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あの者

31 あの者




 ちょっとヒヤリとしたピンチをくぐり抜けた俺、持ってる俺・・・。

 朝顔模様の浴衣を着たユキさんと、この豪華客船を探索することにした。


 客室だけで、何階もあって素敵なホテルみたいだし、上の甲板に上がるとプールもある。

 グルグルまわるプールもあって、水着姿の子供たちや、もう少し肌を隠した方が良いのではないかと思ってしまうお婆さんまで、水浴びをしている。


「風、気持ちいいですね。ほんのり潮の香りが・・・ほら」


 甲板に出て、外洋を眺めたら、ユキさんがそんな事を言って俺を抱き上げた。

 ああ、そうだね。

 潮の香。港で嗅ぐ匂いとちょっと違う。


 混ざり気のない、塩だけの香。

 鼻をヒクつかせて、それを嗅いだ。

 良い香り、みんなそう感じるんだ。

 俺は、ちょっと嬉しくなった。


「チロー」


 少し離れたところに、夜笑さんに抱かれたリトがいて、俺に小さな手を振っている。

 こうして見てる分には、可愛いんだけどね。


「リトも、探索中?」


「にゅん。こんな大きな船のるの久しぶりにょ」


 何だよ、初めてじゃないのかよ!


「リト様は、船旅をされたことがあるのですか?」


 夜笑さんが、腕の中のリトに訊く。


「にゅー、人間たちがドンパチしてたときにょ。遠くに疎開したにょ」


 おーい、何年前だ・・・。


「外国ですか?」


「にゅー、ワイハーとかいう所にょ」


 リトがそう言うと、夜笑さんとユキさんは驚いたようだ。


「いいなぁー。ハワイ! 憧れますぅ」


 ユキさんは、手すりに寄りかかって遠くの海を眺めた。

 俺には、そのハイワーとかいう所はわからないけど・・・。


「お友達がいるにょ。カメさんにょ」


「へぇー、カメさんのお友達がいるんですかー、今度、会いに行きましょう」


 夜笑さんは、愛おしそうにリトを撫でるが、話を信じてはいまい。


「まだ生きてるかにょー?」


「どうでしょうね・・・それを確かめるためにも、行ってみましょう」


 ユキさんは、そう言って微笑んだ。

 何者かが、船首の方から走ってくる。


 小夜さんだ。

 凄い形相だ!

 俺か!?

 俺、やられるのか!!


 俺は、ユキさんの浴衣の裾の中に隠れる。

 念のためだ。


「みなさん! 緊急事態です。すぐここから離れてください」


 千代さんは、俺たちを強引に船尾へと向かわせようとするが・・・。


「どうしたのです? 何があったのです」


 リトを抱く夜笑さんが、それに逆らった。


「いいから! 急いで!!」


 千代さんは、必死だった。

 いつもクールな千代さんの眼は、少し怯えているようだ。


「お待ちなさい・・・」


 優しく艶のある穏やかな声だが、何故か遠くまで届く不思議な声がした。

 声の方へ眼をやると、千代さんが足で制す。


「見てはいけない! 急いで離れて―――」


 千代さんの声は、懇願している。

 でも、俺は見た。

 黒いドレスを着た美しい女だった。


 千代さんと同じくらいの年齢だろうか、大人の女性という佇まいは、夜笑さんやユキさんの雰囲気とはだいぶ違う。

 少し癖のある髪をまとめ上げ、黒いチョウチョの髪留めを付けている。


「ユキさん。バカンスは楽しめました?」


 黒いドレスの女は訊ねた。


「ええ、おかげさまで・・・でもあなたはどこに行ってしまっていたのです?」


「ごめんなさい。所用を済ませておりましたわ」


 黒いドレスの女は、ニタリと笑いその口を手で隠した。


「リト様!」


 夜笑さんの声で振り向くと、リトが夜笑さんの腕の中から飛び出していた。

 凄く怖い顔をして・・・。


「あら、仔猫ちゃん。お久しぶりね。元気にしていました?」


 女は、リトを見て微笑んだが、リトは無言で女に近づいていく。


「ダメです! リト様!」


 千代さんは、リトを捕まえようとしたが、リトはするりと千代さんの手をかわした。

 リトは、駆けだすと女に向かって飛びかかった。


 本気の攻撃であった。

 リトの一撃は空を切り、女の背後にあった大きな棚を粉砕した。

 中に入っていた救命具が辺りに散らばる。


「リト様! 堪えて下さい!」


 船内の扉を開けて、老人カシンがリトの前に飛び出した。


「邪魔にょ・・・そこをどかないと、お前も・・・」


 リトは牙を剥き出しにしてカシンを脅す。


「やだわー、怖い怖い。久しぶりに会ったと思ったら、いきなりこれですもの」


 黒いドレスの女は、涼しい顔でリトを嘲る。


「リト様、ここは我慢してください。ここであなた方が闘えば、この船は沈んでしまいます」


 老人カシンは、険しい顔でリトに懇願する。


「どうでもいいにょ・・・」


 リトは、怒りに我を忘れているように見える。

 船が沈んだら、皆死んじゃうじゃん!


「カシンよ。この船には何人乗っているんだったか?」


 女は、老人カシンに訊ねた。


「客が約5000人、乗員が約1000人と聞いております」


 カシンは、女に背を見せたまま答えた。


「あらー、仔猫ちゃん聞いた? 6000人も死んじゃうんですって! やめておいた方が良いのじゃないかしら」


 女は、高らかに笑った。

 誰なんだ、この女!

 こんなに怒っているリトは、初めてだ。

 それなのに、平気で笑っているこの女に、俺は恐怖した。


「ユキさん。このおばさん誰なの?」


 俺は、傍にいるユキさんに訊ねた。


「私も良くは知らないのですが、私を馬児島まで連れてきてくださった方です」


 ユキさんが、足元にいる俺に小声で教えてくれた。


「ちょっと、そこの白猫! 今、私の事おばさんって言いました?」


 あ、やってしまった。

 黒いドレスの女が、俺を睨んでいる。

 めちゃめちゃ怖い。

 虫でも見るような目で、俺を見下ろすその視線が、まるで刃物のように鋭く俺に突き刺さる。


「カシン! そこをどくにょ―――」


 リトが叫んだ。

 リトの姿はカシンの陰に隠れていて見えないけど、物凄く怒っているのは充分にわかる。


「どきません! この船に乗る人々の―――」


 カシンがそう言っている最中に、カシンの体が横の壁に吹っ飛んだ。


 カシンの体があった場所から、リトが女に向かって爪を剥き出しにした右手を振りかざしている。

 女は、笑いながらそれをかわすと、リトの一撃はまたしても空を切り、木でできた床に大きな穴をあけた。


 物凄い音がして、周りの乗客たちが悲鳴をあげる。

 粉々になった木片が辺りに飛び散り、乾いた音が鳴り響いた。


「カシンさん!」


 夜笑さんが飛び出して、壁にもたれ掛かっている老人カシンを抱き起こす。


「リト様! 酷いです!」


 夜笑さんは、眼に涙をためて叫んだ。


「本当に、酷い仔猫ちゃん。6000人の人間が死んじゃっても良いのぉ?」


「お前を倒せるなら、少ない犠牲にょ・・・」


 本気で言っているのか!?

 本気で6000人の犠牲が少ないだなんて言っているのか?

 俺は、自分の耳を疑った。


 リトが、そんな事を言うなんて、とても信じられなかった。

 リトが二本足で立ち、両手を脇に絞めて大きく息を吸い始めた。


「あら、大きな技の前兆ね。何の技かしら? 昔見せてくれた、あの山を吹き飛ばした技かしら―――」


 女は、高らかに笑う。

 リトは、大きな技を繰り出す準備をしているらしい。


「なりません・・・」


 リトの前に、口から血を流している老人カシンが、ふらつきながら立ちふさがる。


「やめてください。リト様!」


 老人カシンに肩を貸し、夜笑さんもリトの前に立つ。

 リトは、眼を見開いてカシンと夜笑さんの背後にいる黒いドレスの女を見ている。

 女以外、何も見ていない。


 カシンの事も、夜笑さんの事も、その眼には見えていないのだろう。

 リトが、息を吸うのをやめた。

 何かが、リトから繰り出される。


「やめろ―――」


 俺は、リトに飛びかかった。

 何が何だかわからなかったけど、止めなきゃ―――


「えんてんせんかく―――」


 リトが両手を突き出し、何かの技を繰り出そうとした瞬間、俺はリトの頭に頭突きした。

 物凄い衝撃が、俺の頭に響いた。


 リトの技を、俺が食らったんじゃないかと思うくらい、痛かった。

 俺は、床を転がりながら痛みに耐えた。

 痛い!


 めちゃくちゃ痛い!

 でも、生きている。

 涙目で、リトを見ると―――

 リトも頭を抱えて痛がっていた。


「にゅー、いたいにょー、何するにょー」


 良かった。

 みんな無事だ。

 涙で歪んで見えるけど、夜笑さんやユキさん、カシンの姿が見えた。


「あらー、やるじゃない。シロ猫ちゃん」


 あの女の声だ。

 いったい、何者なんだ・・・。

 いや、この女がきっと、あのお方だ。




 少し静かになった。

 周りにいた乗客は逃げていなくなったし、俺のおかげで暴走しかけたリトも静かになった。


「リト様、お二人をここで引き合わせてしまったのは、私の過ちです。申し訳ございません。ですが、自重下さいますよう。お願いいたします」


 老人カシンは、デッキに膝をついてリトに頭を下げた。


「あら、貴方が謝る必要なんて無いわ。私は自ら仔猫ちゃんに会いに来たんですから」


 黒いドレスの女は言う。


「何しに来たにょ?」


 リトは、幾分冷静になったようだ。静かに訊ねる。


「何だか誤解しているようだから、誤解を解きたかったのよ。私は、貴方と敵対する気は無いの」


 黒いドレスの女は、リトの前で屈みこむ。


「私は、この美しい地上の世界の景色が見たいだけ・・・」


「無理にょ」


「ケチねぇー。誰も傷つけたりしないわ。人間を殺したって、私には何の利益も無いもの」


「お前の存在が、無理にょ」


 リトは冷静だったが、この女を受け入れる気は毛頭ないらしい。


「リト様、それから貴方様、とにかくここでの争いだけ、お止め頂きたい。もしそれが叶わぬなら、私はお二人の敵となります」


 老人カシンは、杖から銀色に光る剣を抜き出した。

 老人カシンの眼は真剣だった。

 リトと黒いドレスの女に向ける眼差しは、血走っていて嘘など僅かにも無い目をしていた。


「さっさとかかってくるにょ! 粉にしてやるにょ」


 サラッとリトが言った。

 黒いドレスの女は、にやにやしている。


「わ、私も、今度ばかりはリト様の味方は出来ません!」


 そう言って夜笑さんも、カシンの隣に立つ。


「にゅー、恩を仇でかえすかにょ・・・」


「確かに、私はリト様に命を救われましたけど・・・人間を殺すことをいとわないリト様なんて、私の大好きなリト様じゃない!」


「ユキメさん? 貴方はどっちの味方かしら?」


 黒いドレスの女はユキさんに訊ねる。


「私は、私。でも・・・、今の状況は、好きじゃありません。貴女は、引き下がるべきです」


「あら、引き下がらなかったらどうするの?」


 ドレスの女は、ユキさんの顔を覗き込んで訊ねる。


「それが答えととらえて良いのですね?」


 ユキさんは、黒いドレスの女の顔を見返す。

 それを、黒いドレスの女は探るような眼差しで眺めていた。

 

「いいわ、今日のところはご挨拶という事で、帰らせていただきます」


 黒いドレスの女は、少し歩いて海に面した手すりに寄りかかった。


「帰すわけないにょ・・・」


 リトは、女に詰め寄ろうとする。


「ぃよう! 久しぶりー、使い捨ての俺の参上だぜ」


 黒いドレスの女の背後から、見覚えのある男が現れた。

 黒いスーツ姿ではあったが、夜刀神社を襲撃した田力我聞たりきがもんであった。


「お、お前は千代さんがトドメを・・・」


 俺は、あの衝撃的な最後を覚えていた。衝撃的過ぎて、しばらく寝付けなかったほどなのだ。


「俺は、不死身なのさ! 何度でも生き返る」


「何度でも、送ってやるさ」


 老人カシンが、細身の剣を構えた。


 リトが舌打ちをする。


「逃げられたにょ・・・」


 俺は、周囲を見まわした。

 確かに、黒いドレスの女の姿はどこにもなかった。




    

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