として見てくれているのだと、痛いほどに伝わってきた瞬間だった。
γ γ
こうして思い返すと、たいしたトラブルではない。むしろ他人に話したらノロケだと受け取られてしまうかもしれない。
とにかく私とユリアンさまの白い結婚は三度目がもっとも順風だった。
「そうだ、そろそろ、九年が経つね」
「はい、あとひと月ほどですね」
「また、契約を更新しようと思っている。また三年、白い結婚をお願いできるかな?」
「もちろんです」
私とユリアンさまの契約はつつがなく更新される。
そう思っていたのだが――。
【5】
その知らせは、あまりに突然だった。
王都からの早馬が、私の父、バルガン・ローズフィールド伯爵の訃報を伝えたのだ。
休戦協定を結んでいたはずの隣国が、不意に協定を破り侵攻を開始した。
父はわずかな私兵を率いて、ただちに前線へと赴き、国軍の準備が整うまで孤軍奮闘し、その命と引き換えに反撃の時間を十分に稼いだ。まさに英雄にふさわしい、立派な戦死だった。
葬儀の場所は王都の大教会。
奇しくも私が父の無事を祈り、誓約をささげた場所だった。
まさかその教会の門を喪服でくぐるなんて……。
国葬として執り行われた葬儀を終え、私たちはテラ・ノヴァの屋敷へと戻ってきた。
リビングで二人、静かにお茶を飲む。
立ち昇る湯気が、冷え切った心を少しだけ溶かしてくれる気がした。
「アメリア、大丈夫かい?」
「はい。ここに戻ってきたら随分と落ち着きました」
葬儀の場で泣き続けていた私をユリアンさまが気遣ってくれる。
「……私の祈りは、宙ぶらりんになってしまいました」
十歳のあの日、私は自分の身を捧げ、神さまに「父の命をお救いください」と願った。
果たして、その願いは神に届き、父の病は快癒した。
(でも、私の願いはそれきりで終わり? その後の父を守ってくれることはないの……?)
もちろん神さまからの答えなどないし、私も神さまに裏切られたなどとは思っていない。
ただ、こうして愛する家族を失ってしまうと、どうしても、やるせなさが残る。
「神さまもずいぶんとケチなことをなさるのね」
私が思わず心の内を吐露すると、ユリアンさまは優しく首を横に振った。
「それについてだけど、司祭さまからあるものを預かっているんだ」
ユリアンさまが懐から取り出したのは、手紙のようだった。
「これはお義父上が作成した祈願文だ」
震える手で受け取り、中を開く。
そこには、見慣れた父の力強い筆跡で、神への祈りが書かれていた。
――偉大なる神よ。せっかくあなたに救っていただいた命を再び戦地に晒す愚をお許しください。
私は戦の勝利をあなたに願わない。それは自らの力で勝ち取ろう。
私の願いはただひとつ。
どうか、私の娘を解放してやってほしい。
あなたに身を捧げ、十五年以上、我が娘アメリアは清い身を保ち続けた。もう十分だとお思いにはならないだろうか?
この命はあなたに返上する。どうか、アメリアの身を誓約から解放していただきたい――。
「こ、これは……」
「誓約の上書き、異例の願いだそうだ。そして、実際にお義父上は亡くなった。司祭さまが言うには、『願いが神に届いたのであろう』と」
「……お父、さま……っ」
声にならない嗚咽が漏れた。
父は、私のために死んだのだ。英雄としてではなく、ただ一人の父親として、娘の自由を取り戻すために、その命を神に差し出したのだ。
「アメリア、キミの身体は神との誓約から解き放たれた。長い間よく頑張ったね」
私はその言葉を噛み締めるように、何度も頷いた。
悲しみと、それ以上に大きな父の愛に包まれて、涙が止まらなかった。
γ γ
ひとしきり泣いた後、私は腫れた目をこすりながら顔を上げた。
窓の外には、父が守ってくれた平和な月夜が広がっている。 そして今日は奇しくも、九年目の契約更新の日だった。
「アメリア。……契約の更新をしようか」
三年ぶりに耳にする言葉。しかし、その後に続いた言葉はこれまでと異なるものだった。
「今回の更新は、無期限でお願いしたい。……一生、僕のそばにいてくれないか」
ユリアンさまの真っ直ぐな言葉。それは私が九年間、心のどこかで待ち望んでいた言葉だった。
「……はい、喜んでお受けします」
父の死を悼んで泣きはらした頬に今度は喜びの涙がつたう。
私はその涙をぬぐい、ユリアンさまを見つめる。
「でも、ひとつだけ疑問があるのです」
どうしてもこれだけは聞いておきたい。この九年間ずっと怖くて尋ねることができず、胸の奥にしまい続けていたひとつの疑問。
「どうしてユリアンさまは、ずっと白い結婚を続けてくださったのですか?」
九年は長い。あまりにも長すぎる。
しかも、誓約が解けるなんて保証はどこにもなかったのだ。一生、指一本触れられないまま終わる可能性だってあったはずだ。
「こんなに長い間、しかもこんな形で終わるなんて予想もできなかったのに……」
私の問いに、ユリアンさまは少し照れくさそうに頬を掻いた。
「理由か……とても単純なことだよ」
「単純?」
「……私はキミに一目惚れしていたんだよ。学生時代にね」
「えっ……」
ユリアンさまは懐かしむように目を細める。
「学生時代。あまり話すことはなかったけど、何度か見かけることはあったよね」
「は、はい」
「あのとき私は恋に落ちていたんだよ。話しかける勇気は持てなかったけどね」
随分と昔、私はユリアンさまから学生のころ、私を見ていたと告げられたことがあった。それは政略結婚のための下調べだと思っていたのだが……。
まさか、恋心だったなんて!
「アメリア。ずっと好きだった……。いまでも愛している」
ユリアンさまはそう言うと私に向かってそっと手を差し出す。
差し出された手の意図を私はすぐに察した。
――これはベッドルームへのエスコート。
私の脳裏に、白い結婚を告げた日の夜のことがはっきりと浮かぶ。
あの日は拒絶したエスコートを今宵は喜んで受ける。
窓の外ではあの夜のような宴の騒がしさはない。柔らかな夜風が、豊かに実った麦の穂を静かに揺らしていた。
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