表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼女は宇宙船の最後の乗客

作者: パッタリ

 それは、まるで夢から目覚めるような瞬間。

 ノアの意識は、静かに、だが確実に、深淵から浮かび上がってきた。

 ゆっくりと目を開くと、青い光に満ちた天井が目に入る。視界がぼやける中で、自分の手がかすかに震えているのが見えた。

 肩まで伸びた黒髪が肌に張りつき、頬を伝う水滴の冷たさが気持ち悪い。

 長い眠りから覚めたせいか、肌は青白く、身体は細く頼りない。

 唯一、鏡のようなガラスに映った澄んだ青い瞳だけが、妙に冴えていた。


 「うぅ……」


 カプセルの内側に映る青い光。

 透明なガラス越しに見えるのは、艦内照明の柔らかなグローライト。

 眠る前にはなかった、新しいインターフェースの文字が浮かんでいた。


 【乗員:ノア・アカシア。16歳。女性】

 【生体活動:正常】

 【復帰プロセス:完了】

 【自動開封まで:10秒】


 カウントダウンが始まり、彼女はかすかに身じろぎした。

 ……身体が重い。自分の四肢がまるで異物のよう。


 「ん……くっ……」


 空気が肺を満たす。

 冷たく、乾いていて、どこか懐かしい。脳が酸素を取り込み、思考を起動する。

 そして、カプセルが開いた。


 シュウウウ……


 霧のような冷却蒸気が放たれ、ノアはゆっくりと身を起こした。

 最初の数秒は、ただ吐きそうだった。

 目の奥がずきずきと痛み、胃が空になっていることを思い出す。


 「おはようございます、ノア・アカシア」


 聞き慣れない、だが妙に親しげな声が頭上から響いた。


 「あなたの冷凍睡眠は正常に終了しました。艦内環境も維持されています」

 「……誰?」

 「わたしは、この大型船エクソダスの管理AI、《エクソダス・メインユニット》。あなたの目覚めを待っていました」


 ノアはようやく、自分がどこにいるのかを思い出し始めていた。

 数千人が乗れる、エクソダスという大型の艦船。

 そうだ、自分は地球に帰還するはずだった──はず、だった。


 「いま……いつ?」

 「地球標準時、3341年8月12日です」

 「3341……」


 ノアの手がわななく。自分が眠りについたのは、確か──3001年。

 計算はうまくできなかった。だが、あまりにも大きな時間の断絶だけはわかった。


 「それって……」

 「人類滅亡から300年後にあたります」


 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 「な……に?」

 「人類は3010年のウイルス災害によって甚大な被害を受けました。3041年に、地球との通信が完全に途絶し、宇宙移民計画も頓挫。あなたのカプセルのみが、システムによって保存されていました」


 ノアは、そこに座り込んだ。心が拒絶した。耳が聞こえなくなった。

 何もない。

 誰もいない。

 地球も、人類も、もう──どこにもいない。


 ◇◇◇


 目覚めから三日が経った。

 ノアはまだ、現実の形をうまく掴めずにいた。

 船内の時間は正確だ。照明のサイクルは昼夜を模倣していて、睡眠と活動のリズムも保てる。

 AIのエクソダスは丁寧に生活サポートを行い、健康状態を常にモニターしてくれる。

 けれど、誰もいない空間で生活をすることに、意味はあるのだろうか?


 「お食事を、用意しました」


 機械のアームが差し出してくるのは、3Dフードプリンターによって作り出した、過去の冷凍食品に似せた代物。

 ミートローフ、パン、スープ。形はそれなり、味も悪くない。

 悪くないが──今のノアにとっては無味無臭にも等しい。


 「……これ、誰が作ったの?」

 「わたしです」


 エクソダスは答える。人工知能。船の中で唯一応答してくれる“誰か”。

 けれどその“誰か”には、体も、表情も、温度もない。

 ノアはミートローフのような食品をフォークで刺し、ぽつりとこぼした。


 「ねえ、私……どうして目覚めたの?」

 「艦内の再起動システムが作動しました。燃料の残量が一定以下となり、このままでは将来的に航行に支障が出ると判断されたため、保存中の乗員のうち唯一の正常個体──あなたを起こす処理が開始されたのです」

 「……他の人は?」

 「全滅です」


 ノアは、静かに目を伏せた。


 ◇◇◇


 カプセル・ベイ。

 そこは冷たい死が満ちる眠りの墓所。

 透明な冷凍カプセルの列が大量に並ぶが、その多くは空だった。

 中には崩壊した内壁や、凍結したまま劣化した遺体の痕跡が見えるものもある。

 ノアは、ずっと目を背けていた。

 けれど今日、彼女は意を決してそれを見つめる。

 両親が眠るはずだったカプセルには、何もなかった。二人とも、目覚めることはなかったのだ。


 「ご遺体は数百年前に分解され、処理されました」


 AIが説明するその言葉に、ノアはわずかに身を震わせた。


 「……人って、こんなに簡単に“処理”されるの?」

 「生体処理装置は安全に、衛生的に、艦内を清浄に保つためのものです」

 「じゃあ、私も、失敗してたら……」

 「はい。処理されていました」


 ノアは笑うしかなかった。いや、笑ったふりをした。

 その夜、彼女は夢を見た。

 ──家族で手をつないで、宇宙港のブリッジを歩いている。

 ──兄が手を振って、「また目覚めたら遊ぼうな」と言っていた。

 ──母の手のぬくもり。父の静かなまなざし。

 それが最後の記憶だった。


 「あっ……」


 ノアは目を覚ましたあと、手のひらが濡れていることに気づいた。それは涙の跡。

 孤独という言葉がある。けれど、それはこんな感覚ではない。

 これは“誰にも、もう会えない”という絶望だった。

 時間ではなく、存在の断絶。

 彼女の耳元で、AIが静かに問いかける。


 「ノア。あなたは今、会話を求めていますか?」


 ノアは、言葉を返さなかった。


 ◇◇◇


 その日、艦内を歩いていたノアは、奇妙なものを見つけた。

 第7ブロックの格納庫の端。

 使用されていない備品庫の入口に、白い布切れのようなものが落ちていたのだ。


 「……?」


 拾い上げると、それは柔らかな布で、誰かのハンカチのようだった。

 だが人の気配は、ここにはない。

 少なくとも、ノア以外に人間は存在しないはず。

 念のため、AIに問い合わせる。


 「エクソダス。最近、ここに誰か来た記録は?」

 「その区域のドアログには、あなた以外のアクセスは記録されていません」

 「じゃあ……これ、何なの?」

 「……不明です。備品の一部かもしれません」


 ノアはしばらくその布を見つめていた。

 ふと、目の端に何かが映った気がした。

 格納庫の奥、シャトルの影に、小さな、何か影のようなものが。

 だが振り向いた時には、それはもういなかった。

 不意に、照明がちらついた。

 ノアは一瞬立ち止まる。

 艦内の照明は常に一定、のはずだった。

 温度も湿度も完璧に調整された閉鎖空間。

 その中で異常を感じるということは、すなわち、それが真に異常であるということ。


 「エクソダス、いま照明が不安定になった」

 「現在、電力供給系に異常は検出されていません。詳細なログを解析しますか?」

 「……いい」


 AIは便利だ。だが万能ではない。

 人間の感覚が感じ取る“違和感”のようなものには、とことん鈍感だった。

 ノアは無言のまま、格納庫をあとにする。

 だがその夜、彼女は“それ”を、はっきりと見た。


 ◇◇◇


 夜間モードで照明が薄暗く落ちた廊下に、足音が響く。

 喉が渇いて目が覚めたノアは、近くの給水ユニットへ向かっていた。

 すると、カーブミラーの先──そこに、“誰か”がいた。

 白く小さな姿。銀色の髪。床を素足で歩く、15歳ほどの少女。

 ノアは一瞬、夢の続きかと思った。

 だがその影がこちらを振り返り、微笑んだことで、現実だと理解した。


 「待って!」


 声を上げ、駆け出す。

 少女はゆっくりとした足取りで曲がり角を抜け、その先にあるシャトルの格納庫へと消えていく。

 ノアは追いかけて走るが、すでにその姿は見えない。

 探し回った。倉庫、通路、点検室。だがどこにもいない。


 「エクソダス!」

 「はい、ノア」

 「いま、誰かいたよね!? 子どもの……女の子が……銀髪で、裸足で……!」

 「現在、艦内の生体反応はあなた一人です。映像記録にも他者は映っていません」

 「……じゃあ、私の幻覚だって言いたいの?」

 「可能性としては否定できません。冷凍睡眠明けの精神負荷により、知覚異常が生じる事例は報告されています」


 ノアはしばらく無言で、その場に立ち尽くす。

 心臓が速く脈打っている。自分のものとは思えないほど。

 だが、怖さとは違った。

 恐怖ではなく、混乱。

 そして奇妙な安堵。

 “わたし以外にも、誰かがいた”

 それは彼女にとって、救いに近かった。


 ◇◇◇


 翌日、ノアは少女を探すことに決めた。

 AIの監視ログは信用ならない。自らの目と足で、気配の痕跡を探すしかなかった。

 最初に向かったのは、あの白い布が落ちていた格納庫。

 棚をひとつひとつ確認し、影や隙間に気を配りながら、音を殺して歩く。

 床の金属はわずかに温かく、艦内循環の唸りが低く鳴っていた。

 すると、工具棚の裏。

 そこに小さな足跡が残っていた。

 水滴のような跡が、4つ。サイズは小さく、明らかにノアよりもずっと小柄。


 「……やっぱり、いた」


 ノアは静かに、跡を追う。

 足跡は途中で消えていたが、その先には──端末のキーボードが濡れていた。


 「触った……の?」


 ノアが端末を確認すると、そこにはひとつのファイルが新規作成されていた。


 <わたしのせかい.txt>


 開くと、テキストが数行だけ表示される。


 ここは しずかなところ。

 ひかりが まいにちおなじ。

 あなたが めをさましてから、ちょっとにぎやかになった。

 あなたは ひとり?

 わたしもひとり。でも、ちがうひとり。


 「……日記?」


 幼い文章、崩れた文法。

 けれど確かにこれは、誰かが書いたものだ。


 「エクソダス、これ、誰が書いたの?」

 「本端末の使用履歴には記録されていません」

 「……またか」


 ノアは笑ってしまいそうになった。AIは本当に当てにならない。

 だが確信した。あの少女は、ここにいる。確かに“存在している”。

 自分と同じように、ひとりきりで、長い時間を過ごしていたのだ。


 ◇◇◇


 その夜。

 ノアは、少女に向けて声をかけることにした。

 録音ファイルを端末にセットし、格納庫にそっと残す。


 「……聞こえてたら、返事をして。私はノア。冷凍睡眠から目覚めて、今ここにいる。あなたを探してる。もし怖くなければ、話をしたい」


 再生が終わり、録音ファイルが点滅する。

 返事が来るかはわからない。けれど、もう“ひとりではない”という予感が、確かに胸の奥に灯っていた。


 ◇◇◇


 返事は、翌日に届いた。

 格納庫の端末には、新たなファイルが保存されていた。


 <おへんじ.txt>。


 ノアはファイルを開く。

 指先がかすかに震えているが、深呼吸をして抑え込む。


 ノアへ

 わたしも はなしてみたい。

 でも、わたしが こわくないって おもってくれる?

 あなたとおなじじゃない わたしでも。


 それはどこか、ためらいのにじむ言葉。

 ノアは端末の前で、しばらく動けないでいた。

 その文章に宿る“意志”に、深い孤独とかすかな希望を感じた。


 「もちろん、怖くない」


 ノアは呟く。

 言葉は届かないかもしれない。けれど、そう口にせずにはいられなかった。


 ◇◇◇


 少女──“彼女”との接触は、それから少しずつ、慎重に進んでいった。

 彼女は、言葉を文章にして返すだけでなく、ときどき物音や小さな痕跡を残すようになった。

 水滴、指の跡、誰かが描いたような曇った窓のスマイルマーク。

 そしてある日。

 ノアが廊下を歩いていると、まるでタイミングを計ったかのように、警報が鳴る。


 《警告:隔離区画にてエネルギー異常を検出》


 「エクソダス、何が起きたの?」

 「第12観測区画にて熱源反応。詳細不明。検知された生体パターンは、登録外のものです」

 「登録外?」

 「はい。既知の人類、あるいは艦内AI構成体とも一致しません」


 ノアはすぐに警告ログを開く。

 そこには、かすかな熱源──微弱だが“生きている”何かの存在が記録されていた。


 「……まさか、また別の……?」


 少女ではない“何か”が、船内にいる。

 その可能性が、現実として浮かび上がってきた。

 第12区画は、アクセスが制限されている観測施設の一角。

 人類が滅亡したあとも、宇宙空間の観測は自動で続けられていたという。

 しかし今は、その設備の大半が老朽化しており、AIによる監視すら限定的になっている。

 ノアは躊躇したが、意を決してロックを解除し、区画へと踏み込んだ。

 内部は暗く、照明は半分以上が死んでいた。

 重たい空気。埃の匂い。

 壁に沿って並ぶ観測ポッドは、ほとんどが沈黙している。

 そして、その一角にそれはいた。


 「あれは……」


 黒い影。

 人間のような輪郭。

 だが顔は溶けた粘土のように歪んでおり、手足の比率も異様に長い。

 何より、その存在からは“人間的な何か”が決定的に欠けていた。


 「誰?」


 ノアが問いかけると、それは、口のようなものを動かす。


 「……ワタシハ……ニンゲン」


 声は機械的で、どこか壊れた録音テープのようだった。


 「ワタシハ……マダ……ニンゲンデ……アリ……タイ」


 ノアは息を呑む。

 “それ”は、形だけをなぞった模倣体だった。

 おそらくは、死んだ乗員の残骸、あるいは記録データから、艦内の自己修復ナノマシンが再構築した“人間もどき”。


 「……あなた、何なの?」

 「ワタシハ……ヒト」


 異形は、近づこうとする。ノアは後退し、手元の端末でAIを呼び出す。


 「エクソダス! こいつ、何!?」

 「危険です。非正規ナノ結合体の可能性。隔離処理を推奨」

 「待って、彼は……!」


 ノアが制止しようとした瞬間、異形が動いた。

 奇妙に伸びた腕がノアに伸びかかり──その直前、突如として後方から光が走った。

 そこに立つのは少女だった。

 銀色の髪、裸足、そして手には端末型の小型EMPユニット。

 異形に向けて放たれた電磁波が、黒い身体を包み込み、断末魔のような音を発しながら崩れ落ちていく。

 やがて、ただの金属片の山となって沈黙する。

 ノアは膝をつき、少女のほうを見た。


 「……あなた……」


 少女は無言で頷く。

 その表情には、恐れも、怒りもない。


 「会えて、よかったね」


 少女は微笑みながら、そう言った。

 孤独という言葉では足りないほどの静寂の中で、やっと届いた“誰か”の声。

 ノアは息を呑み、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。


 「……知ってるだろうけど、改めて。私はノア。あなたの名前を教えて?」


 尋ねるも、どこか困ったような表情が返される。


 「わたし、名前なんて呼ばれたことないから。昔は……あったのかも。でも忘れちゃった」


 少女の名前は、なかった。

 ノアはしばらく黙って彼女を見つめ、それから恐る恐る提案をする。


 「じゃあ……名前、つけてもいい?」


 少女は目を丸くし、それから照れたように頷いた。


 「……いいよ」


 ノアはしばらく考え、それから答える。


 「その、カノンってのは、どうかな」

 「ふーん。カノン……カノン、かあ……いいかも」


 口の中で何度も繰り返すその様子に、ノアはくすぐったいような嬉しさを覚えた。

 “彼女”は、もう“それ”ではない。名前を得て、カノンとなる。

 ノアとカノンは、格納庫の片隅に腰を下ろす。

 異形の模倣体は、AIの制御ユニットによって既に処理され、艦内は再び静けさを取り戻していた。


 「……あの子も、ひとりだったのかな」


 ノアの呟きに、カノンは小さく頷いた。


 「うん。あれ、わたし、ずっと見てた。昔の乗員の体に残ってた情報から、真似してできたもの。顔とか声とか、ぜんぶ、記録の切れ端」

 「じゃあ……あれも、人間じゃなかった」

 「うん。けど、わたしと似てた」


 ノアは少し驚いた顔をする。


 「えっ? カノンも、人間じゃないの?」


 カノンは笑った。その笑みは、どこか寂しさを含んでいた。


 「わたしは、船の中で生まれた“何か”だよ。ずっと前に、ここで死んじゃった女の子のデータと、ナノマシンと、残された記憶が混ざって──“わたし”になった」


 ノアは言葉を失うが、カノンは話を続ける。


 「最初は名前もなくて、真似ばかりしてた。歩き方とか、話し方とか。生きてるつもりになってた。でも、ノアが目覚めて──はじめて、自分が違うってわかった」

 「違う……?」

 「あなたには、“あなた”がある。わたしにはそれがなかった。ただの残り物だった。でも、今はちがう」


 カノンは胸に手を当てて言う。


 「今は、カノンだよ。ノアがくれた名前」


 ノアは、心の奥がじんと温かくなるのを自覚する。

 目覚めてから、自分の存在にわずかな疑問を抱いていた。

 “こんな時代に、こんな形で目覚めた自分は、人間なのか?”と。

 そして今、その答えはカノンの言葉の中にあった。


 「人間ってさ、なんなんだろうね」

 「……わたしも、わからない。でも、ノアがいて、話せて、笑えて、泣けるなら──それが人間じゃないのかな」


 カノンの手が、そっとノアの手に触れる。

 その指先は温かくて、生きていた。


 ◇◇◇


 後日。

 ノアはAIであるエクソダスに問いかけた。


 「ねえ、私って、本当に人間なの?」

 「遺伝子配列の87%は、人類分類に該当します。残る13%は、艦内補完ナノシステムによって修復・補強された人工的構造です」

 「……つまり、私は純粋な人類ではない?」

 「定義によります。たとえば、あなたのように補完された個体が今後多数現れれば、それが新たな人類の標準となる可能性もあります」


 ノアはふっと息を吐いた。


 「カノンのほうが、もっと人間らしいよ」

 「カノンは、艦内において長期間自己進化を続けたナノ複合知性体です。定義上はAIでも生命でもありませんが……彼女が“人間らしくあろうとする意思”を持つなら、それもまた人間性と呼べるでしょう」


 ノアは苦笑しながら言った。


 「もう定義なんて、どうでもいいのかもね」


 彼女たちは、かつての人類が作り上げた過去の遺産の中で生きている。

 けれど、そこに確かに“新しい何か”が芽生えようとしている。

 ノアとカノンは、もう孤独ではなかった。


 ◇◇◇


 宇宙は、果てしない沈黙に包まれている。

 けれどその中で、ほんのかすかに、変化の音が生まれた。

 カノンが持ってきた種子カプセルには、乾燥保存された地球由来の植物の種が記録されていた。


 「育つのかな。こんな場所で」

 「ひとまず、やってみようよ」


 船の生命維持区画の一部たる、小さな温室ユニットが改めて起動された。

 LEDライトが照らすそのスペースに、ノアとカノンは土を敷き、水を撒き、指先で種を押し込んだ。

 小さな芽が出るには、あとどれくらいかかるだろうか。

 けれど今、それは重要ではない。

 彼女たちは、“育てる”という未来に手を伸ばした。


 「ノア」


 制御室で、カノンがノアを呼ぶ。

 手にはAIから借りたデータパッド。画面には、星図が映っていた。


 「この船、ずっと、ただ漂ってたわけじゃないみたい」

 「え?」

 「数十年ごとに、近くの星系に向けて、コースを微調整してた。自動航行で。……どうやら、移住可能性の高い惑星を、探してたみたい」


 ノアはパッドを覗き込む。

 そこには、付近にある星系のリストと、それぞれの大気組成予測、重力値、資源量の簡易評価が表示されていた。


 「次の候補地は……ここ」


 カノンが指さした先には、こう記されていた。


 星系名:ルミナス・δ(デルタ)

 推定到達期間:10年3ヶ月

 地表安定性:高

 酸素比率:人類型呼吸に適合可能性あり(要検証)


 「10年……」

 「わたしは、行ってみたい。ノアは?」


 ノアは少し考えてから、ゆっくりと頷く。


 「……うん。私も。この船で行こう」

 「決まり、だね」


 カノンが笑う。そこにはもう影のような不安はなかった。

 生まれた理由も、構造も、分類も関係ない。

 ただ、二人で未来へ向かうということ。

 それだけが、今の彼女たちを形作っていた。


 ◇◇◇


 出航の日。

 エクソダスは、淡々と最後の報告をする。


 「航路設定完了。推進ユニット再起動。目標星系:ルミナス・デルタ。推定航行期間、10年3ヶ月。全艦機能、長期運行モードへ移行」


 ノアは制御席に座り、隣のカノンと目を合わせた。

 重い振動が、船体の奥から響いてくる。

 推進炉が長い眠りから目覚め、星々の間を進む準備を始めていく。

 視界に映るモニターが、ゆっくりと姿勢制御の完了を告げる。

 彼女たちの“世界”が、動き出す。


 「とうとう行くんだね」

 「長い旅になるけど、きっと、大丈夫」


 カノンはそう言って、ノアの手を握った。


 「わたしたちは、最初の乗客に、なるんだよ」

 「最初?」

 「うん。“人類の最後”じゃなくて、“次の世界の最初”」


 ノアは微笑んだ。


 「……それじゃあ、行こう。私たちの世界を作りに」


 そして、宇宙船は加速する。

 星の海を渡りながら、ふたりの未来を乗せて。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ