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火を吐く

作者: 佐和ネクロ

 火災の翌朝だった。

 

 現場はまだ蒸されており、黒焦げになったマンションの三階──その外壁は溶けたガラスが涙を垂らし、手すりはいびつに曲がり、干からびた老人の指のように空を掴もうとしていた。

 立入禁止テープの内側、そこでは黒く溶けて歪んだエアコンの室外機がただ雨に打たれ、薄っすらと湯気を吐き出している。

 現場に漂うのは、焦げた匂い。


 ――それは。

 肺に、纏わりつく。

 鼻の奥で、湿る。

 何かの兆しとして、こころの中で積もった灰と混ざる。


 この火災の生存者はたった一名だけだった──マンション三階の住人である中年男性。

 彼は全身に軽い火傷と黒い煤を纏い、何故か救急車に乗るのを拒み、火元である部屋で力なく座り込んでいた。

 消防隊員がどれだけことばを尽くして説得しても首を横に振り続けており、何かをぶつぶつと呟き続けている。


 その男がうつろに私の方を見て、唇の隙間から真っ黒に煤けた歯列を覗かせた。


 ──吐くんだ。


 そう言ったように聞こえた。

 

「──吐くんだ」

 その声は低く湿っており、体内──特に喉の奥にまだ熱を抱えているようだった。


 ──火をね。

 息みたいにね。


 取材のため、私が近づくと男は毛布をずらし、黒く焦げた指先で自分の喉仏を押さえた。


「ここが、死ぬほど熱くなるんだよ。夜になるたびに焼け死にそうになる。吐き出さないと本当に死んでしまう」そう言って男は唾を飲み込んだのか、喉をごくりと鳴らせた。「ただ、我慢できなくなって、吐くとやつらが来る」


 やつら──?

 そう問い掛けると、男は原形を留めずに焼け落ちた部屋の奥を顎で示した。


 床板は炭化し、窓は溶け、壁紙は熱で縮れ、剥き出しになったコンクリートの壁は割れていた。


 その裂け目の奥に、何かがいた。


 灰色の顔。皮膚は剥がれ、眼球だけが濡れてぐりぐりと動いている。


 私は小さく悲鳴を上げて反射的に後ずさった。

 男が笑った。


「そいつは燃やせば消えるんだよ。でもね、灰からまた芽吹くんだ」

 

 男の話は三週間前に遡った。

 ある裏通りの廃ビル──元々は印刷会社だったらしい──に、たまたま夜に酔っ払って入り込み、三階まで上がるとそこに古い事務机があった。金目のものでもないかと引き出しを開けると──乾いた獣の頭蓋が入っていた。小動物には違いないが、何の生き物なのかは分からず、物珍しさから両手に取って持ち上げると、その口の奥には黒い塊があった。


「それはいきなり溶けた。それが俺の喉に落ちた。全部、それからだ」


 以来、夜になるたび喉が炉のように熱を帯び、呼吸とともに火を吐き出せば必ず部屋にあの顔たちが現れるようになったという。


 男はよろよろと立ち上がると、私に背を向けた。


「見せてやるよ」


 めらめらと湿った轟音が男の喉奥から漏れ出し、男は──火を吐いた。

 紅蓮の光は息の形を保ったままに宙を燃やし、焦げた壁にぶつかって爆ぜた。 


 ──その時。

 壁の裂け目から、それらが一斉に這い出してきた。


 焼け爛れた頬、骨のみの歯列。そして穴のように窪んだ眼。

 一体、嗤っているのか鳴いているのか判別できない口元。


 それらの顔たちは、炎に群がり、焼け残った皮膚を泡立たせ、ぱちぱちと音を立てながら燃え落ちていく。

 だが、その下の灰が渦を巻き、新たな顔を芽吹かせる。

 ――やがて。

 湿った眼球が、眼窩の奥から生えてきた。


 熱は部屋の空気を歪ませていた。

 この顔たちを始末するために、男は火を何回吐き続けてきたのだろう。

 ついに部屋が焼け落ちた訳だが、それでも、もう火を吐く事を止められないのではないのか──。


 その時。


 コンクリートの壁が、どくん、と脈打つように動いた。

 次の瞬間、溶けた窓枠の外に──巨大な灰色の顔が貼り付いた。

 ひび割れた唇が、音もなく開いた──。


 ──返せ。


 返せ?


 ──炉を。炎を。


 炉? 炎?


 私は戸惑ったが、男はその巨大な顔の言葉を嘲笑すると、さらに火を吐いた。

 骨が軋み、喉と胸が裂ける音とともに、炎は部屋一杯に広がった。

 顔たちも、灰も、自らの肉体をも飲み込む炎。


 ─だが。

 灰からは、また顔たちが芽吹いてくる。


 何度も。

 何度も。

 何度も。


 芽吹き続け──。


 ふと、私は気付いた。

 さっきまで焼け跡の床だった場所が、もう消し炭になって消えてしまった男の喉の奥と同じ紅に染まり、脈打っている。

 そして私の足元の灰からは──あの男の顔が芽吹き、口を開いた。


 ──お前も、吐け。


 外界ではまだ放水音が聞こえてくるような気がする。

 その音は、今は喉を冷やしたい、たったそれだけの私の願望が招いた幻聴だったのだろうか。


 やがて、私の喉の奥で、何かが脈打ち始めた。

 

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