美しき大蛇
7 美しき大蛇
いつの間にか、俺の全身に浮き出ていた縞模様は消えていた。
体中を脈打つ感覚も消え、ある程度の平静を保っている。
大蛇が目を覚ますよりも先に、リトが目を覚ました。
と言うか、起こした。
全身びしょびしょのまま寝かせて置くわけにもいかず、用心しながらそっと声をかける。
「にゅー、何にょーまだ眠いにょ」
リトは、寝起きが悪い。
無理に起こすと、機嫌が悪くなる。
「リト、体が汚れてしまったから、そこの水場で洗っておいで」
夜刀神社には、手水舎など無い。
蛇口が壊れて水漏れしている立水栓があるだけだ。
しかし水漏れのおかげで、俺たちは清潔な水を飲み水として頂けていた。
リトは、目をこすりながら不快そうな顔をする。
自分の体が、ベタベタの粘液に覆われていることに気付く。
「にゅー、ベチャベチャにょー、何でにょー?」
リトは渋々立水栓に向かい、並々と水の溜まった木桶の中に飛び込んだ。
手で撫でたり、舌で舐めたりしながらリトは体の汚れを落としていく。
俺も背などを撫でてやり、それを手伝った。
丁度その時、ワンコたちから騒めきだす。
大蛇に変化があったようだ。
ワンコたちは、大蛇をぐるりと囲んで唸り声をあげている。
見れば、大蛇の体が少しずつ小さくなっていく。
ある程度縮むと、大蛇は徐々に人の姿になっていった。
先ほどのバケモノの姿が、まるで噓であったかのように、暗がりの石畳には美しい巫女が項垂れて坐しているのである。
事情を知らない人が見たら、美しき乙女を野獣が襲い掛かっている構図である。
俺は、リトの背を舐めるのをやめて、夜笑さんのもとに歩み寄った。
「夜笑さん。いったいどういう事なんだ?」
俺は、自分でも驚くぐらい静かに訊ねた。
さっきまでの慟哭が、不思議なくらい平静になっている。
夜笑さんは、乱れた前髪の隙間から悲しそうな目で俺を見た。
「私たち蛇神の一族は、人間との争いに破れ四散しました」
夜笑さんは、天を見上げ語りだす。
それは、御伽噺のような長い物語だった。
夜刀神が率いる蛇の一族は、人間との戦争に破れ各地へと離散した。
各々が、夜刀神を祀る社を築き人間たちと調和を図るべく水神の恩恵を与えた。
水神の恩恵とは、農耕の恵みである。
しかし、人間たちの文明が発達すればその恩恵の効果も疑われ、もともと忌み嫌われていたこともあり、一族への信仰も薄れていった。
各地の社は衰退し、廃墟となって森の木々に呑まれていった。
ここ十王台の夜刀神社も例外ではなく、もともと田園だった土地に人間たちの家屋が建てられ、蛇を崇める者などいなくなったのである。
「人間たちに疎まれる存在ではなく、崇められるようになりたかった」
見上げる夜笑さんの目から、一条の涙が流れた。
「もう一度、人々から愛される事叶わくとも、ここにいる事だけは知ってほしかった」
事情は、だいたい分かった。
しかし・・・。
「でも、だからって何故俺たちを喰おうなんてしたのさ?」
可愛そうだと思い始めていた。でも、まだ納得がいかない。
「主神夜刀神さまに変わって、私が力を得る事で蛇一族の復権を期す・・・。」
夜笑さんは、水で濡れていつもよりさらに小さくなったリトに対し、指をついて頭を垂れた。
「私には、過ぎたお力でした。此度の無礼、どうかお許しください」
石畳に額が付くほど平伏す夜笑さんに、リトが歩み寄る。
「良いにょ。許すにょ」
リトは、迷いもせず簡単に許した。
しかし俺は・・・。
「待ってくれ、夜笑さん。ムサシはどうしたんだ? 救ってくれと、あなたに託したムサシは・・・」
「申し訳ありません。ムサシさんは、手を尽くしたのですが救ってあげること叶わず」
夜笑さんが、そこまで言うとライデンがそれを遮る。
「喰ったのか?」
周囲のワンコたちが、一斉に夜笑さんを睨んだ。
「まさか、そのような事いたしません。ムサシさんは、残念ながらお亡くなりになり、お社の裏に埋葬いたしました」
それだけでは、とても信じられなかった。
リトを喰ったのを目の当たりにしたのだ。
「残念だけど、信じられない」
俺は、言った。
夜笑さんは、否定するでもなく無言でいる。
「どっちでも良いにょ。ムサシが喰われたとちても、喰われなかったとちても死んじゃった事に変わりないにょ」
リトが、不思議そうな顔をしながら俺に言う。
いや、そうだけどね。
そうじゃないでしょうー。
「どちらでも良いと申されますなら、真実を申し上げます」
夜笑さんは、再び頭を垂れて告げた。
「ムサシさんは、埋葬いたしました」
夜笑さんは、顔をあげて毅然と言った。
「わかったにょ」
リトは、勝手に納得した。
「待てって、それじゃ納得できないだろう! 俺だって、ライデンたちだって」
俺は、慌ててリトに詰め寄る。
しかし、リトは淡々と言い放った。
「だったら、掘り起こして確かめるにょ」
俺は、何も言えなくなった。
確かに、それが確実だった。
「わかりました。それで納得していただけるなら、そういたしましょう」
平伏していた夜笑さんが立ち上がった。
「いや、待ってくれ」
社の裏に向かおうとする夜笑さんを、ライデンが制す。
「すまなかった。ムサシの事、疑ってすまなかった」
「いえ、疑われても仕方ありません。現にリト様を飲み込んだのですから」
夜笑さんがそう言うと、リトが怪訝そうに首をかしげる。
「にゅー、リトがベトベトだったのは、夜笑がリトを喰ったのかにょ?」
え、今それ?
リトが、眉間に皺を寄せて夜笑さんに詰め寄る。
「も、申し訳ありません」
夜笑さんは、再び平伏する。
「待て待て、また振り出しじゃないか」
俺は、夜笑さんに飛びかかろうとするリトを羽交い絞めにして止めた。
「ムサシは喰っても良いけど、リトは喰ったらダメにょー」
リトは、顔を真っ赤にして怒っている。
いや、話がずれちゃったよ。
ライデンたちも、リトにあきれ顔である。
でも、これで一件落着・・・。
と、言う事でいいのかな?
いつも鬱蒼としている夜刀神社であったが、昼中には境内に日が射して快適なひと時が訪れる。
リトは、夜笑さんの膝の上で日向ぼっこをしていた。
喰われかけた事など、すっかり忘れてしまったようで、リトと夜笑さんは大の仲良しだ。
「リト様、今日は暖かくて気持ちが良いですね」
夜笑さんは、膝の上のリトを撫でながら何かとリトに声をかけている。
リトは、生返事をしつつ喉を鳴らす。
俺も、夜笑さんの太ももにすり寄って膝の上に乗ろうとしたのだけど、リトがシャーって威嚇するので、夜笑さんの太ももに寄り添って丸まった。
しかし、この美しい人間の正体が大蛇だとは夢にも思わなかった。
「ねぇ、夜笑さん。夜笑さんは、神様なの?」
俺は、素朴な疑問を投げかけた。
人の姿に化けられるし、俺たちの言葉もわかるし実は大蛇だし、凄い人? なんだろうけど・・・。
「いえいえ、私などそのような大それたものではありません」
夜笑さんは、どこか遠くを見ながら話を続ける。
「一族の長である夜刀様は、神として崇められましたが・・・。そもそも人間との争いで破れてしまうぐらいですから」
夜笑さんは、クスクスと笑う。
「自分で言うのもなんですが、私は妖程度の存在です。蛇も1000年生きれば大蛇となり」
夜笑さんは、膝の上で丸くなっているリトに目を落とす。
「猫も1000年生きれば、妖猫となる」
リトの耳が、ピンと立つ。
「リトも妖なの?」
俺がそう聞くと、リトが細い目で睨む。
年齢も訊きたかったけど、やめた。
機嫌を損ねると大変だ。
「おや、あれは・・・」
夜笑さんが、鳥居で一礼する人の姿に気付き、リトを抱いて立ち上がった。
腰の曲がったおばぁさんだ。ゆっくりと参道の石畳を歩いてくる。
夜笑さんは、慌ててそのおばぁさんを迎えに行く。
「ごめんなさい。整備が行き届かなくて、お足元が悪いですが・・・」
夜笑さんは、リトを着物の懐に潜り込ませ、おばぁさんの手を取る。
「ああ、これはご親切にありがとうございます」
おばぁさんは、夜笑さんに優しく微笑んで礼を言った。
「幼いときは、よくこの神社で遊んでおりましたけど、その頃は足元なんて気にもしなかったのに、歳は取りたくないものですね」
おばぁさんは、夜笑さんに手を引かれお社の前で頭を垂れた。
「夜刀様、ご無沙汰しております。このような歳になりまして、最後のご挨拶に参りました」
おばぁさんは、手を合わせて静かに語りだした。
夜笑さんは、その傍らに立ち胸元から顔を出すリトの頭を撫でる。
「あの頃は、辛い時代でした。食べ物もなく、着ている服も継ぎはぎだらけで・・・。でも、ここに来てお友達と遊んでいるときは、何もかも忘れて日が暮れるまで走りまわっておりました」
おばぁさんは、低いお社の屋根を懐かしそうに見上げる。
「ごめんなさい。お社の屋根に穴を開けてしまったのは、私なのです。男の子と一緒に屋根によじ登って・・・」
そんなお転婆だったのか・・・。今では想像もできない。
「綺麗な巫女さんがいらした。叱りもしないで、にっこり笑って屋根を直して下すった」
おばぁさんは、傍らの夜笑さんに目を向けた。
「そうそう、ちょうどあなたぐらいの年頃の巫女様だったわ」
夜笑さんは目を細めるおばぁさんに、にっこり笑って頭を下げる。
「夜刀様、本当にありがとう。色々な事がありましたけど、いつもあなた様の加護を感じておりました。良い人生を遅れました」
おばぁさんは、夜笑さんに顔を向けたまま言った。そして、お社に向き直ると一礼し夜笑さんにも頭を下げた。
「よいお参りでした」
夜笑さんも深々と頭を下げる。
「そこまでお送りいたします」
夜笑さんは、おばぁさんの手を取り参道を鳥居に向かって歩いて行った。
ここからは何を話しているのか聞こえなかったけど、おばぁさんは夜笑さんとなにやら語らいながら、名残惜しそうにゆっくりとした足取りで、石畳を一歩一歩歩んでいった。
あれ、誰もいなくなっちゃった。
俺は急に寂しくなったけど、今更夜笑さんを追いかけるのも格好悪いので、お社の軒下で伸びなどしてみて、眠くもないけど丸くなって寝たふりをした。
まだかな・・・。
薄目を開けて、鳥居の方をうかがう。おばぁさんと夜笑さんは、立ち話をしているようだ。
このままどっか行っちゃったりしないかな?
俺は、目を瞑っては片目を開けて様子を見たりを繰り返した。
うう、自分が・・・ちっぽけで情けない。でも、しょうがないじゃない。
あ、帰ってきた。
俺は、安心して目を瞑った。にんまりと笑んでしまう。
夜笑さんは、お社の前で立ち止まると懐のリトを撫でながら、鳥居の方へ目を向けた。
鳥居の先には、もう誰もいない。
でも、夜笑さんは誰もいない鳥居の先を、リトを撫でながらしばらく眺めていた。
「あのおばぁさん。夜笑さんを夜刀神様だと思っているのかなぁ」
素朴な疑問だった。
答えてくれなくても良かったのだけれど、夜笑さんは答えてくれた。
「あの方は、珠緒さんと言って小さな頃からよくこの神社に遊びに来てくれました。ずいぶん昔ですが、当時からあまり訪れる人は無かったので、子供たちが遊びに来てくれると、とても嬉しかった」
夜笑さんは、着物の胸元からリトを取り出すとお社の扉の前に腰を下ろし、膝の上でリトの背を撫でた。
「たぶん・・・。神様とか、人間とか関係ないのですよ。あの方は、昔の馴染みに会いに来たのです」
「じゃぁ、あのおばぁさん。子供の頃会った巫女さんが夜笑さんだって気付いているの?」
「どうでしょう。そんな気はしましたが、人間は歳をとると子供に帰ると言いますし、幼いころの珠緒さんがいらしたのかもしれません」
そんなこともあるのかな・・・。
あ、あのおばぁさん、ちょっとボケちゃってるのかな。
でも、不思議な気分だった。
人間と神様、妖との関係って何だろうな。
夜笑さんの膝の上で、リトが毛繕いをはじめた。
「ねぇ、リトはどう思う? あのおばぁさん。夜笑さんに気付いたかな」
リトは毛繕いをしながら面倒くさそうに俺を一瞥する。
「もうすぐ動かなくなるシワシワの人間のことなんて、どうでもいいにょ」
冷たい奴だ。
訊かなければよかった。
こいつには、思いやりとか愛とかないのだろうか・・・。