豪華客船クイーン・ヒミコ
30 豪華客船クイーン・ヒミコ
すっかり夏の色を取り戻した馬児島は、暑かった。
少しぐらい雪が降ってくれても、良いんじゃないかと思ってしまうほど、重い熱気が充満している。
観光客であろうホテルの宿泊客の中には、雪の馬児島も悪くなかったと言っている人もいた。
昨日の夜、酔っぱらって帰ってきた女性陣は、皆連れ立ってお風呂に行った。
そして、今朝またお風呂に行ったのである。
さらに、もうすぐ出かけると言うのに、また皆でお風呂!
何を考えているのだろう?
体の油は無くなってしまうし、匂いも無くなってしまう。
絶対、体に悪い。
俺は、何度も止めたけど聞き入れる者など誰もいない。
俺は、あきれて何も言えなくなった。
そんなことしているから、出発の時刻には慌ただしく、あれ忘れたこれ忘れたとなかなか全員が集まらなかった。
黒山ホテルのロビーにて、千代さんが機嫌の悪そうな顔で皆がそろうのを待っている。
俺も、その隣でイライラしていた。
「ごめんごめん―――お待たせー」
最後に来たのは、ひざ下から破れて無くなっているジーンズ姿の少女カシンだった。
それを見て、千代さんのこめかみに青筋が浮き出る。
「カシン様・・・お召し物が違うようです」
「え・・・?」
カシンは、自分の装いを確かめる。
「ああ! そうだった。ゴメ―――ン」
少女カシンは、慌ててトイレに走って行く。
何故トイレ?
さらに何故かカシンは、男性用のトイレに入って行った。
トイレの扉が閉まりきる前に、扉が開いて杖を突いたスーツ姿の老人が出てきた。
「お待たせしました。では、行きましょう」
老人カシンは、何事もなかったように俺たちに会釈して通り過ぎていく。
その後を、千代さんが追従する。
「あ、あの・・・どなたですか?」
何が起きているのか全くわからない。と言った表情で、朝顔柄の浴衣を着たユキが傍らの夜笑さんに訊ねた。
「この方、カシンさんですよ・・・カシンさんて、果心居士なのです。知っています? 果心居士」
夜笑さんは、歩きながら小声でユキの問いに答えた。
「へぇー、すごーい」
ユキは、小声で感嘆の声をあげる。
どうやらユキも果心居士を知ってはいるようだ。
ホテルのロビーを出ると、正面の車回しに黒塗りの長い車が停まっていた。
後部座席が、部屋みたいになっている最近よく乗る車だ。
俺たちは、千代さんに促され乗車するとすでに老人カシンが乗っていた。
「良いお湯でしたな」
老人カシンは、優しい笑みで俺たちを向かえる。
「また、機会があったらみんなで来たいですね」
白いワンピース姿の夜笑さんが言う。
そのワンピースの胸元から、リトが顔を出した。
「にゅん。また行きたいにょ」
「フフ、リト様はシロさんと違ってお風呂がお好きなんですね」
夜笑さんは、胸元のリトの頭を撫でる。
「チロは、ばっちいにょ。車の中に入れない方が良いにょ」
「お前―――、何でそんな事言うんだよ!」
リトは、蔑むような目で俺を見る。
「大丈夫ですよ。ちゃんと綺麗にしていますもんね」
ユキが、そう言って俺を抱き上げ膝の上に乗せてくれた。
車が、動き出した。
ホテルの従業員たちが、手を振っている。
ユキが俺を抱き上げて、何故か俺の手を振った。
「また来ますねー」
ユキが、俺の頭の後ろでまるで俺が言っているかのように言う。
何故そんなことするのか、理解不能だ。
でも、俺はされるがままにさせていた。
馬児島の市街地を抜けると、梅島の見える海岸沿いの道に出た。
梅島は、今日もモクモクと噴煙をあげている。
「お、見えてきましたぞ」
優雅にワイングラスを傾けながら、老人カシンが前方の何かを指した。
最初は、何だかわからなかった。
街の一部に見えた。
横に長い大きな建物だと思った。
しかし、近づくにつれそれが何だか俺にも理解できるようになっていく。
それは、大きな建物のようであったけど、海に浮いていたし、大きな煙突から薄っすらと煙も昇っていた。
船だ。
とてもとても大きな船だった。
いや、大きな船は見たことはあるんだよ。
港町の近くに住んでいるし、軍港も近くにあるし・・・。
でも、こんなに近くで見るのは初めてだった。
車が岸壁に到着し車の外に出ると、俺は目前の巨大な船を見上げた。
それは、びっくりするぐらい巨大で、俺の視界の全てが船だった。
威圧的で、神々しくもある。
「大往路様、お待ちしておりました」
そう声をかけてきたのは、白い制服を着たおじいさんとおじさんの間ぐらいの男の人だった。
「クイーン・ヒミコ船長の佐藤でございます」
「やぁ、急に無理を言ってすまないね」
老人カシンは、杖を左手に持ち替えると右手を差し出し、船長と握手を交わした。
「本船は、あと1時間ほどで出港いたします。ご乗船頂き、船内をご案内させていただきたいと思います」
「ああ、そうだね。まぁ、そうだ。こちらが望月くんだ。細事は彼女にまかせている」
老人カシンは、簡単に千代さんを船長に紹介し、自分は俺たちの所に戻ってきた。
「ささ、行きましょう」
俺たちは、老人カシンに連れられて船内に入るための階段を登り始めた。
俺は、ユキに抱っこされていたけど、ふと気になってユキの肩越しに後ろを振り返った。
俺たちの乗ってきた車の後ろに、黒塗りの車が一台停まって、黒いスーツ姿の男が二人降りてきた。
小夜さんがあっちだこっちだと指をさして、何やら指示している。
誰だろうあの人たち?
俺たちの乗ってきた車から、男たちが荷物を取り出す。
白い制服の人たちもやってきて、黒いスーツの人たちから荷物を受け取っていた。
お手伝いの人たちか・・・。
俺は、船に注意を戻した。
他の事に気を取られているうちに、乗船してしまっていた。
船は、外から見ても巨大であったが、中から見ても巨大だ。
杖を付きながら先を行く老人カシンが、船内の施設を案内してくれた。
船内には、ご飯を食べる所やお風呂、プールまであった。
お店や、劇場、映画館もある。
この船が、ひとつの街になっているのだ。
夜笑さんや、ユキが何かを見る度に感嘆の声をあげている。
俺は、びっくりしすぎて何も言えない。
開けっ放しになっていた口からよだれが垂れてきて、ようやく正気を取り戻した。
これが、海に浮いているなんて・・・。
本当かな?
全然揺れないし、地面の上に乗っているんではないだろうか?
俺は、本気でそう思い始めていた。
しかし、しばらくするとそれが勘違いであることに気付かされる。
何だかアナウンスが流れ、大きな汽笛が鳴った。
少し揺れた。
俺たちは、老人カシンに連れられて外が見える場所に出た。
デッキと言うらしい。
ああ、陸が離れていく・・・。
動いているわ・・・本当に。
そして、巨大な船は洋上を走り出した。
動揺なんてまったくないけど、確かに動いていて船が引く白い波が見えるし、進行方向から風を感じる。
「ちょっと失礼」
傍にいた老人カシンが、少し離れたところにいる千代さんに気付いて、俺たちから離れた。
夜笑さんとユキは、おっかなびっくりで海面と陸岸の景色を見ている。
ん?
カシンは後姿であったが、千代さんの顔が見えた。
何か紙をカシンに見せているようだが、無言でいる。
違う・・・無言ではない。
口を動かさずに喋っている。
ちらっとカシンの方を見たり、頷いたりしている千代さんの様子は、無言では不自然だ。
千代さんと目が合いそうになり、俺は慌てて視線をずらした。
顔まで動かすと、気付いていることがバレる。
そんな気がした。
まずい。
千代さんの注意が、俺に向いている。
感づかれる。
アホな猫のフリをしないと・・・。
何か・・・何か無いか・・・。
俺は、顔を動かさずにカシンや千代さんの方を向いているけど、視線は合わせずに何かを探した。
見つからない―――。
やむを得ない。
俺は、ゆっくりとカシンたちに向かって歩き始めた。
歩きながら、俺が興味を引いたと思わせそうなものを探す。
何か、何か・・・。
何もない!
木の床と、寝そべって座る椅子しかない。
「どうしましたシロさん?」
とうとう千代さんに声をかけられてしまった。
千代さんに眼を向ける。
探るような目で見ている。
眼鏡の奥の眼が・・・怖い。
「うん・・・何だか・・・気持ちが悪い・・・」
俺は、正直に言った。
いや、正しくはこの違和感に気持ちが落ち着かないのだが・・・。
「あら、船酔いでしょうか?」
千代さんが、屈みこんで俺の顔を覗き込んだ。
「な、何それ?」
「船は初めてですかな?」
老人カシンに訊かれて、俺は考えた。
どうだったか・・・覚えていない。
「うーん。たぶん初めてだと思う」
「少し、部屋で休みましょう」
千代さんは、俺の事を抱き上げて夜笑さんとユキを呼んだ。
「シロさんの気分が優れないようです。皆さんは大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です」
夜笑さんはさらりと答えるが、ユキはモジモジしている。
「ユキさんもお気分が?」
千代さんが訊くと、ユキは頷いた。
「お部屋にご案内します。少し休みましょう」
俺たちは、千代さんに連れられて客室に案内された。
きっといい部屋なのであろう。
昨日停まった黒山ホテルの部屋と同じような感じで、豪華な作りになっていた。
テーブルやベッドも高級感があるし、窓からは大海原が一望できる。
でも、今はそんな事はどうでもよかった。
生き延びた。
ユキさんに救われた。
うまく誤魔化せたのではないだろうか。
俺だけが気分悪いと言っていても、すぐには部屋に案内されなかったかもしれない。
そのうち、気付かれたかもしれない。
今、千代さんから離れられたことが、幸いであった。
さて・・・、誰かに打ち明けたい。
誰かに相談したいが、誰が良いだろう。
今、この部屋にいるのは、夜笑さん、リト、ユキだ。
夜笑さんは、顔に出そうだなぁ。
リトは、問題外だし・・・。
俺は、ユキに眼を向けた。
ユキは、ベッドに腰をかけて俺を見ていた。
あれ・・・もしかして・・・。
いや、まさかね。
俺の様子に気付いて、助け舟を出してくれた・・・何てことはないよね。
『大丈夫ですよ。千代さんには気付かれませんでした』
ユキの声がして、俺は慌ててユキを見た。
『千代さんがさっき話していたのは―――』
ユキが俺に語り掛けているが、ユキの口は動いていない。
どういうことだ?
声は聞こえるけど・・・。
『念話です。シロさんの心に語りかけています』
え?
何それ! そんな事できるの!?
『フフ、これでも私、妖怪ですから』
俺は、同室の夜笑さんを見た。
夜笑さんは、もう一つのベッドでリトと戯れている。
夜笑さんとリトには、俺とユキが話していることが聞こえている様子はない。
『私とシロさん以外には聞こえません』
そ、そうなんだ。
じゃぁ、さっき俺が困っていた時の事、知っているんだね?
『ええ、千代さんがカシンさんに話ていた事も、少しだけ聞いていました』
そうなんだ。じゃぁ、千代さんも同じ念話が使えるんだ。
『いえ、千代さんは使えないようです。千代さんは口を閉じたまま話す忍者の技ですね』
そうか、とにかく助かった。
ありがとう。ユキ。
『いえ、それで先ほど千代さんが話していたことですが・・・』
聞こえたの?
『断片的にですが・・・どうやらこの船に良からぬ方が乗り込んでいるようです』
良からぬ方?
『ええ、話しぶりから、千代さんやカシンさんにとって友好的な方ではないようです』
どうして俺たちに隠すんだろう?
『わかりません。でも、隠すという事は、気付いていないフリをしたのは懸命だったと思います』
うん。動物の感だね。
リトや夜笑さんには、言わない方が良いよね?
『ええ、もうしばらく様子を見ましょう』
うん。そうだね。
本当にありがとう。ユキ、いやユキさん。
『どういたしまして。私のこの能力も、しばらくは内緒にしてくださいね。そのほうが良いと思います』
わかった。
俺は、強大な味方を得た。
今まで呼び捨てだったけど、これからは尊敬の念を込めさん付けで呼ばせてもらおう。
そして、会ったばかりで警戒していたけど、急速にユキさんの事が大好きになった。
『やだシロさん。恥ずかしい・・・でも嬉しいです』
あ、聞こえちゃうんだ・・・。
心の声、だだもれ―――。
恥ずかしい―――!!




