桜
高校二年に進級した始業式で、久し振りに友達に会った。
「大変だったね、大丈夫?」と口々に言われて、泣きそうになるのを堪えて笑ってみたが、きっとぎこちなかったに違いない。
新しい担任からも「何かあったらすぐに言って、力になるから。頑張るのよ」と声をかけられた。
わたしは「はい」と返事をしたけど自信がなかった。
両親を亡くしたこともだけど、これからの高校生活を続けていけるのか。これまで通りなんて無理なんじゃないか。
きっと無理だと思いながら下を向いた。
考えると、体からすっと何かが抜けてしまいそうになって怖い。
忘れようとして顔を上げたら、新しくクラスメートになった隣の子が「一年のときって何組だったの?」って話しかけてくれた。
少しだけ気が紛れたけど、クラス替えだけが原因じゃない疎外感は拭えなかった。
わたしの傍らには、つい半月前まで父と母がいた。
父は自分が絶対に正しいと思っている節のある人で、本人は気付いていないようだけど、自分に甘く人に厳しい。
父の意に添わないと論理的に威圧される。反抗したくても、それが正しいから何も言えなくなって、気持ちはがんじがらめにされた。
わたしの成績が悪いと不機嫌になって母を責めるような人。勉強法を押し付けて、参考書も勝手に購入して、「買ってやったのに、してやったのに」って、やってなかったらなじられた。
何かを買うのに徹底的に底値を調べたり。予告なく服を買ったりしたら「それ幾ら?」との言葉が真っ先にでてくる。
わたしはイチゴが好きだけど、果物なんて必要ない、食べなくていいと言うような人。だけど無料のトッピングは不味くなろうと山盛りにする。
時々テレワークと称して、朝と夕のちょっとだけ仕事をして、残りは寝たり動画配信で時間を潰したりする人で、こんな人とは絶対に結婚しないと、わたしは父に白い目を向けていた。
なのに今は、身勝手でケチでモラハラっぽい父でいいから戻ってきて欲しいと心から思っている。
小学校低学年の頃までおんぶを強請ると、腰と膝を痛めても背負ってくれた。誕生日には欲しいと言ったものを何でも買ってくれた。小学校六年生の時までサンタクロースでいてくれた。去年は大きな遊園地に連れて行ってくれて、苦手な絶叫マシーンに何度も一緒に乗ってくれた。
わたしは中学生になってから父を嫌いになり始めた。優しい母にきつく当って詰ったり、気分次第で怒鳴り散らしたりする父が嫌いだったのに、今はいい思い出ばかりを恋しく思ってしまう。
母はわたしが大好きなイチゴをこっそり買ってきて、弟と三人で食べて証拠隠滅……というのを死んでしまう前日にもやってくれた。
思うように成績が伸びなかったら父からかばってくれた。
トッピングを山盛りにして不味そうに食べる父を面白そうに見ていた。
底値を調べてくれて助かると言って、浮いたお金はわたしと陸斗の進学に当てるのだと喜んでいた。
仕事をサボる父を「お父さんは人一倍努力したの。仕事ができる人だから楽な道を選べるのよ。羨ましかったら由美香も今のうちに頑張りなさい」と笑った。
毎日お弁当を作ってくれて、「女の子なんだし、もう高校生なんだから自分で作らせろ」と言う父に、「あなたは自分で作っていたの? わたしは母親だから、自分がやって欲しかったことを娘にやってるだけ。由美香が家事の出来ない大人になるのはわたしのせいね」と平然と言ってのけた。
もちろん、母はわたしに料理を教えようとしてくれたけど、楽な方を選んだわたしは水筒のお茶すら母に準備してもらっていた。
そのせいでわたしは弟に料理を作ってやれない。
今日も朝用のパンと、昼と夜の分のお弁当をコンビニで買って帰ってきた。
帰宅してキッチンに向かう。プラゴミの袋が床を占拠していた。資源ごみの日っていつだっけ? と思いながら、夜の分のお弁当を冷蔵庫にしまっていると、「姉ちゃん」と呼ばれた。
振り返ると制服を着た陸斗がいた。
黒い詰め襟の、何の変哲もない男子の制服。
父がとても背の高い人だったので、陸斗の制服は成長を見越してかなりぶかぶかだ。
明日は陸斗の中学校入学式。わたしは学校を休んで一緒に行くと決めている。
「似合うね」
初々しい弟にありきたりな言葉を向けた。
ぶかぶかでぜんぜん似合ってないけど、似合うって嘘をついた。
最近は傷付けないように言ってしまうのが癖になりつつある。
わたしが中学に入学する時は不安と希望に満ちていた。けれど陸斗の顔は曇っている。きっと今のわたしも同じだろう。
陸斗は何を思って制服を着たのか。
昼の分のお弁当を二個まとめて電子レンジに入れながら、「どうしたの?」と聞くと、「お母さんが……」と言って再び黙り込んだ。
「なに、どうしたの?」
もう一度聞いたら「何でもない」と背を向けられた。
わたしは慌てて陸斗を追いかけて腕を掴んだ。こっちを向かせて陸斗を見下ろす。
「どこにいくの!?」
剣幕に押されたのか、陸斗は泣きそうになって「ごめん」と囁くように言って下を向いた。途端に不安が押し寄せる。
「嫌だよ、陸斗までいなくならないでよ。そんなの嫌だよ!」
何でいなくなると思ったのか分からない。だけど急に不安になってしまったのだ。
お姉ちゃんなのに、怖くて涙がでて、声を上げて泣いた。そしたら陸斗も「ごめん」と言って泣き出してしまった。
わたしも陸斗も怖かった。
突然両親を亡くして。まだまだ子供なのに、陸斗なんて小学生だった。
陸斗は卒業式の後、二人より数メートル先を歩いていたから無事だったけど、トラックに弾き飛ばされてグチャっとなった両親の姿を目の当たりにしている。
父は即死。母は病院に到着する前に救急車の中で息がなくなった。陸斗はずっと「お母さん!」と叫んでいたと誰かが言っていた。
「ねぇ何? 制服着て、お母さんがって。何を言いたかったのよ」
「ごめん。なんか、怖くて。いなくなろうとしたんじゃないんだ。姉ちゃんこそ僕を一人にしないでよ。置いていったりしないでよ」
「置いてったりしないよ、行くとこないよ。わたしらはここしか帰るところないでしょ?」
涙を止めて、鼻をすすって電子レンジのスイッチを入れる。
「で、何を言いたかったの?」
電子レンジの庫内に明かりがついて、温めが始まった。
「お母さんが……入学式は家族で写真撮ろうねって。当日はお父さんが仕事だから、桜の木の下で前撮りしようって言ってたんだ」
「桜……」
わたしの入学式は中学も高校も、桜の木は緑とピンクの半々だった。母はそれを見越して、陸斗の入学式前に家族で写真を撮ろうとしていたらしい。桜は今どうなっているだろう。全く記憶がなかった。
「さっき公園の桜を見てきたら、だいぶ散って半分以上が緑になってたから」
「それでも良くない? 今から公園に撮りに行こう」
「散ってるのに?」
「明日になったらもっと散っちゃうよ。今のうちに行こう」
「じゃあ、弁当食べてから。朝抜いたからお腹すいてるんだ」
それは嘘。
食べ盛りだった陸斗は、あの日からわたしよりも食が細くなって、コンビニ弁当を完食できたことがなかった。