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お社の番人

作者: しおり 雫

お社の番人



山道を車で三時間。そこからさらに徒歩で一時間。


俺の名前は宮本聡、28歳のフリーライターだ。

オカルト系や民俗学系の記事を書いて生計を立てている。


今回の取材対象は「柿ノ里」という廃村だった。


30年前に住民が全員いなくなった集落。

公式には「過疎化による自然消滅」とされているが、実際には一夜にして村人全員が姿を消したという噂がある。


そして今、その村には一人だけ人が残っている。

御鎮神社の番人、千代ばあさんだ。


村への道は完全に荒れ果てていた。

倒木が道を塞ぎ、草木が生い茂っている。

見るだけで誰も来ない場所だということがよく分かる。


ようやく村に辿り着くと、そこには朽ち果てた家々が並んでいた。

屋根は崩れ落ち、壁には蔦が絡みついている。


異様なほど静かだった。

虫の音も、鳥の声も聞こえない。

村の奥に進んでいくと、急に視界が開けた。


そこには神社があった。


他の建物とは違い、神社だけが不自然なほど手入れされている。

境内は掃き清められ、社殿の朱色も鮮やかだった。


「誰じゃ」


突然、背後から声がした。

振り返ると、小柄な老婆が立っていた。

腰は曲がり、真っ白な髪を後ろで束ねている。


「あの、取材で来ました。宮本と言います」


「ああ、話は聞いとる」


千代ばあさんだ。

事前に連絡していたので、俺のことは知っているはずだった。


「遠いところ、よう来たのう」


「この村を守っている最後の番人の記事を書きたくて」


「そうじゃな、わしが最後じゃ」


千代ばあさんは神社を見上げた。

「この神社を守っとるのは、わしだけじゃ」


「30年も一人で?」


「そうじゃ。村の者はみな出て行った。でもわしは出られん」


「出られない?」


「番人じゃからな。誰かが守らんと」


千代ばあさんは俺を見つめた。

その目には、疲労と...何か別の感情があった。


「今夜は泊まっていきなさい。話はゆっくり聞かせよう」


「ありがとうございます」


神社の横には小さな建物があった。

社務所だったものを住居にしているらしい。


中は質素だったが、清潔に保たれていた。


「夕飯まで少し休んでおきなさい」


部屋に通されて、俺は荷物を置いた。

窓から外を見ると、神社の本殿が見えた。

そしてその奥に、小さなお社があった。


石垣に囲まれた、古びた木造の小さな社。

扉には太い注連縄が張られている。


あれが御鎮神社の「お社」か。


夕食は質素だった。

おにぎりと漬物、それに味噌汁。


「千代ばあさん、あのお社は何を祀っているんですか?」


俺が聞くと、千代ばあさんは箸を置いた。


「何を、と聞かれてもな」


「神様の名前とか...」


「名前なんぞない。ただ、封じられとるだけじゃ」


「封じられている?」


「そうじゃ。大昔から」

千代ばあさんが窓の外を見る。


「わしの仕事はな、毎晩あのお社の前で経を唱えることじゃ」


「経を?」


「そうせんと、中のものが出てくる」


俺は背筋が寒くなった。


「中のもの...とは?」


「さあな。わしも見たことはない」


千代ばあさんは立ち上がった。


「もうすぐ日が暮れる。準備せんとな」


夜になった。

千代ばあさんは古びた経文を手に、お社の前に座った。

俺は少し離れた場所から、その様子を観察していた。


「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン...」


経を唱え始める千代ばあさん。


最初は何も起こらなかった。

しかし、十分ほど経った頃だった。


お社から音がした。


「ドン」


重い音。

まるで内側から扉を叩いているような。


俺は息を呑んだ。


「ドン、ドン」

音が続く。


千代ばあさんは構わず経を唱え続けている。


「ドンドンドンドン」


叩く音が激しくなった。


注連縄が揺れている。

扉が、内側から押されているのが分かった。


何かがいる。


確実に、お社の中に何かがいる。

俺は立ち上がりそうになったが、すくんで足が動かなかった。


千代ばあさんの経の声が大きくなる。


すると、叩く音が弱まった。

そして、ゆっくりと止んでいった。


千代ばあさんはその後も一時間ほど経を唱え続けた。


お社からは、もう音は聞こえなかった。


「終わったか」

千代ばあさんが立ち上がる。


「毎晩、あれじゃ」


社務所に戻ると、千代ばあさんは湯を飲んだ。


「何が...中にいるんですか?」


俺が聞くと、千代ばあさんは首を振った。

「知らん。代々の番人も、誰も知らん」


「でも、出てくると?」


「ああ。経を唱えんと、封印が弱まる。そして...」


千代ばあさんが俺を見つめた。


「30年前、村人が消えた夜。あの夜、番人が死んだんじゃ」


「番人が?」


「わしの父じゃ。心臓の病でな、突然倒れた」

千代ばあさんの目に、悲しみが浮かんでいた。


「その夜、経を唱える者がおらんかった。わしが気づいた時には...」


「村人が消えていた」


「そうじゃ。朝になって見てみると、村は空っぽじゃった」


俺は言葉を失った。


「それ以来、わしが番人をしとる。もう何十年もな」


「一人で...ずっと?」


「もう、誰も代わりがおらん」

千代ばあさんは窓の外を見た。


「でも、そろそろ限界じゃ」


その夜、俺は眠れなかった。


お社から聞こえた音。

あの重い、叩く音。


何が封じられているのか。

そして、村人はどこへ消えたのか。


翌朝、千代ばあさんの様子がおかしかった。


「ゴホッ、ゴホッ」

激しく咳き込んでいる。


「大丈夫ですか?」


「ああ...大丈夫じゃ」


しかし、顔色は悪かった。

唇も青ざめている。


「医者を呼びましょうか」


「この村に医者は来ん」


千代ばあさんが座り込んだ。


「すまんが...水を」


俺は急いで水を持ってきた。

千代ばあさんは震える手で水を飲んだ。


「もう...長くはないかもしれん」


「何を言ってるんですか」


「わしが死んだら...」


千代ばあさんが俺を見つめた。


「誰がお社を守るんじゃ」


その言葉に、俺は返答できなかった。


午後になっても、千代ばあさんの体調は回復しなかった。

むしろ悪化していた。


「宮本さん」

千代ばあさんが俺を呼んだ。


「頼みがある」


「何ですか?」


「今夜...わしの代わりに経を唱えてくれんか」


「え?」


「わしには...もう無理じゃ」

千代ばあさんが経文を差し出した。


「読めばいい。ただ読み続ければいいんじゃ」


「でも、俺は...」


「頼む」

千代ばあさんの目に、懇願の色があった。


「一晩だけでいい。明日になれば、わしもましになるじゃろう」

俺は迷った。


これは取材対象に過ぎない。俺には関係のないことだ。


でも...。


「分かりました」

俺は経文を受け取った。


「ありがとう」

千代ばあさんが安堵の表情を浮かべた。


「唱え続けるんじゃ。何が起こっても決して止めてはいかん」


夜が来た。


俺は経文を手に、お社の前に座った。

秋の夜は冷える。

吐く息が白かった。


「オンアボキャベイロシャノウ...」

経を唱え始める。


最初は何も起こらなかった。

しかし、十分ほど経った頃。


「ドン」


来た。


お社の中から、叩く音。


俺の手が震えた。


「ドン、ドン」

音が続く。


怯えずに経を唱え続けなければ。


「マカボダラマニハンドマ...」

声が震えている。


「ドンドンドンドン」


叩く音が激しくなった。


お社の扉が揺れている。

注連縄が軋む音がした。


「ジンバラハラバリタヤウン...」

必死で経を唱える。


その時だった。


「ギィ...」

扉が開き始めた。


わずかに、ほんの数センチだけ。

でも、確実に開いている。


隙間から、何かが見えた。

暗闇。


いや、暗闇ではない。

何か...蠢いているものが…

俺は本能からか、見てはいけないものと感じた。


「オンアボキャベイロシャノウ!」

俺は大声で経を唱えた。

声が裏返っている。


扉の隙間から、何かが這い出そうとしていた。


長い、細い...。

指?


いや、それにしては長すぎる。

爪のようなものが、扉の縁を掴んでいた。


「マカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン!」

必死に経を唱え続ける。


汗が額を伝った。

寒いはずなのに、全身から汗が噴き出している。


這い出そうとしていたものが、ゆっくりと引っ込んでいった。


そして扉が閉まった。

叩く音も止んだ。


しかし俺は経を唱え続けた。

止めてはいけない。


千代ばあさんが言った。何が起こっても、決して止めてはいけないと。


一時間。

俺はずっと経を唱え続けた。

声が枯れそうだった。


やがて、東の空が白み始めた。

夜明けだ。


俺は経を唱えるのを止めた。

お社は静かだった。


社務所に戻ると、部屋の中は静まり返っていた。


「千代ばあさん」

返事がない。


寝室を覗くと、千代ばあさんが布団の中にいた。

「千代ばあさん、大丈夫ですか」


近づいて、肩に手を置いた。


ばあさんの身体は異様に冷たかった。


「え...」


俺は千代ばあさんの顔を見た。

目を閉じたまま、微動だにしない。


呼吸をしていない。


「千代ばあさん!」

揺さぶったが、反応はなかった。


死んでいる。


いつから...?


昨夜?


それとも...。


俺は部屋を飛び出した。


この村から出なければ。

荒れた道を走った。


しかし、来た時の道が見つからない。


どこだ?


確か、この辺りから山道に入ったはずなのに。

気づくと、神社の前に戻っていた。


「なんで...」


もう一度、違う方向から村を出ようとした。

しかし、また神社の前に戻ってしまう。


何度試しても、同じだった。

村から出られない。


俺はスマホを取り出した。

圏外だった。


当然だ。こんな山奥で電波が入るはずがない。


「助けて...」

誰に言っているのか分からない。

ただ、そう呟いた。


その時、社務所から音がした。


誰かが動いている音。


「千代ばあさん?」


俺は恐る恐る中に入った。


しかし、寝室には千代ばあさんの冷たくなった遺体があるだけだった。

動いていない。

冷たいままだ。


では、さっきの音は...。


村から脱出する方法を探しているうちに夕方になった。


俺は村を何度も見て回ったが、出口は見つからなかった。

まるで迷路のように、道が繋がっていない。

どこを歩いても、最後は神社に戻ってくる。


太陽が沈み始めた。


夜が来る。


お社の番をする者がいなければ...。


俺は経文を手に取った。


選択肢はない。



夜。

俺は再びお社の前に座った。


「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン...」

経を唱え始める。


すぐに音が始まった。


「ドンドンドンドン」

昨夜よりも激しい。


まるで、俺が代わりだと知っているかのように。


扉が揺れている。

注連縄が軋んでいる。


「オンアボキャベイロシャノウ...」

唱え続ける。


しかし、音は止まらない。

それどころか、さらに激しくなった。


「ギギギ...」

また扉が開き始めた。


昨夜よりも大きく。

隙間から、また何かが這い出そうとしている。

長い、節くれだった指のようなもの。


いや、指だけではない。

腕のようなものも見える。


人間のものではない。


細すぎる。長すぎる。

生き物にしては関節が多すぎる。


「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマ!」

俺は恐ろしくなって必死で経を唱えた。


這い出そうとしていたものが止まった。

しかし、腕のようなものが引っ込んでいない。

そのまま、扉の隙間で動きを止めている。


まるで、様子を窺っているかのように。


俺と、それは、対峙していた。

経を唱え続けながら、俺はそれを見つめた。


どれくらい時間が経ったのか分からない。

やがて、ゆっくりとそれは引っ込んでいった。


扉が閉まった。


叩く音も止んだ。


俺は経を唱え続けた。

夜明けまで。


翌朝。

俺は社務所に戻った。


千代ばあさんの遺体は、そのままだった。


俺は何も食べる気がしなかった。

ただ、水だけを飲んだ。


村を出る方法を探そうとしたが、もう無駄だと分かっていた。


出られない。

この村から、俺はもう出られない。


夜が来れば、お社の番をしなければならない。

経を唱え続けなければならない。


それが、俺の役目になった。

番人。

千代ばあさんの後を継ぐ、番人。


数日が経った。

俺は千代ばあさんの遺体を、神社の裏に埋葬した。


墓標代わりに、石で山をつくって目印にした。


「ごめんなさい」

俺は謝っていた。

何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。


それから、俺は毎晩お社の前で経を唱え続けた。


最初は怖かった。

しかし、時間が過ぎるにつれて次第に慣れていった。

叩く音も、扉が開く音も。


これが日常になった。


ある夜、俺はふと考えた。

もし俺が死んだら、誰が次の番人になるのだろう。


この村には、もう誰も来ない。


いや...。

俺のように、物珍しさに取材に来る人間がいるかもしれない。


「最後の番人」を探して。

そして、その人間が次の番人になる。

千代ばあさんが俺を呼んだように。


俺も誰かを呼ぶのだろうか。


秋が終わり、冬が来た。

雪が降り始めた。


神社の境内は、真っ白になった。

俺は雪を掃き、お社の前の道を作った。

夜になれば、いつものように経を唱える。


これが俺の人生になった。


ある日、俺は社務所で古い日記を見つけた。

千代ばあさんの日記だった。


最後のページに、こう書かれていた。


「番人は逃げられない。一度この役目を負えば、死ぬまで続く。

いや、死んでも続くのかもしれない。私の父がそうだったように。

もし誰かがこれを読んでいるなら...諦めなさい。これがあなたの運命だ」


俺は日記を閉じた。


窓の外を見ると、雪が降り続けていた。

静かな、白い世界。

お社だけが、雪の中でじっと佇んでいた。


夜が来る。


俺は経文を手に取った。

そして、お社の前に座った。


「オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン...」

経を唱え始める。


いつものように。


これからもずっと。


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