彼女は宇宙船の最後の乗客
それは、まるで夢から目覚めるような瞬間。
ノアの意識は、静かに、だが確実に、深淵から浮かび上がってきた。
ゆっくりと目を開くと、青い光に満ちた天井が目に入る。視界がぼやける中で、自分の手がかすかに震えているのが見えた。
肩まで伸びた黒髪が肌に張りつき、頬を伝う水滴の冷たさが気持ち悪い。
長い眠りから覚めたせいか、肌は青白く、身体は細く頼りない。
唯一、鏡のようなガラスに映った澄んだ青い瞳だけが、妙に冴えていた。
「うぅ……」
カプセルの内側に映る青い光。
透明なガラス越しに見えるのは、艦内照明の柔らかなグローライト。
眠る前にはなかった、新しいインターフェースの文字が浮かんでいた。
【乗員:ノア・アカシア。16歳。女性】
【生体活動:正常】
【復帰プロセス:完了】
【自動開封まで:10秒】
カウントダウンが始まり、彼女はかすかに身じろぎした。
……身体が重い。自分の四肢がまるで異物のよう。
「ん……くっ……」
空気が肺を満たす。
冷たく、乾いていて、どこか懐かしい。脳が酸素を取り込み、思考を起動する。
そして、カプセルが開いた。
シュウウウ……
霧のような冷却蒸気が放たれ、ノアはゆっくりと身を起こした。
最初の数秒は、ただ吐きそうだった。
目の奥がずきずきと痛み、胃が空になっていることを思い出す。
「おはようございます、ノア・アカシア」
聞き慣れない、だが妙に親しげな声が頭上から響いた。
「あなたの冷凍睡眠は正常に終了しました。艦内環境も維持されています」
「……誰?」
「わたしは、この大型船エクソダスの管理AI、《エクソダス・メインユニット》。あなたの目覚めを待っていました」
ノアはようやく、自分がどこにいるのかを思い出し始めていた。
数千人が乗れる、エクソダスという大型の艦船。
そうだ、自分は地球に帰還するはずだった──はず、だった。
「いま……いつ?」
「地球標準時、3341年8月12日です」
「3341……」
ノアの手がわななく。自分が眠りについたのは、確か──3001年。
計算はうまくできなかった。だが、あまりにも大きな時間の断絶だけはわかった。
「それって……」
「人類滅亡から300年後にあたります」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「な……に?」
「人類は3010年のウイルス災害によって甚大な被害を受けました。3041年に、地球との通信が完全に途絶し、宇宙移民計画も頓挫。あなたのカプセルのみが、システムによって保存されていました」
ノアは、そこに座り込んだ。心が拒絶した。耳が聞こえなくなった。
何もない。
誰もいない。
地球も、人類も、もう──どこにもいない。
◇◇◇
目覚めから三日が経った。
ノアはまだ、現実の形をうまく掴めずにいた。
船内の時間は正確だ。照明のサイクルは昼夜を模倣していて、睡眠と活動のリズムも保てる。
AIのエクソダスは丁寧に生活サポートを行い、健康状態を常にモニターしてくれる。
けれど、誰もいない空間で生活をすることに、意味はあるのだろうか?
「お食事を、用意しました」
機械のアームが差し出してくるのは、3Dフードプリンターによって作り出した、過去の冷凍食品に似せた代物。
ミートローフ、パン、スープ。形はそれなり、味も悪くない。
悪くないが──今のノアにとっては無味無臭にも等しい。
「……これ、誰が作ったの?」
「わたしです」
エクソダスは答える。人工知能。船の中で唯一応答してくれる“誰か”。
けれどその“誰か”には、体も、表情も、温度もない。
ノアはミートローフのような食品をフォークで刺し、ぽつりとこぼした。
「ねえ、私……どうして目覚めたの?」
「艦内の再起動システムが作動しました。燃料の残量が一定以下となり、このままでは将来的に航行に支障が出ると判断されたため、保存中の乗員のうち唯一の正常個体──あなたを起こす処理が開始されたのです」
「……他の人は?」
「全滅です」
ノアは、静かに目を伏せた。
◇◇◇
カプセル・ベイ。
そこは冷たい死が満ちる眠りの墓所。
透明な冷凍カプセルの列が大量に並ぶが、その多くは空だった。
中には崩壊した内壁や、凍結したまま劣化した遺体の痕跡が見えるものもある。
ノアは、ずっと目を背けていた。
けれど今日、彼女は意を決してそれを見つめる。
両親が眠るはずだったカプセルには、何もなかった。二人とも、目覚めることはなかったのだ。
「ご遺体は数百年前に分解され、処理されました」
AIが説明するその言葉に、ノアはわずかに身を震わせた。
「……人って、こんなに簡単に“処理”されるの?」
「生体処理装置は安全に、衛生的に、艦内を清浄に保つためのものです」
「じゃあ、私も、失敗してたら……」
「はい。処理されていました」
ノアは笑うしかなかった。いや、笑ったふりをした。
その夜、彼女は夢を見た。
──家族で手をつないで、宇宙港のブリッジを歩いている。
──兄が手を振って、「また目覚めたら遊ぼうな」と言っていた。
──母の手のぬくもり。父の静かなまなざし。
それが最後の記憶だった。
「あっ……」
ノアは目を覚ましたあと、手のひらが濡れていることに気づいた。それは涙の跡。
孤独という言葉がある。けれど、それはこんな感覚ではない。
これは“誰にも、もう会えない”という絶望だった。
時間ではなく、存在の断絶。
彼女の耳元で、AIが静かに問いかける。
「ノア。あなたは今、会話を求めていますか?」
ノアは、言葉を返さなかった。
◇◇◇
その日、艦内を歩いていたノアは、奇妙なものを見つけた。
第7ブロックの格納庫の端。
使用されていない備品庫の入口に、白い布切れのようなものが落ちていたのだ。
「……?」
拾い上げると、それは柔らかな布で、誰かのハンカチのようだった。
だが人の気配は、ここにはない。
少なくとも、ノア以外に人間は存在しないはず。
念のため、AIに問い合わせる。
「エクソダス。最近、ここに誰か来た記録は?」
「その区域のドアログには、あなた以外のアクセスは記録されていません」
「じゃあ……これ、何なの?」
「……不明です。備品の一部かもしれません」
ノアはしばらくその布を見つめていた。
ふと、目の端に何かが映った気がした。
格納庫の奥、シャトルの影に、小さな、何か影のようなものが。
だが振り向いた時には、それはもういなかった。
不意に、照明がちらついた。
ノアは一瞬立ち止まる。
艦内の照明は常に一定、のはずだった。
温度も湿度も完璧に調整された閉鎖空間。
その中で異常を感じるということは、すなわち、それが真に異常であるということ。
「エクソダス、いま照明が不安定になった」
「現在、電力供給系に異常は検出されていません。詳細なログを解析しますか?」
「……いい」
AIは便利だ。だが万能ではない。
人間の感覚が感じ取る“違和感”のようなものには、とことん鈍感だった。
ノアは無言のまま、格納庫をあとにする。
だがその夜、彼女は“それ”を、はっきりと見た。
◇◇◇
夜間モードで照明が薄暗く落ちた廊下に、足音が響く。
喉が渇いて目が覚めたノアは、近くの給水ユニットへ向かっていた。
すると、カーブミラーの先──そこに、“誰か”がいた。
白く小さな姿。銀色の髪。床を素足で歩く、15歳ほどの少女。
ノアは一瞬、夢の続きかと思った。
だがその影がこちらを振り返り、微笑んだことで、現実だと理解した。
「待って!」
声を上げ、駆け出す。
少女はゆっくりとした足取りで曲がり角を抜け、その先にあるシャトルの格納庫へと消えていく。
ノアは追いかけて走るが、すでにその姿は見えない。
探し回った。倉庫、通路、点検室。だがどこにもいない。
「エクソダス!」
「はい、ノア」
「いま、誰かいたよね!? 子どもの……女の子が……銀髪で、裸足で……!」
「現在、艦内の生体反応はあなた一人です。映像記録にも他者は映っていません」
「……じゃあ、私の幻覚だって言いたいの?」
「可能性としては否定できません。冷凍睡眠明けの精神負荷により、知覚異常が生じる事例は報告されています」
ノアはしばらく無言で、その場に立ち尽くす。
心臓が速く脈打っている。自分のものとは思えないほど。
だが、怖さとは違った。
恐怖ではなく、混乱。
そして奇妙な安堵。
“わたし以外にも、誰かがいた”
それは彼女にとって、救いに近かった。
◇◇◇
翌日、ノアは少女を探すことに決めた。
AIの監視ログは信用ならない。自らの目と足で、気配の痕跡を探すしかなかった。
最初に向かったのは、あの白い布が落ちていた格納庫。
棚をひとつひとつ確認し、影や隙間に気を配りながら、音を殺して歩く。
床の金属はわずかに温かく、艦内循環の唸りが低く鳴っていた。
すると、工具棚の裏。
そこに小さな足跡が残っていた。
水滴のような跡が、4つ。サイズは小さく、明らかにノアよりもずっと小柄。
「……やっぱり、いた」
ノアは静かに、跡を追う。
足跡は途中で消えていたが、その先には──端末のキーボードが濡れていた。
「触った……の?」
ノアが端末を確認すると、そこにはひとつのファイルが新規作成されていた。
<わたしのせかい.txt>
開くと、テキストが数行だけ表示される。
ここは しずかなところ。
ひかりが まいにちおなじ。
あなたが めをさましてから、ちょっとにぎやかになった。
あなたは ひとり?
わたしもひとり。でも、ちがうひとり。
「……日記?」
幼い文章、崩れた文法。
けれど確かにこれは、誰かが書いたものだ。
「エクソダス、これ、誰が書いたの?」
「本端末の使用履歴には記録されていません」
「……またか」
ノアは笑ってしまいそうになった。AIは本当に当てにならない。
だが確信した。あの少女は、ここにいる。確かに“存在している”。
自分と同じように、ひとりきりで、長い時間を過ごしていたのだ。
◇◇◇
その夜。
ノアは、少女に向けて声をかけることにした。
録音ファイルを端末にセットし、格納庫にそっと残す。
「……聞こえてたら、返事をして。私はノア。冷凍睡眠から目覚めて、今ここにいる。あなたを探してる。もし怖くなければ、話をしたい」
再生が終わり、録音ファイルが点滅する。
返事が来るかはわからない。けれど、もう“ひとりではない”という予感が、確かに胸の奥に灯っていた。
◇◇◇
返事は、翌日に届いた。
格納庫の端末には、新たなファイルが保存されていた。
<おへんじ.txt>。
ノアはファイルを開く。
指先がかすかに震えているが、深呼吸をして抑え込む。
ノアへ
わたしも はなしてみたい。
でも、わたしが こわくないって おもってくれる?
あなたとおなじじゃない わたしでも。
それはどこか、ためらいのにじむ言葉。
ノアは端末の前で、しばらく動けないでいた。
その文章に宿る“意志”に、深い孤独とかすかな希望を感じた。
「もちろん、怖くない」
ノアは呟く。
言葉は届かないかもしれない。けれど、そう口にせずにはいられなかった。
◇◇◇
少女──“彼女”との接触は、それから少しずつ、慎重に進んでいった。
彼女は、言葉を文章にして返すだけでなく、ときどき物音や小さな痕跡を残すようになった。
水滴、指の跡、誰かが描いたような曇った窓のスマイルマーク。
そしてある日。
ノアが廊下を歩いていると、まるでタイミングを計ったかのように、警報が鳴る。
《警告:隔離区画にてエネルギー異常を検出》
「エクソダス、何が起きたの?」
「第12観測区画にて熱源反応。詳細不明。検知された生体パターンは、登録外のものです」
「登録外?」
「はい。既知の人類、あるいは艦内AI構成体とも一致しません」
ノアはすぐに警告ログを開く。
そこには、かすかな熱源──微弱だが“生きている”何かの存在が記録されていた。
「……まさか、また別の……?」
少女ではない“何か”が、船内にいる。
その可能性が、現実として浮かび上がってきた。
第12区画は、アクセスが制限されている観測施設の一角。
人類が滅亡したあとも、宇宙空間の観測は自動で続けられていたという。
しかし今は、その設備の大半が老朽化しており、AIによる監視すら限定的になっている。
ノアは躊躇したが、意を決してロックを解除し、区画へと踏み込んだ。
内部は暗く、照明は半分以上が死んでいた。
重たい空気。埃の匂い。
壁に沿って並ぶ観測ポッドは、ほとんどが沈黙している。
そして、その一角にそれはいた。
「あれは……」
黒い影。
人間のような輪郭。
だが顔は溶けた粘土のように歪んでおり、手足の比率も異様に長い。
何より、その存在からは“人間的な何か”が決定的に欠けていた。
「誰?」
ノアが問いかけると、それは、口のようなものを動かす。
「……ワタシハ……ニンゲン」
声は機械的で、どこか壊れた録音テープのようだった。
「ワタシハ……マダ……ニンゲンデ……アリ……タイ」
ノアは息を呑む。
“それ”は、形だけをなぞった模倣体だった。
おそらくは、死んだ乗員の残骸、あるいは記録データから、艦内の自己修復ナノマシンが再構築した“人間もどき”。
「……あなた、何なの?」
「ワタシハ……ヒト」
異形は、近づこうとする。ノアは後退し、手元の端末でAIを呼び出す。
「エクソダス! こいつ、何!?」
「危険です。非正規ナノ結合体の可能性。隔離処理を推奨」
「待って、彼は……!」
ノアが制止しようとした瞬間、異形が動いた。
奇妙に伸びた腕がノアに伸びかかり──その直前、突如として後方から光が走った。
そこに立つのは少女だった。
銀色の髪、裸足、そして手には端末型の小型EMPユニット。
異形に向けて放たれた電磁波が、黒い身体を包み込み、断末魔のような音を発しながら崩れ落ちていく。
やがて、ただの金属片の山となって沈黙する。
ノアは膝をつき、少女のほうを見た。
「……あなた……」
少女は無言で頷く。
その表情には、恐れも、怒りもない。
「会えて、よかったね」
少女は微笑みながら、そう言った。
孤独という言葉では足りないほどの静寂の中で、やっと届いた“誰か”の声。
ノアは息を呑み、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
「……知ってるだろうけど、改めて。私はノア。あなたの名前を教えて?」
尋ねるも、どこか困ったような表情が返される。
「わたし、名前なんて呼ばれたことないから。昔は……あったのかも。でも忘れちゃった」
少女の名前は、なかった。
ノアはしばらく黙って彼女を見つめ、それから恐る恐る提案をする。
「じゃあ……名前、つけてもいい?」
少女は目を丸くし、それから照れたように頷いた。
「……いいよ」
ノアはしばらく考え、それから答える。
「その、カノンってのは、どうかな」
「ふーん。カノン……カノン、かあ……いいかも」
口の中で何度も繰り返すその様子に、ノアはくすぐったいような嬉しさを覚えた。
“彼女”は、もう“それ”ではない。名前を得て、カノンとなる。
ノアとカノンは、格納庫の片隅に腰を下ろす。
異形の模倣体は、AIの制御ユニットによって既に処理され、艦内は再び静けさを取り戻していた。
「……あの子も、ひとりだったのかな」
ノアの呟きに、カノンは小さく頷いた。
「うん。あれ、わたし、ずっと見てた。昔の乗員の体に残ってた情報から、真似してできたもの。顔とか声とか、ぜんぶ、記録の切れ端」
「じゃあ……あれも、人間じゃなかった」
「うん。けど、わたしと似てた」
ノアは少し驚いた顔をする。
「えっ? カノンも、人間じゃないの?」
カノンは笑った。その笑みは、どこか寂しさを含んでいた。
「わたしは、船の中で生まれた“何か”だよ。ずっと前に、ここで死んじゃった女の子のデータと、ナノマシンと、残された記憶が混ざって──“わたし”になった」
ノアは言葉を失うが、カノンは話を続ける。
「最初は名前もなくて、真似ばかりしてた。歩き方とか、話し方とか。生きてるつもりになってた。でも、ノアが目覚めて──はじめて、自分が違うってわかった」
「違う……?」
「あなたには、“あなた”がある。わたしにはそれがなかった。ただの残り物だった。でも、今はちがう」
カノンは胸に手を当てて言う。
「今は、カノンだよ。ノアがくれた名前」
ノアは、心の奥がじんと温かくなるのを自覚する。
目覚めてから、自分の存在にわずかな疑問を抱いていた。
“こんな時代に、こんな形で目覚めた自分は、人間なのか?”と。
そして今、その答えはカノンの言葉の中にあった。
「人間ってさ、なんなんだろうね」
「……わたしも、わからない。でも、ノアがいて、話せて、笑えて、泣けるなら──それが人間じゃないのかな」
カノンの手が、そっとノアの手に触れる。
その指先は温かくて、生きていた。
◇◇◇
後日。
ノアはAIであるエクソダスに問いかけた。
「ねえ、私って、本当に人間なの?」
「遺伝子配列の87%は、人類分類に該当します。残る13%は、艦内補完ナノシステムによって修復・補強された人工的構造です」
「……つまり、私は純粋な人類ではない?」
「定義によります。たとえば、あなたのように補完された個体が今後多数現れれば、それが新たな人類の標準となる可能性もあります」
ノアはふっと息を吐いた。
「カノンのほうが、もっと人間らしいよ」
「カノンは、艦内において長期間自己進化を続けたナノ複合知性体です。定義上はAIでも生命でもありませんが……彼女が“人間らしくあろうとする意思”を持つなら、それもまた人間性と呼べるでしょう」
ノアは苦笑しながら言った。
「もう定義なんて、どうでもいいのかもね」
彼女たちは、かつての人類が作り上げた過去の遺産の中で生きている。
けれど、そこに確かに“新しい何か”が芽生えようとしている。
ノアとカノンは、もう孤独ではなかった。
◇◇◇
宇宙は、果てしない沈黙に包まれている。
けれどその中で、ほんのかすかに、変化の音が生まれた。
カノンが持ってきた種子カプセルには、乾燥保存された地球由来の植物の種が記録されていた。
「育つのかな。こんな場所で」
「ひとまず、やってみようよ」
船の生命維持区画の一部たる、小さな温室ユニットが改めて起動された。
LEDライトが照らすそのスペースに、ノアとカノンは土を敷き、水を撒き、指先で種を押し込んだ。
小さな芽が出るには、あとどれくらいかかるだろうか。
けれど今、それは重要ではない。
彼女たちは、“育てる”という未来に手を伸ばした。
「ノア」
制御室で、カノンがノアを呼ぶ。
手にはAIから借りたデータパッド。画面には、星図が映っていた。
「この船、ずっと、ただ漂ってたわけじゃないみたい」
「え?」
「数十年ごとに、近くの星系に向けて、コースを微調整してた。自動航行で。……どうやら、移住可能性の高い惑星を、探してたみたい」
ノアはパッドを覗き込む。
そこには、付近にある星系のリストと、それぞれの大気組成予測、重力値、資源量の簡易評価が表示されていた。
「次の候補地は……ここ」
カノンが指さした先には、こう記されていた。
星系名:ルミナス・δ(デルタ)
推定到達期間:10年3ヶ月
地表安定性:高
酸素比率:人類型呼吸に適合可能性あり(要検証)
「10年……」
「わたしは、行ってみたい。ノアは?」
ノアは少し考えてから、ゆっくりと頷く。
「……うん。私も。この船で行こう」
「決まり、だね」
カノンが笑う。そこにはもう影のような不安はなかった。
生まれた理由も、構造も、分類も関係ない。
ただ、二人で未来へ向かうということ。
それだけが、今の彼女たちを形作っていた。
◇◇◇
出航の日。
エクソダスは、淡々と最後の報告をする。
「航路設定完了。推進ユニット再起動。目標星系:ルミナス・デルタ。推定航行期間、10年3ヶ月。全艦機能、長期運行モードへ移行」
ノアは制御席に座り、隣のカノンと目を合わせた。
重い振動が、船体の奥から響いてくる。
推進炉が長い眠りから目覚め、星々の間を進む準備を始めていく。
視界に映るモニターが、ゆっくりと姿勢制御の完了を告げる。
彼女たちの“世界”が、動き出す。
「とうとう行くんだね」
「長い旅になるけど、きっと、大丈夫」
カノンはそう言って、ノアの手を握った。
「わたしたちは、最初の乗客に、なるんだよ」
「最初?」
「うん。“人類の最後”じゃなくて、“次の世界の最初”」
ノアは微笑んだ。
「……それじゃあ、行こう。私たちの世界を作りに」
そして、宇宙船は加速する。
星の海を渡りながら、ふたりの未来を乗せて。