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まだ終わっていなかった

   5 まだ終わっていなかった



 俺とリトとワンコたちは、十王台に向かって駆けていた。

 人間たちから見たら、異様な光景であっただろう。

 しかし、犬と猫では走る能力が違う。

 俺はすぐへばった。


 めちゃくちゃ眠かったし、足裏の肉球はすりむいているしで、ワンコたちからどんどん遅れをとった。

 そこに、あのセントバーナードが声を掛けてくれたのである。

 危うく生贄にされそうになった、あのセントバーナードだ。


 名前をバウと名乗った。


 バウは、優しい眼差しで背に乗れと言ってくれたのである。

 ああ、ありがたい。

 苦しいときの親切は、心にしみる。


 こんな優しいワンコを、リトは簡単にヒグマに差し出そうとしたのだから、恐ろしいヤツだ。

 そしてそのリトは、バウに背負われた俺を見て、傍らのライデンの背に飛び乗った。

 ライデンは、文句ひとつ言わない。


 出会いは最悪だったけど、こいつら良い奴らだな。

 リトは、ライデンの背ですぐに寝息をたてはじめた。振り落とされないように、ライデンの首に爪をたてている。


 そのライデンの首からは、血がしたたり落ちていた。


「ライデン、血が・・・」


「これしき何てことない。お前たちが来てくれなかったら、流れた血はこんなものじゃなかった」


 か、かっこいい・・・。

 すごいなライデン。


 群れを率いるボスっていうのは、これぐらいかっこよくないとダメなんだろうな。

 俺は、そんなことを考えながら眠ってしまった。


 目が覚めると、すでに日は登っていて、そこは夜刀神社の鳥居の前だった。

 リトは、石畳の上で伸びをしている。


「にゅー、揺れてよく寝れなかったにょー」


 いや、いびきかいて寝てたわ!


「ありがとうライデン、バウ」


 さすがのライデンもふらふらだ。夜通し走り続けたのだから当然だ。


「いや、こちらこそありがとう。リト、シロ。お前たちのおかげで、俺たちとこの街の人間が救われた」


 俺は何もしていないけど、ちょっと照れくさかった。

 俺とリトはワンコたちと別れると、お社の中でまた眠った。

 俺たち猫だから、まだ眠いの。




 二度目の目覚めは、昼過ぎであった。

 さすがにお腹がすいた。


「リト、ご飯食べに行こう」


 俺は、傍らで眠るリトに声をかけた。

 リトはまだ眠そうにしていたが、ご飯の一言で起き上がった。

 お腹はすいているようだ。

 さて、どこに行こうかな。


「あ、加藤さんの所に行こうか。きっと心配しているだろうし」


「にゅー」


 リトは立ち上がったけど、まだ半分寝ている。

 ふらふらと俺の後をついてきた。

 エスズ電気に着くと、加藤さんが半狂乱で出迎えた。


「きゃぁぁぁぁーあなたたち無事だったのね!!」


 いやいや、大袈裟な。

 加藤さんは、俺とリトを抱き上げてなんども頬ずりをした。


「昨日あなたたちを降ろしたあたりで、ヒグマが出たらしくて大騒ぎだったのよ! 食べられちゃったんじゃないかって、心配したんだからー」


 ああ、そういうことね。大騒ぎにはなるわな。

 俺とリトは、いつものテレビの前にやってきた。

 テレビには、俺たちが昨日ヒグマと闘った足高山周辺の映像が映し出されている。


「にゅー、どこかで見たことあるにょー」


 リトは、不思議そうに首を傾げている。

 もう昨夜の事も覚えていないのか・・・。

 テレビには、ヘルメットを被った女の人が深刻そうに語っていた。


『昨夜、足高山南派出所を襲ったヒグマは、派出所の入口を破った際の衝撃で気を失ったとの事でしたが、もしヒグマが意識を保っていたら大変な被害が出ていた事でしょう。以上、現場からでした』


 被害が出ていないってことは、何とかなったんだね。あのヒグマも無事なら良いけど。


「はい、ご飯ですよー」


 加藤さんが、器を2つ持ってきて何やらにゅるーっとしたものを器の中に入れる。

 なんだろこれ?

 いつもの缶詰じゃないぞ。


「ふふふ、今日は再会のお祝いね。このお店で一番の高級キャットフードよ! ニャウニュール!!」


 ニャウニュール?


 俺とリトは、恐る恐る器に鼻を近づける。


 ん? これは!!


 魚肉の新鮮な香り! しかし決して生臭くなどなく、しっかり血抜きもされている!!

 俺たちは、すぐさま器の中に顔を突っ込んだ。


 なんだーなんなんだこの食感!

 なんなんだこの旨味!!


「うまいーーーーーー」


 こんな美味しいものは、はじめて食べた。

 恐るべしニャウニュール!

 恐るべし人間!


 リトも大満足のようだ。

 俺たちは、あっという間にそれを食べ終わり、余韻でボーっとしてしまっている。

 口の中が、シ・ア・ワ・セ・・・。


 リトは、すっかり気をよくしたようで加藤さんに猫なで声をだして甘えている。


「あらら、にゃんちゃん。やっと慣れてくれたのね」


 加藤さんは、リトを抱き上げると愛おしそうに撫でた。


「にゅーカトーの胸は、大きくて柔らかくていいにょー」


 リトは、加藤さんの胸に顔をうずめてご機嫌だ。


「いいなー。俺も俺も」


 俺も加藤さんに甘えようと、加藤さん足にしがみついた。


「あら、白いにゃんちゃんも今日は甘えん坊ね」


 そう言って加藤さんは、腰をかがめて俺を抱き上げた。


「にゅー、ここはリトが先に見つけたにょー」


 リトの右後ろ脚が飛んできた。

 その足は、俺の左前腕部から左側頭部に致命傷となり得る衝撃を与えた。

 ヒグマですら2発で仕留める怪力である。


 俺は、店の白物家電コーナーまで飛ばされて、隅に置かれてホコリを被った2槽式洗濯機の脱水機の中に落ちた。


 そして、開いていた蓋がなぜか閉まる。

 暗い・・・。

 でも生きている。


「大丈夫!?」


 加藤さんが、蓋を開けてくれた。

 女神か天使に見える。

 その仙女に等しい加藤さんの胸に抱かれたリトが、蔑むような目で俺を見ている。


 こいつーーーー!!


 なぜか丈夫な俺じゃなかったら、死んでたぞ!

 俺は、怒り全開で牙と爪を剥き出しに、毛を逆立ててリトに飛びかかった。


 今日という今日は許せん。

 この横暴、許してはいけない。


「ほら、暴れないの」


 加藤さんは、そう言って脱水槽の蓋を閉めてしまった。

 俺は、蓋にはたき落され再び脱水槽の中に閉じ込められた。


 暗い・・・。

 酷い・・・。

 加藤さんまで・・・。




 エスズ家電を出たのは、西の空が茜色に染まるころであった。

 ずいぶん長居してしまったのは、2槽式洗濯機の脱水槽のせいである。


 俺はあの暗闇の中に閉じ込められてしまったのだが、不思議な事にしばらくすると、心地よくなってしまって、お腹がいっぱいだったこともあり、眠りこけてしまったのだ。


 いつの間にかリトも上から降ってきて、2匹であの狭い脱水槽で寝ていたのである。


「さて、どうしようか? もう全然眠くないし、どこか遊び行こうか?」


 俺は、隣で別れ際に加藤さんからもらったスルメをモグモグしているリトに訊ねた。


「にゅー、どーぶつえんでライオン転がすかのー」


「却下! ライオン可愛そうだよ」


「にゅー、何でにょー」


 エスズ家電の駐車場を出て、大きな道路を渡るときだった。

 道路の反対側に、ライデンを見かけた。


「お、ライデンだ」


「ライデンじゃ物足りないにょー、ライオンがいいにょー」


「転がすなよ!」


 俺は、ライデンを呼びながら道路を渡った。

 ライデンもすぐ気づいてくれて、その場で待っていてくれた。


「ようシロ、昨日はありがとうな。リトもありがとう」


「怪我は大丈夫かい?」


「ああ、あれぐらいどうってことない」


「そういえば、ムサシを見ていないか? 夜笑さんも今日は見かけていなくて」


 俺がそう問いかけると、ライデンはしばらく考えこんだ。


「ムサシは・・・。ムサシの事は気にしなくていい。それより、お前たち寝床を変えた方が良い」


「なんで?」


 今の寝床である夜刀神社のお社は、静かで最高の環境だ。それをわざわざ変えるなんて、どういうことだろう?

 そうだ、以前ライデンが蛇に気をつけろと言っていたな。


「蛇の事? 蛇なんて全く見かけないよ」


「ああ、しばらく姿を見なかったが、帰ってきたようだ。悪いことは言わない。あそこは捨てろ」


 んー。蛇なんてそんな恐れる必要も無いと思うけど・・・。


「わかったよ。リトと相談して決めるよ」


 俺は、そう言ってライデンと別れた。




 それから数日たっても、ムサシも夜笑さんの姿も見ることは無かった。

 ライデンは気にするなしか言わないし、リトにも訊いたけど・・・。


「ちらないにょ。チロと一緒にいたからチロが知ってることしか知らないにょ」


 リトはそう答えるのだけど、何か知って言わないような気もする。

 あれだけの怪我をしていたのだから、回復に時間がかかっているのだろうと、俺は自分に言い聞かせて日々を過ごしている。


 ライデンに住処を変えるように勧められたけど、リトはまともに取り合わない。

 なので、今も夜刀神社で暮らしている。

 でも、なんか雰囲気が違うんだよね、この神社界隈。

 いつも鬱蒼としていて廃墟のようだけど、ここ最近はさらにどんよりとした空気に包まれている気がする。


 俺はなんだか不安になって空を見上げた。

 木々の葉に阻まれて、少ししか空は見えないのだけれど、今にも雨が降り出しそうな雲に覆われていた。


「チロー、早くするにょ」


「あ、ごめん」


 参道の先の鳥居でリトが呼んでいる。

 散歩と称して、ご飯探しに出かけるのだ。

 エスズ家電には毎日のように言っているけど、あれ以来ニャウニュールは出てこない。もっとおいしいものを探そうと、昨日から新たな餌場を開拓中だ。


「今日は、エスズ家電の裏の方に行ってみようか? 俺もあまり行ったことがないんだ」


「にゅー、ニャウニュール食べたいにょー」


「ニャウニュールは、難しいと思うけど、きっと同じくらい美味しいものが、どこかにきっとあるよ」


 リトが、俺を睨む。

 その眼は、お前何言ってんだ? ニャウニュール喰いたいって言ってんだろうが! と言っている。

 ま、そういう訳で俺たちは大通りを渡ってエスズ家電の前を通り過ぎ、その裏にある未開の地にやってきた。


 エスズ家電の大きな駐車場の奥には、人間が物造りをしている工場があった。割と大きな工場だが、今は人の気配がない。建屋もだいぶくたびれているので、もう使われていないのかもしれない。


「誰もいないみたいだね」


「にゅー、食べ物のニオイもしないにょー」


「他の所に行ってみよう」


 俺がそう言って建物の敷地を出ようとしたとき、ポツリと雨粒が落ちてきた。

 突然に、音を立てて大量の雨粒が落ちてくる。


「にょー無理にょーなんなんにょー」


「ダメだ、工場に戻ろう」


 俺たちは、慌てて工場に戻り急遽雨宿りをすることになった。

 真っ黒な空を、二匹でしばらく眺めていたが、雨は一向に止む気配がない。


 雨は、工場の古びた金属の屋根や外壁に打ち付け、激しい音を打ち鳴らしている。


「やまないねー」


「つまらないにょー。探検するかにょー」


 リトは、工場の中の様子を窺っている。

 そこに、一台の車が工場の敷地内へ入ってきた。黒くて大きい四角い車だ。


「誰か来たよ。隠れよう」


 俺は、すぐさま近くの金属の箱の裏に隠れた。

 しかし、リトはボケーっと降りてくる人間たちを眺めている。


「おいリト、なにやってんだ! 隠れろ」 


 車からは、4人の男とひとりの小さな女の子が降りてきた。茶色いクマのぬいぐるみを、大事そうに抱えている。

 女の子の手を一人の男が引いているのだが、女の子は嫌がっているように見えた。


「リト、はやく」


 男たちが近づいてきたので、俺はリトを小声で呼んだ。

 リトは振り向きもしない。

 そのうち、男たちがリトに気付いた。


「何だこの猫? 捨て猫か?」


 男たちは、リトを無視して建屋の中に入ろうとする。

 俺は、少し安心してリトを呼ぼうとしたそのときだった。


 何故かリトは、ひとりの男の足にすり寄って行った。

 アホか! どう見たってエサなんてくれそうにない人間だろうに。


「なんだよ! じゃますんな」


 リトがすり寄って行った男は、あろうことかリトを足蹴にした。

 リトは、建屋の壁に叩きつけられて、まるで肉魂のように地面に落ちた。


「にゃんちゃんが!」


 叫びそうになった俺の代わりに、小さな女の子が叫んだ。


「うるせーよ! 大きな声出すな」


 嫌がる女の子を、男たちは無理やり建屋の奥へ引きずって行く。

 俺は、鉄箱の裏で男たちの声が小さくなるのを震えながら待っていた。

 リトが、リトがやられてしまった。


 どうしよう・・・。


 男たちの声が聞こえなくなると、俺は慌ててリトの元に駆け寄った。


「リト、リト。大丈夫か? 返事をして?」


 俺が、リトを抱き起こしながらリトに声をかけた。

 リトはぐったりして、口から一筋の血が流れている。

 ああ、リト何でこんなことに。


「リトぉぉぉぉぉぉぉ」


 俺はリトを抱きしめて、泣きながら天を仰いで叫んだ。

 次の瞬間、なにかの衝撃が俺をリトの体から引き離した。


「うるさいにょ! 耳元で叫ぶなにょ!」


 リトは、無事だった。


「よかった。リト、無事なんだな」


「事無き事ないにょ! あいつらリトを足蹴にしたにょ!」


 リトは立ち上がると、怒りで全身を震わせた。


「このうらみ、はらさでおくべきかにょ」


 リトの全身から、怨念が黒い霧のように立ち昇り、周囲の空気を染めていく。


「リト、もう帰ろう。早く帰ろう」


 俺は、リトをなだめる代わりに早口で帰宅を促した。

 関わってはいけない。

 我慢して、諦めて、一刻でもはやくこの場から立ち去るべきだ。


「否!」


 何かを殴ろうとしたリトの右腕が空を切る。

 雷のような凄まじい音が鳴り響いた。


「あやつら、ゆるすまじ」


 リトの眼は血走り、怒りに我を忘れているかのようにも見える。

 俺は、そんなリトを見てその場にへたり込んでしまった。

 恐怖で腰が抜けた。


 そんなリトの目が、何かを見て止まった。

 俺は、リトの視線の先にあるものを探す。


 そこには、先ほどの女の子が落としたのだろうか?

 茶色のクマのぬいぐるみが落ちていた。





「兄貴、アイツ本当にやってきますかね?」


 不安そうな男の声が聞こえる。

 建屋の奥に開けた部屋があった。大きな機械が幾つか置いてある。何の機械だろう?


「可愛い娘のためだ。来るに決まってんだろう」


 四人の男たちの中で、一番体格のいい男が、恐らくボスなのであろう。


「警察に垂れこんだりしないでしょうか?」


「するわけねーだろ。今まで散々悪さしてきたんだ。今更警察にすがるかよ」


 少し離れたところにいた男が、へらへら笑いながら女の子の近くにやってくる。

 女の子は、椅子にしばりつけられているが、さるぐつわはされていない。

 可愛そうに、さっきからうわごとのようにママ、ママと言って泣いている。


 俺は、リトに言われて様子を見に来ている。

 足がずーとガクガク震えているけど、リトも怖いし人間も怖いし・・・。


「アイツが来たらぶっ殺すとして、こいつはどうするんです?」


 女の子の背後にいる小柄な男が、女の子を指してボスに訊ねる。


「二人ともやるに決まってんだろうが」


 ボスがそう言うと、意味が分かったのだろうか女の子は激しく泣きだした。

 その時、部屋の入口の扉が開け放たれた。

 男たちは、慌てて身構える。


「誰だ!」


 へらへらしていた男が険しい顔で誰何すいかする。

 その先にいたのは、茶色いクマのぬいぐるみであった。


「クマ吾!」


 女の子が、ぬいぐるみを見て叫んだ。

 クマ吾と呼ばれたクマのぬいぐるみは、開け放たれた金属の扉の前で腕を組み、仁王立ちで男たちを睨んでいた。


「何だ?」


 男たちは、訝し気にクマ吾を見ている。


「おい、お前見てこい」


 ボスは、へらへら男に命じた。

 へらへらは、舌打ちをして渋々入口の方へ歩いていく。

 へらへらが、部屋の扉に辿り着くとクマ吾を見下ろした。


「なんだこれ?」


 へらへらが、首をかしげてクマ吾を掴もうと手を伸ばすと、クマ吾は素早くそれをかわしへらへらの膝裏に蹴りを入れる。

 膝まついた男の顎に、クマ吾はカエルアッパーを見舞った。


 へらへらは、膝をついたまま後ろに倒れる。

 華麗に着地したクマ吾は、指を鳴らし首を回しながら、部屋の中央に向けゆっくりと歩み始めた。


 威風堂々と歩く様は、映画のヒーローのようであった。

 エスズ家電で、ちらっとそんな映画を見たような気がする。


 クマ吾は、男たちから数歩手前で立ち止まると、切れのある正拳突きを右左右とやってみせ、大股で足を開くと首を回して見得を切った。

 そして、突き出した拳を開き掌を上に向けると、指を前後に動かす。


 かかってこいと言わんばかりのこの仕草、どこかで見たことがある。


 そうだ、あの映画だ。

 カンフーの達人が、大勢の敵と闘う時に見せていた。


「なんだこれ! ロボットか?」


 小柄な男が、近くに落ちていた金属の棒を拾うとクマ吾をそれで殴りつける。


 金属の棒がクマ吾に当たる寸前、クマ吾は川面を流れゆく木の葉の如くそれをかわし、小柄な男の懐に入ると体に飛びついて、一気に顔面付近まで駆けあがる。


 男は、自分の肩に乗るクマ吾に目を向けた。


 その一瞬、二人は見つめ合う。


 クマ吾は、ゆっくりと右腕を振りかぶると、男の右頬に右フックを打ち込み、たて続けに左の裏拳で後頭部を、さらに左足の回し蹴りに右足の蹴りをくらわせた。


 静かに倒れる男の後に、コマのように回転しながらクマ吾が着地する。


「クマ吾! 助けに来てくれたのね」


 女の子は、嬉しそうにクマ吾に訊ねる。

 クマ吾は、女の子を見上げると静かに頷いた。


「おい、これでやれ!」


 体格のいいボスが、不安げな男に短刀を投げ渡した。

 不安げな男は、それを受け取ると奇声をあげながらクマ吾を切りつける。


「あぶない! クマ吾!」


 女の子は、椅子をガタガタ揺らし縛から逃れようとした。


「静かにしてろ」


 ボスは女の子をどなりつけた。その声に余裕はない。

 クマ吾は、出鱈目に切りつけてくる男の短刀を大きく飛び退いてかわした。

 そこでクマ吾は、再び突きや蹴りの演舞を見せ見得を切る。


 不安そうな男は、クマ吾に飛びかかろうとしていたが躊躇した。

 クマ吾は、まるでダンスを踊るかのようなステップを刻みながら、男の前に躍り出る。


 男は、その様子を目で追っていた。

 奇妙な動きに、目を奪われた。


 その男の視界から、クマ吾が消える。


 クマ吾は、一瞬で男の背後にまわっていた。

 クマ吾は、ジャンプすると空中で一回転しながら男の股間を蹴り上げる。

 男は、短刀を取り落とし悶絶しながらその場に倒れ込んだ。


「このバケモンがぁぁ」


 ボスが、懐から何やら黒いものを取り出した。

 それを見てクマ吾は、ボスから大きく距離を離す。

 パンパンパンと乾いた大きな音が室内に鳴り響く。


 ピストルだ!


 クマ吾は、走りながら旋回し銃撃をかわしていた。

 まずいぞ、まさかこんな物をもっているなんて・・・。

 人間の恐ろしい所はこれだ。


 とてつもなく強力な武器を持っている。

 脆弱な人間が、武器を手にしたことで最強の動物になったのだ。


「やめてぇぇぇぇ」


 女の子が、悲鳴をあげた。

 ボスは、室内を駆けまわるクマ吾に狙いを定める。

 また轟音が鳴り響いた。


 クマ吾は、旋回をやめピタリと立ち止まっている。

 その周りに土煙が舞う。


 一発も当たっていない。

 そのうち、ピストルは轟音を発しなくなった。

 弾切れだ。


「くぅそが」


 ボスは、弾の切れたピストルをクマ吾に投げつける。

 クマ吾は、拳を突き出し力強くかまえた。


「お前は、簡単には終わらせないにょ!」


 リトを足蹴にしたのはこの男だったか、頼むから手加減してくれよ。

 俺は、物陰からボスの無事を祈った。


 しかし、クマのぬいぐるみからニャニャーと猫の鳴き声がするものだから、ボスも女の子も不思議そうにしている。


「超本気! 千手観音菩薩拳にょぉぉぉぉぉ」


 雄叫びをあげながらクマ吾がボスに飛びかかった。

 両腕を振りかぶり、渾身の一撃を見舞うつもりだ。


「やめろぉぉぉ」


 俺は、物陰から乗り出して叫んだ。

 超本気、出すなぁぁぁ。


 クマ吾が、ボスの顔面にその大袈裟な名前の必殺技を出そうとした瞬間、何故かボスはゆっくりとその場に崩れた。


「にょぉぉぉぉ」


 クマ吾は、倒れたボスを慌てて揺り起こす。


「しまったにょー、足があたっちゃったにょー、起きるにょー」


 どうやら必殺技を出す前に、後ろ足がボスの額に当たってしまったようだ。

 ちょっと足が当たったぐらいで相手を失神させてしまうのだ、必殺技が出せなくてよかった。

 必殺であっただろう。


「よくやった。よく我慢したな」


 俺は、クマ吾の傍に駆け寄って労と平静を保ったことを讃えた。


「よくないにょ! 消化不良にょ」


「まぁ、良いじゃないか。結果良ければすべて良しだ」


 遠くからサイレンの音がする。


「もう行こう。後は人間にまかせよう」


「にゅん」


 クマ吾は、渋々したがった。


 寂しそうに部屋を出ていこうとするその背に、何故か哀愁が漂う。


「まって、クマ吾行かないで!」


 椅子に縛られたままの女の子が、クマ吾を呼び止めた。

 しかしクマ吾は振り向きもせず、片手だけあげて部屋を出ていく。


「クマ吾ぉぉぉぉ」


 女の子は、泣きながらクマ吾の名を呼ぶ。

 かっこいいなクマ吾。

 しっかり主人を守った英雄だ。


 俺は、可笑しくて笑い出しそうだった。

 でも、まだやることがあった。

 女の子の縛を解いてやらないと。


 俺は、女の子をしばりつけている紐を嚙切ろうとした。

 歯では噛み切れなくて、爪で切ろうと何度も引っ掻いた。

 なんだか爪を研いでいる見たいな図になってしまっているけど、この紐を切りたいだけなの。


 しかし、切れなかった。

 何度引っ掻いても、噛みついても切れない。

 ダメか・・・。


「ネコさんありがとう」


 女の子が、俺を見て微笑んでいる。

 俺に礼なんていらないよ。

 礼なら、君の大事なクマ吾に言ってやってよ。

 俺は、心の中でそう思いながらその場を離れた。


 ゴメン。後は人間にまかせるよ。

 サイレンの音が、すぐそこに迫ってきていた。

  



 俺が部屋の外に駆け出ても、クマ吾の姿は無かった。

 クマ吾を探しながら、俺は狭い通路を進む。

 すると、工場の出口に付近に何やら白い塊が落ちていた。


 なんだろう?


 俺は、その白い物に駆け寄った。

 綿だ。

 辺りを見渡すと、白い綿の塊があちこちに転がっている。


 そして、さらに出口に進むとペラペラの茶色い布が無造作に捨てられている。

 抜け殻のような茶色い布切れは、文字通り詰め物を抜かれたクマのぬいぐるみであった。


 工場の敷地に、慌ただしく1台の黒い車が入ってきた。

 まずいと思って、俺は物陰に身を隠す。

 長居しすぎた。


「由美子ぉぉぉ」


 慌てて車から降りてきた男が、悲痛な面持ちで工場に駆けこんできた。

 それを追うかのように、何台もの赤色回転灯を灯した車が工場の敷地に乗りつける。

 誰かの名を呼びながら、男が俺のすぐ目の前を走り抜けていく。


「パパぁぁ」


 さっきまでいた奥の部屋から、女の子の声がした。

 あの子の父親だったんだな。


 うわ!


 制服を着た警察官が、いっぱい俺の前を走り抜けていく。

 俺は、見つからないように小さくなって隠れた。

 部屋の奥から、怒号が聞こえる。


 俺は、恐る恐る目を開けた。

 すると、父親に連れられたあの女の子が奥の部屋から出てきた。


 よかったね。


 俺は、ちょっと嬉しい気持ちになった。


「きゃぁぁぁぁぁ」


 突然、女の子が悲鳴をあげた。

 どうしたんだ! なにが起きた?


「クマ吾ー、クマ吾がぁぁ」


 女の子は、抜け殻のようになったクマ吾を抱き上げて叫んだ。

 自分を救ってボロボロになったクマ吾は、あの子にとってまさにヒーローだな。


「誰が、誰がこんなことを! 誰がこんな酷いことを・・・」


 女の子は、クマ吾に顔をうずめて泣きだした。


「絶対、絶対に許さない。絶対に許さない!!」


 女の子は、怒りに満ちた目で叫んだ。


 ・・・。


 アイツもね、詰めが甘いんだよね。

 破いちゃったのは仕方ないにしても、せめて詰め物ぐらい戻していけばいいのに・・・。

 救ったのに、恨まれちゃったじゃん。


 俺は、そーと工場の建屋から離れた。

 もう雨はやんでいた。


 アイツは、どこへいったかな?

 たぶん、あそこか。


 俺は、すぐ近くのエスズ家電に向かった。

 エスズ家電に辿り着くと、案の定リトはそこにいた。

 テレビの前の座布団に、だらしなく横になってつまらなそうに人間たちのお喋りしている姿を眺めている。


 まぁ、いいか。

 俺も、リトの隣で背を丸めた。

   

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