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リカ

作者: マサキ

中学二年生の教室は、僕にとって小さな箱庭のような世界だった。クラスは男女三人ずつの班で構成され、授業も、掃除も、何もかもがその単位で動いた。


今思えば歪なルールだが、班長は男子、副班長は女子と、その役割は暗黙のうちに決まっていた。けれど、僕たちの班だけがその例外だった。班長に選ばれたのは、「リカ」という快活な女の子。僕を含めた男子三人が揃いも揃って頼りなかったせいもあるだろう。だがそれ以上に、彼女が誰よりも聡明で、リーダーシップがあったからに他ならない。


僕は彼女のことを好ましくは思っていなかった。彼女が班長に選ばれたからではない。その感情は、もっと以前から、根深く僕の中に存在していた。彼女が常に模範的な「優等生」だったことへの、ありふれた嫉妬もあったのかもしれない。

もし同じ名前の方がいたら本当に申し訳ないのだが、僕には「リカ」というその名前の響きすら、どこか棘のように感じられたのだ。もちろん、そんなことはおくびにも出さない。ただ、心の中で静かに壁を作っていた。


何でも自分で決め、ぐいぐいと事を進めようとする彼女の姿勢も、僕の気に障った。自分たちの不甲斐なさを棚に上げた、ただの子供じみた反発心。今ならそう笑って言えるが、当時の僕には、それが世界の全てのように息苦しかった。


些細なことが火種となり、僕と彼女は毎日のようにぶつかった。僕があまりに子供で、自分の感情のささくれを隠す術を知らなかったからだ。口論の結末はいつも同じ。僕の心ない一言が、彼女を傷つけ、その瞳に涙を浮かばせる。すると、教室中の女子がたちまち彼女の騎士団となり、僕はたった一人の敵になった。教師に呼び出され、諫められたことも一度や二度ではない。あの日々ほど、学校へ向かう足取りが重かった時期はない。


僕たちの間の溝を、決定的で、そして修復不可能なほどに深くした事件が起きたのは、奈良公園への遠足でのことだった。


ここでも行動は班単位。僕は、今思えば本当に愚かで幼稚な悪戯を思いついた。女子たちを撒いて、あっと驚かせてやろう、と。僕たち男子グループは計画通りに彼女たちの視界から消えることに成功したが、それは同時に、僕たちが完全に彼女たちを見失ったことを意味していた。携帯電話なんて便利なものがない時代だ。チェックポイントに班員全員で辿り着くというルールは、どちらのグループも果たせないまま。はぐれた互いを探す焦りと、悪戯が失敗した気まずさの中で、遠足の時間は無情に過ぎていった。


最終集合場所で僕たちを見つけた時の、リカの鬼のような形相を、僕は一生忘れることができないだろう。それは単なる怒りではなかった。裏切られたことへの深い失望と、どうしようもない悲しみが、彼女の整った顔を歪ませていた。


その日から、リカは僕を完全に無視するようになった。まるで僕がそこに存在しないかのように、空気として扱った。皮肉なことに、その氷のような沈黙は、僕の心を驚くほど軽くした。もう彼女と諍いを起こすことも、誰かの敵になることもないのだから。


そんな安堵も束の間、僕は体育の授業中の不注意で腕を骨折してしまった。ギプスで固められた右腕と過ごす、不自由な一ヶ月。その間も、リカの沈黙は続いた。廊下ですれ違っても、その視線が僕の上を滑っていくのが分かった。心のどこかで、少しは心配してくれているかもしれない、なんて淡い期待を抱いていた自分に気づき、一人で苦笑いした。


一ヶ月後、ようやくギプスが外れた日の放課後だった。がらんとした教室で帰り支度をしていると、不意にリカが僕の席までやってきた。そして、低い声で一言、「ちょっと来て」と告げた。その瞬間、僕は冗談ではなく、本気で「殺される」と思った。彼女の瞳の奥には、一ヶ月間溜め込まれた、得体の知れない感情が渦巻いているように見えたからだ。


無言で彼女の後をついていくと、普段は人の気配がない、美術室や技術室が並ぶ特別棟へと入っていく。リカは、迷いなく美術室の扉を開けた。ひんやりとした油絵の具の匂いが鼻をつく。彼女は壁にかかった一枚の絵の前で足を止め、顎でそれを指し示した。


それは、美術部員が描いたであろう風景画だった。森の中を流れる小川。けれど、どこか不思議な視点で描かれていた。地上から見上げたのではなく、まるで木の枝に止まった鳥の目線で、静かな水面を見下ろしているような。絵のことはよく分からない僕でさえ、その絵に強く惹きつけられた。


「裏、見て」


リカが呟く。言われるがまま、キャンバスの裏側を覗き込む。木枠には、作者のものだろうか、「ayano」というサインがあった。綾乃。小学校の頃、同じクラスだった女の子だ。ぼんやりとした記憶を手繰り寄せていると、そのサインの横に、小さな落書きがあることに気づいた。


相合傘。そして、綾乃の名前の隣には、僕の名前が書かれていた。


「えっ…」


驚いて顔を上げると、リカは胸の前で腕を組み、僕を睨みつけるように仁王立ちしていた。その肩は、微かに震えているように見えた。


「綾乃ちゃん、あんたのこと、好きみたい」


僕が言葉を失っていると、彼女は続けた。その声は、怒っているようでもあり、泣き出しそうにも聞こえた。


「……私も好きなの! どうしたらいいの!」


その叫びは、僕の予想の全てを打ち砕いた。嫌われるようなことしかしてこなかった。僕自身、彼女を心から嫌っていたはずだった。なのになぜ。僕が呆然と立ち尽くす前で、リカはとうとう堪えきれなくなったように、わっと泣き出した。それは、いつもの喧嘩の後と同じ泣き顔だったけれど、その涙の熱だけは、全く違って感じられた。


「私と、付き合ってよ!」


今となっては、あの時の胸の内はひどく曖昧で、言葉にすることができない。だが、その涙を見過ごしてはいけないという、ただ一点の強い確信だけは、今も胸に焼き付いている。僕は、こくりと頷いた。彼女が差し出してくれたものすべてを、受け入れるために。


次の日から、教室は静かに沸き立った。あの犬猿の仲とまで言われた二人が、一緒にいる。誰もが目を丸くし、遠巻きに僕たちを眺めていた。そして何より周囲を驚かせたのは、あの圧倒的強者だったはずのリカが、まるで猫のように僕に甘えるようになったことだ。


僕たちの家は学校を挟んで正反対の方向にあったけれど、部活がない日は、いつも一緒に帰った。僕が彼女を家まで送り、それから自分の家路につくのがお決まりのコースになった。時々、彼女の家に招かれることもあった。


リカの家で、僕はたくさんの「初めて」を知った。インスタントではない、豆から挽いたドリップコーヒーの味と香り。地元のパン屋では見たこともない、雲のようにふわふわで分厚い食パン。ココナッツミルクの甘さに驚いたグリーンカレー。リカと彼女のお母さんが作った、甘さ控えめの手作りケーキ。女の子の部屋に入ったのも、誰かとキスをしたのも、全てが初めてだった。それまで僕が知っていたリカとは全く違う、柔らかくて、甘い香りのする彼女がそこにいた。


僕たちの関係は、中学を卒業するまで続いた。僕は地元の公立高校へ、成績優秀だった彼女は県外の私立の女子高へと進学した。生活のリズムが変わり、距離が離れると、僕たちの心も自然と離れていった。不思議なことに、会えなくなっても、悲しいとか寂しいといった感情はあまり湧いてこなかった。

それはリカも同じだったのかもしれないが、それはもう確認する術はない。


結局のところ、僕はリカを愛していたのだろうか。好きだったのだろうか。今でも、その答えは分からない。ただ、相手が僕を好きだと言ってくれたから、その手を握り返した。それだけだったのかもしれない。


彼女がいつ僕のことを好きになってくれたのかも分からない。もしかしたら、好きとか嫌いとか、そんな単純な言葉で分けられる感情ではなかったのかもしれない。反発と好意が渾然一体となった、あの思春期特有の強い引力。僕たちはただ、その引力に身を任せるように、互いを求め合っていただけなのだろう。拙くて、不器用で、けれどどうしようもなく純粋だった、あの二年間。その記憶だけが、色褪せることなく僕の心に在り続けている。

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