主人公が正義とは限らない
32 主人公が正義とは限らない
突然現れた田力我聞に気を取られているうちに、黒いドレスの女は忽然と姿を消した。
「お前のせいで、逃げられたにょ!」
ああ、またリトが怒り始めた。
「フフ、俺はそのための捨て駒さ。しかし、大人しくやられもしないぜ。この船内で暴れられるだけ暴れてやる」
田力我聞は、スーツの内ポケットから紙の束を取り出した。
分身を作るときに使う人の形をした紙だ。
前回とは比べものにならない量の紙・・・。
こんなにたくさん田力我聞が現れたら大変だ。
「さぁ、鬼ごっこの時間だぜ!」
田力我聞は、そう言って紙の束を投げようと振りかぶった。
一瞬にして、その姿は消える。
風に吹かれて人型の紙が空と海に消えていった。
リトだ。
田力我聞にリトが飛びかかると、一瞬で白い粉になった。
この田力我聞も本体では無かったのだが、リトの一撃は一瞬で人型の紙を粉にした。
「本物を捕まえて、アイツの事を聞き出すにょ」
リトはそう言って、船内へと走り出した。
「リト様、待って!」
夜笑さんが、慌ててリトの後を追う。
声が震えていた。
泣いていたのかもしれない。
この騒動に、乗客の姿は無くなったが、変わりに数人の船員が集まってきていた。
「大往路様、どうされました!?」
船員たちは、破壊された棚や甲板に驚愕した。
壁に手をついて、辛うじて立っている老人カシンの姿に、船員たちは動揺を隠せない。
「良かった。君たち、落ち着いて聞いてくれたまえ。この船に、テロリストが乗っている。急いで乗客を避難させるのだ・・・」
老人カシンは、言葉を詰まらせながら指示した。
そして、千代さんをちらっと見る。
良くは見えなかったけど、千代さんは上着のポケットから何かを取り出し船首に向かって投げたようだ。
小さな爆発が起きる。
途端に船員たちは色めいた。
船長に知らせろ―――
乗客をホールに集めろ―――
船員たちの対応は、素早かった。
俺は、カシンの傍に行った。
「大丈夫? ごめんね。リトが、こんな事するなんて・・・」
俺は、何だか申し訳ない気持ちになった。
ついさっきまで、カシンと千代さんが、何か企んでいると疑ってもいた。
「シロさんが、謝る必要はありません。我々がミスを犯したのです」
カシンは、腹に手をあてながら膝を付いた。
千代さんが寄り添う。
「先ほどシロさんに気付かれた時、ちゃんと話しておけば・・・」
千代さんは、悔しそうな顔で俺を見る。
「え! やっぱり気付いていたの、気付いてた?」
「ええ、みなさんの協力を得るべきでした。我々だけで何とかしようとして、この様です」
老人カシンは、皺だらけの顔をさらに皺だらけにして苦笑した。
「どうして、こうなってしまったのでしょう?」
ユキさんが、悲しそうに訊く。
「あの方が、この船に乗っていると気付いたのは、我々が乗船してすぐの事でした。乗客名簿を確認し、あのお方が最近よく使っている名前を見つけたのです」
千代さんが、目を細め忌々し気に語り出した。
「何て名前なの? 本当の名前じゃなければ、言っても良いでしょう?」
どうでも良いことなんだろうけど、俺は訊ねた。
あのお方とか、あの方とかじゃ不便でしょう。
「天地愛です」
思わず笑いそうになってしまった。
全然、似合わない。
「そう言えば、私にも愛と名乗っていました」
ユキさんが、今思い出したと言う。
「じゃぁ、今後は愛さんと呼びましょうか」
老人カシンは、笑いながら言った。
「リト様と、鉢合わせにならないよう手を尽くしたのですが・・・」
千代さんは、悔しそうに唸る。
「リト様は、何故愛さんを憎んでいるのでしょう?」
ユキさんは、悲しそうに訊いた。
「この船の人たちを巻き込んでも良いだなんて・・・」
俺も悲しかった。
「歴史を見れば、リト様がそうお考えになるのも無理はないのです・・・」
老人カシンは、その場に座り込んで空を見上げる。
「あのお方、愛さんが今まで死に追いやった生命の数は、千や万では無いのです。災害、疫病、様々な災いで人間だけでない多くの生命が奪われたのです」
「様々な災いの元凶・・・もしかして、愛さんは、邪界鬼なのですか?」
あ・・・。
カシンも、千代さんも、俺も、息をするのを忘れてしまうぐらい。
時が止まった。
言っちゃった。
俺も前に言っちゃったことがあるけど・・・。
「ユキさん・・・ご存じなのですね・・・」
躊躇いがちに、恐る恐る千代さんが訊く。
「もちろんです。多くの方が苦しめられましたから、あの邪界鬼には・・・」
カシンは、慌てて口に指をあててユキさんを制した。
二回も言っちゃったよ!
「いけません。ユキさん、あの者の名を口にしては」
千代さんが小声でたしなめる。
「何故です?」
怪訝そうにユキさんが訊ねる。
そう言えば、そうだ。
何故だ?
「この言葉は、呪文です。口から放たれた瞬間に災いを呼ぶのです」
「まさか、そのようなこと―――」
ユキさんは、そんな事あるはずがないと笑った。
しかし、カシンと千代さんの顔は真剣だ。
「私が、その名前を口にして災いなど訪れたことは・・・」
ユキさんは、古い記憶を呼び戻そうと思案している。
「んー、あったようなー。無かったようなー」
よく覚えていないようだ。
「ユキさんの力は、あの方も遠慮するほど強大ですから、気付かなかったのかもしれません。しかし、周囲には必ず影響しますので、口にしてはいけません」
千代さんは、諭すようにユキに告げた。
「わかりました。以後気を付けます」
ユキさんは、そう言って頭を下げた。
ユキさんって・・・凄い人なのか?
俺は、ユキさんのつま先から頭の先まで見てみた。
赤い鼻緒の草履に、朝顔柄の浴衣、透けるように白い肌に、銀色の短い髪。
とても強そうには見えない。
「ともかく、田力我聞とリト様を探さなくては・・・」
老人カシンは、膝に手を当てて老人のように立ち上がった。
「幾分、ダメージがありまして、この姿では動きにくい・・・。着替えさせて頂きます」
老人カシンは、そう言ってよろよろと船内への扉を開けた。
扉が閉まり、すぐに扉が開く。
「おまたせー! これなら少しは動きやすいし、回復もはやいかなぁー」
現れたのは、忍び装束の少女カシンであった。
「何故、忍者の格好?」
俺は訊ねた。
だって、目立つでしょう。
「相手は忍者だしね。こっちの方が色々仕込んであって闘いやすいのよ」
少女カシンは、そう言って片目を閉じた。
この大きな船、街がまるごと一つ入っているような巨大な船が、大きくゆっくりと揺れた。
な、なんだ?
俺たちは、船の甲板の船尾よりにいる。
近くにはプールがあって、そのプールの水が甲板にこぼれた。
それぐらい大きく揺れたのだ。
「見てください! あそこ!」
千代さんが、海を指して叫んだ。
船の真横の洋上に、大きな山のような影が浮かんでいた。
なんだろう?
こっちに向かってきているみたい。
「お魚みたいですね」
可愛らしい声で、ユキさんが言う。
そう、それは魚の背だ。
海面から山のように巨大な魚の背が見えていた。
どうやら、こちらに向かってきているようだ。
「ほら! 来ちゃったじゃない! 災い!」
少女カシンが、恨めしそうにユキさんを見て叫んだ。
「ええ! 私の所為ですか!?」
巨大な魚は、その巨体を沈めたり浮き上がったりを繰り返しながら、近づいてくる。
魚の動きに合わせて波が起こり船が揺れる。
「何なんだあれは―――」
恐怖で、俺は叫んでいた。
この船と同じくらいデカい!
ほとんどが水面下に隠れているけど、水面から出ている分だけ見ても、かなりの大きさだ。
「たぶん、あれは悪棲・・・」
少女カシンが、目を細めぼそりと言う。
「海にすむ魚の化物です。邪神悪棲とも呼ばれています」
千代さんが、いつの間にか取り出したスマホで検索したようだ。
仕事が早い・・・。
「えええー! あれ、神様なの!?」
俺は、ユキさんのふくらはぎにしがみついた。
どうする?
船の上だし、逃げる場所なんてどこにもない!
「私が足止めします」
ユキさんは、浴衣の裾を広げて大股に立つ。
白い左足が太腿まで露わになる。
「雪やこんこ―――」
何故かユキさんは歌い出した。
「霰やこんこ―――」
両手を天に掲げ、天に歌う。
「降っては降っては、ずんずん積もる―――」
ユキさんは、左足の膝を蹴り上げ、両手を頭上で交差させた。
「凍りつけ! 真夜中のアイスバーン!」
叫びながら両手を振り下ろすと、空から冷たい風が吹き降りてきて、怪魚悪棲の周囲の海を凍りつかせた。
す、すごい・・・。
可愛らしい歌と動きに見合わない、強力な技だ!
「すごい! ユキちゃん! 今のうちに船を避航させましょう! 千代!」
少女カシンに促され、千代さんは船橋に向け走り出した。
海の上で氷に阻まれた悪棲は、身動きが取れないでその場に静止している。
ユキさんは白い足を晒し、浴衣の裾が風にめくられるのも厭わず技を保っていた。
「時間稼ぎです! そう長くは―――」
ユキさんは、両手を前に突き出して苦しそうに顔をゆがめる。
くそー、田力我聞どころじゃないぞ!
リトと夜笑さん、戻ってきてー!
俺は、心の中で叫んだ。
海面で動きを止めていた悪棲が、僅かに身じろぐ。
悪棲周辺の氷に、ひびが入り始めた。
船が、左に回頭を開始する。
悪棲の姿が、後方へと流れていった。
急げ急げ!
俺は、心の中で祈り願う。
悪棲周辺の氷が、音を立てて砕けた。
「ごめんなさい。ちょっと休みます」
ユキさんは、その場に座り込んでしまった。
悪棲の巨体が、凄まじいスピードで右船尾の方から追い上げていた。
わ―――!
どうすんのこれ!
船が前後に大きく揺れる。
ユキさんが甲板の手すりにしがみついて、俺はユキさんの浴衣の裾にしがみついて、落水を逃れた。
水中から顔を出した悪棲を見た。
赤い目を光らせ、大きな口には一つ一つが車ほどもありそうな牙が何本も生えている。
喰われる!
船ごと喰われる!
俺は、覚悟した。




