相手の名前
夏休み明けてテストも終わった最初の土曜日。わたしは沖田さんから連絡をもらって弁護士事務所を訪れる。
陸斗に聞かれるのは良くないので、家や電話では話せないことだと言われたから、わたしから沖田さんの事務所に行くと言ったのだ。
嫌な予感がした。そしてそれは当たっていた。
「お父さんの会社に行ったそうですね」
藤原さんがチクったのだ。もりもりの甘々コーヒーをご馳走してくれたから味方だと思ったのに違った。
わたしが返事をしないでいると「由美香さんは未成年ですから私に相談されたのですよ」と沖田さんが続けた。
「沖田さんと藤原さんは繋がっていたんですね」
「お父さんの上司にあたる方なので。退職手続きでお世話になりました」
そうか。そうだよね。ちょっと考えれば分かることだった。
「苦情を言われましたか?」
父とさなの関係は会社としては良くないことだ。会社の人間である藤原さんがわたしの味方になってくれるなんておめでたい考えだった。
「藤原さんから返事を頂いています。藤原さんは由美香さんに直接伝えていいものか迷っていました」
あれ、苦情じゃないの?
わたしは不貞腐れた態度を改めて姿勢を正した。直接伝えてくれて大丈夫。なんなら今から藤原さんに連絡して聞きたいくらいだ。
「父はとても几帳面でした。さなのこと以外にも、たくさん証拠が残っています。わたしが本当に知りたいのは、さながお葬式に来たかどうかで、来ていたのならどんな気持ちで母に向かって手を合わせたのかなんです」
わたしはさなが父と気持ちを通わせているなんて思ってない。父の裏切りには心底失望したけど、結局は父も騙されていた可哀想な中年だったと思いたいのだ。
「結論から言うと、二人の間に不貞関係は認められませんでした」
「なんで!? 旅行に行こうとしてたんですよ!」
チャットには父にしか話せない、頼れないと綴られていた。
今日は一緒に過ごせてよかったとか、今夜はご馳走様でしたとか、二人きりで飲食を楽しんだ様子が窺えた。時には「落ち込み中」と銘打った、布団に潜り込んで上目遣いの加工写真が送られていたり。さなが会社を病欠と嘘ついて休んで、父の日帰り出張先に駆けつけて夕方から観光した証拠もあった。
年度末の旅行も、父は家族がいるからと何度も何度も断っていたのに。「頑張っても認めてくれない」「ちょっとの失敗を追求されて辛い」「誰も必要としてくれない」「日向さんの側だけがわたしの居場所」「わたしの気持ちなんてご迷惑ですね」「わたしなんて誰からも愛されない」としつこく同情を誘うような言葉に父が折れたのだ。
こんな文章ある意味恐怖だけど、若い(?)女に頼られた父は満更でもなかったのだろう。馬鹿すぎる。
「落ち着いて聞いてください。由美香さんが探している方は真田星輝さんと言います。派遣で事務をしている女性です」
「派遣って、父の会社の社員ではないってことですね?」
「そうです。お父さんの会社ではこういった問題が起きないよう、社員と派遣では個人的な連絡先の交換を禁止しているそうです」
「悪いのは父ってことですか?」
「この場合は双方が、と言うべきでしょう。結果的に一線は超えていないようですが、あの事故が起きていなければどうなっていたか分かりません」
これでは死人に口なしではないか。さな……真田が本当のことを言っているとは限らない。
「真田さんは日向さんから言い寄られて困っていた、旅行に誘われたことも藤原さんに相談するつもりだったと言ったそうです」
「そんなの大嘘です!」
わたしは思わずテーブルを叩きつけた。沖田さんが「冷静に」と静かにわたしを見つめている。
「嘘つき。その女は嘘つきです!」
「藤原さんは由美香さんに見せられたチャットの文面を覚えていて、それを伝えたら、まぁ……色々と大変なことになったそうですが。真田さんは昨日で派遣を辞めたそうです」
「辞めた?」
そんな簡単に?
藤原さんに父とのことを追求されて、嘘がバレたら逃げ出すなんてずるいと感じた。
「私と藤原さんは相談して、真田さんの名前を由美香さんに教えることにしました。あくまで藤原さんの主観ですが、危ない感じがしたそうです」
「それは、派遣を辞めるきっかけになったわたしに何かするってことですか?」
「分かりませんが、由美香さんは陸斗さんと二人暮らしです。用心に越したことはありません」
ただの相談女だと思ったけど危ない系? 父はとんでもない女に引っかかっていたのかもしれない。母を裏切った罰があたったのかもしれないけど、こっちにまで飛び火させないで欲しかった。
「真田さんが葬儀に来たかどうかまでは私には分かりません。それは由美香さんから藤原さんに訊ねても問題ないと思いますが、どうされますか?」
好きにしていいと言われて、わたしは少し考える時間を設けることにした。
沖田さんと別れたわたしは電車に揺られながらチャットを開くと、藤原さんに向けて「お世話になりました。ご迷惑をかけました。ありがとうございました」と、連続投稿した。