ホラー
玄関のドアを開けると、薄桃色のハイヒールが綺麗に揃えられていた。
見た瞬間、沖田さんから教えられたばかりの名前が脳裏に浮んで、かっとなったわたしは靴を脱ぎ捨て駆け上がる。
「陸斗!」と弟を呼びながらリビングに飛び込むと、目を丸くした陸斗がいて。リビングに繋がる和室の仏壇前には女が一人座っていた。
「真田星輝」と呟くと女はゆっくりとふり返って、「はじめまして、由美香ちゃん」と、垂れた目元を緩めて微笑んだ。
ゆるく巻かれた黒髪、優しい印象を与える眉。やり過ぎではないけど主張するマツエクに、しっかり線の入った涙袋。淡いピンクの口紅は艷やかで、ハイライトやシャドーもしっかり入った化粧。座っていてもほっそり小柄な体型。ベージュのワンピース、胸元は広く空いていて、全体的にふわふわした雰囲気の三十代女性。
「なんでこいつがここにいるの!?」
怒りに任せて陸斗を怒鳴ると「姉ちゃん?」と目を丸くする。「お父さんの会社の人で、お葬式と初盆に来れなかったからって……」と言い訳が聞こえた。
藤原さんを筆頭に同じ会社で親しい人はお葬式に来てくれているはずだ。この女が来なかったのなら派遣社員で会社と別物だからに違いない。
なのになんで今更。お母さんもいる仏壇になんでこの女が向かい合っているのか。
「陸斗君を責めないであげて」
「は? あなたに関係ありませんよね?」
「だって由美香ちゃんが怒っているのはわたしのせいだもの。日向さんにはお世話になったから手を合わせたかったの。わたしの我が儘で陸斗君が責められるなんて可哀想だわ」
こいつなに言ってるの? 頭おかしくない? 昨日で仕事辞めたんでしょ? なんでうちに来るのよ。ホラーなんだけど!
「父に言い寄ってたおばさんなんて気持ち悪いだけなのよ。中学生しかいない家に上がり込むなんて非常識!」
怒りを露わにするわたしの袖を陸斗が引く。「姉ちゃん!」と引き止められた。
陸斗がいるから口にしちゃいけないのに。わたしが我を取り戻しかけたところで、この女は更にわたしの神経を逆なでした。
「どうぞって上げてくれたのは陸斗君なのよ」
「未成年のせいにするな」
「それに、言い寄ってきたのは日向さんなのに。わたしは仕方なくお相手しただけよ」
「気持ち悪い写真まで送りつけといてよく言う!」
「うちの会社に来たの、やっぱり由美香ちゃんだったのね」
真田は「困ったな」と呟いて一つ溜息を吐いた。その視線は意味有り気で、わたしは沖田さんがこの女の名前を教えてくれた理由をここで思い出してしまう。
「わたしね、あなたのお父さんに言い寄られて本当に困っていたのよ。由美香ちゃんには分からないでしょうけど、会社で上手くやるには嫌なことにも耐えなきゃいけないの」
「死人に口なしだと思って嘘つかないで」
「嘘じゃないわ。一回り以上年上の男性なんて興味ないもの」
「父も三十過ぎた若作りのおばさんなんて興味ない」
さすがにムッとしたようで、気持ち悪いぶりっこの仮面が剥がれ落ちる。
「日向さんね。奥さんにかなり不満だったのよ」
「はあ!? なにいってんの? 意味不明」
「束縛や監視が酷すぎるって。夫婦でもスマホを勝手にみちゃいけないって知ってる?」
「見せ合うくらい仲良かったのよ。おばさんは部外者で何の関係もないから知らないだろうけど、父は母にぞっこんだったんだから!」
お前なんか眼中にない、父は掌の上で転がされてなんてなかったのだと、傷つけたくて嘘が口から溢れ出す。
「おばさんの言うことが本当なら仕事辞める必要ないよね。慌てて辞めたってことは、会社にいれないようなことしたからでしょ!」
「ガキが知ったような口きくんじゃないよ!」
堪忍袋の尾が切れたのか、怒った女が汚い言葉でわたしを罵りだした。
「目上を敬えって習わなかった? 挨拶もできないなんて躾がなってないのね。っていうか、おばさんって何? どこからどう見ても綺麗なお姉さんでしょ!」
「どっからどう見ても劣化に抗うおばさんだけど?」
鼻で笑ってやったら、作り込まれた顔が醜悪に歪んだ。
「なにこのクソガキ、ムカつくんだけど」
「おばさんと違って若いから。嫉妬でしょ?」
「言い寄ってきたのは日向さんだから。いい夢見せてあげたのに最悪!」
そう言って立ち上がった女はわたしをつき飛ばして帰って行った。
突き飛ばされたわたしは壁に激突したけど、「二度とくるな。次来たら警察呼ぶからね!」と逃げる背中に投げつけた。