プロポーズ(完結)
婚姻届には林海の名前の他に、保証人欄には彼のお父さんの名前があった。
「これ……」
やっぱり本気なんだと実感して言葉が詰まる。
林兄の気持ちは理解しているつもりだけど、急なことすぎて戸惑いしかないままだ。世間一般と比べるのはやめようと思っても、昨日からの出来事が唐突過ぎてついて行けないというのが正直なところで。
でも、無理だとお断わりして関係が壊れるのも怖い。彼の気持ちが嬉しいのは事実だし、他の誰かにその想いを向けてほしくないって思ってしまう。
わたしはずるい。
ずるいよね。
下を向いたわたしに、林兄は「俺は無理強いしているか?」と、静かに問いかけてきた。
「父さんから保証人に名前を書くとき、無理強いはするなと言われた。お前が笑ってないならそれは無理強いだから引けと言われている。なぁ日向。俺の気持ちは迷惑か?」
わたしは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。林兄は黙ってわたしの返事を待っている。
わたしはお父さんとお母さんが死んで、陸斗と二人になって。林君のお母さんを始め、守ってくれる人のお陰で大人になれた。
それでもずっと不安な気持ちはあって。不意に怖くなってしまうこともあるし、人とのつながりに安心を覚えるのも確かだ。
陸斗が家を出て、仕事で忙しく動き回っているお陰であんまり考えなくて済んでいるけど、誰かに側にいてもらいたい気持ちがある。
でも恋人選びはとんでもない結果を招いた。
大和さんとのことは最悪だった。
相手の奥さんと子供に知られてないだけで、わたしはわたしやお母さんを苦しめた真田星輝と同じことをしてしまっていた。
こんなわたしが林兄の手を取っていいのかと思う。
結婚に同意することは、契約で絶対的な立場を手に入れることだ。
本来ならお互いの気持ちが同じ場所を目指して、高まって、二人で新しい家族を作りたいと思ってから準備をしてからするべきことだ。
こんな大切なこと、寂しいからって理由で受けていいはずはない。
突然の告白に戸惑いつつも、何の苦労もなくずっと思い続けてくれた純粋な気持ちを簡単に手に入れていいはずがない。なのに手を伸ばしたくなるのも正直な気持ちだ。
恋愛の失敗から彼氏はいらないと思ったし、結婚への興味も失っていた。
なのに林兄からの「結婚しよう」って言葉が、こうも簡単にわたしの気持ちを変えてしまう。
わたしは思ったことを正直に話した。林兄は否定せずに黙って、時々頷きながら聞いてくれた。
最後に「分かった」と言った彼は、「正直に答えて欲しい。答えがどうあれ、俺の気持ちは変わらない」と言ってから、「俺の気持ちは迷惑か?」とわたしに訊ねた。
「迷惑じゃない」
「そうか。分かった」
林兄は広げた婚姻届をゆっくりと折りたたんで端に避けた。そうして「日向由美香さん」とわたしの名前を呼んで。
「俺と付き合ってください」と、両手をわたしに差し出した。
わたしは彼の言葉に驚いた。なにしろ林兄は強引で、わたしはいつも彼のペースに引き込まれていたから。頭が良くて簡潔に物事を話す彼とこんなにも会話をしたのは初めてだし。彼の言葉が最もなように感じて、頷いてしまうことを恐れていたようにも思う。
けれどそうならなかった。
なぜなら林兄が折れてわたしの気持ちに寄り添ってくれたから。彼の余計なことはすっ飛ばして、わたしの人生に関わる立場になりたいとの欲求を曲げてくれたから。ちゃんと順番を踏みたいわたしの気持ちを優先してくれて、わたしが決断して手を取るのを待っている。
彼の手は大きくて、とても頼もしい。
強引な性格なのに、わたしの気持ちを理解て、わたしを思って差し出してくれた両手。
わたしは「よろしくお願いします」と彼の手を取って頭を下げた。
後でこの話を陸斗にしたら、「どうせまたすぐプロポーズされるよ」って言われて。
陸斗の予言は的中して、翌月から父と母の月命日の度にうちにやってきては婚姻届を広げて「結婚しよう」って、穏やかな表情で結婚を申し込まれることになる。
彼を失いたくないわたしも毎月のプロポーズを待ちわびるようになって、彼の専攻医が終わるのに合わせてプロポーズを受け入れた。
家族を失くしたわたしだけど新しい家族ができる。彼と一緒に手をつないで歩んで行けるのだ。楽しいことばかりじゃないだろうけど、幸せになれる予感しかない。
この手を離すことがない未来を想像するだけで、多少の困難は困難と思わず、笑ってやり過ごせる確信があった。




