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リトとボクサー

2   リトとボクサー




 俺は、顔に何やら強い衝撃を受けて目を覚ました。よっぽど疲れていたのであろう。すでに日は登っていたが、一度も目を覚ますことなく爆睡していた。


「おきるにょーおなかすいたにょー」


 ああ、こいつだ。こいつの所為で昨日は散々な一日だった。

 小さなキジトラのメス猫のくせに、めちゃくちゃな奴だ。自分で自分の名前を決めて、リトと名乗ったのだ。


 薄っすらと目を開けると、リトの前足が見える。起き上がろうとしても、頭を何かに押さえつけられていて起き上がれない。

 リトが俺の頭を踏みつけている。


「お前、足どけろよ。何踏みつけてるんだ」


「優しく起こしてあげたにょ」


「どこが優しくだ」


 リトが足をどけると、俺は起き上がって伸びをした。ああー気持ちいい。伸びって気持ちいい。

 神社の社の中は、ずいぶんと快適であった。雨が降っても濡れないし、風に吹かれても大丈夫。程よく狭く居心地もいい。


 格子窓のついた扉を開くと、境内が一望できる。


 昨夜は野犬の襲撃をうけ、リトが全ての犬を撃退した。エスズ家電で食事をして帰ってくると、境内中に転がっていた犬たちは全ていなくなっていた。2~3匹は死んでいるだろうとおもったが、リトなりに手加減していたのであろう。


 ドーベルマンや甲斐犬をぶっ飛ばすような力で、ポメラニアンやチワワを殴っていたら、即死していたはずだ。

 俺が境内に降り、石畳の上で毛づくろいをはじめると、リトが寄ってきた。


「ごはんどうするかにょー」


 リトも顔を前足で撫でて、顔を整える。

 こうしていると可愛いんだけどね。犬をぶん殴っている姿を見てしまうと、化物が猫の皮を被っているんじゃないかとも思う。


 ふと、リトの首に巻かれているピンク色の首輪のような包が気になった。


「お前、その首から下げてる包に何入れてるの?」


 顔を撫でている腕の隙間から、リトがにやりと笑った。


「フフフ、見せてあげるにょ」


 リトは包の中に手を入れてまさぐりはじめた。包は簡単な作りで、蓋などは無く、出し入れ口は開きっぱなしだ。丸めた布の両脇に、赤い紐が繋がっている。赤い紐は輪になっていて、この輪に首を通している。引っ張ると伸びるので、ゴムなのだろう。


 最初は首輪かと思っていたが、小物入れになっているなんて、なかなかお洒落だ。


「それ、タエコに作ってもらったのか?」


「そうにょ。可愛いからお気に入りにょ」


 リトは、包から幾つか取り出して石畳の上に広げる。


「なんだこれ!?」


 物がわからない訳ではない。出てきた物が、およそ可愛らしい物ではなかったので驚いている。


「非常食にょ。タエコが困ったときに食べるように、入れてくれたにょ」


 リトの包から出てきたのは、煮干しが二本、スルメが二本である。


「昨日、十分困ったじゃないか、それ出せよ」


「いやにょー本当に困ったときに、ひとりで食べるにょー」


「俺が困っていてもくれないのか!」


「あげないにょー」


 なんだよ、散々俺の世話になっているくせに・・・。

 リトはまた包の中に手を突っ込んで、何やら取り出そうとしている。


「もっと困ったときは、これを使うにょ」


 そういって取り出したのは、人間が使うお金という小さな金属の円盤だ。これは俺も知っている。たまに落ちていることもある。

 リトが持っているのは500円で、金属のお金で一番高価な物だ。しかし、実は紙のお金の方が価値が高い。この事を知っている猫は、俺意外にそういないだろう。


「それで何を買うんだ。人間が売ってくれればだけど」


「フフフ、これで世界の全てが買えるにょ」


 リトは、両手で500円を大事そうに抱えてニタリと笑う。


「買えるか!」


 この子、腕力はぶっとんで強いけど、ある意味頭の中もぶっとんでる。

 さて、食事にでも行きますか。今日は、佐藤さん家に行ってみようかな。


「ご飯行こう。今日は佐藤さん家にいくよ」


「にゅん」


 俺たちは、石畳をじゃれながら歩いて、鳥居をくぐった。鳥居に傾いた看板が辛うじてぶら下がっている。なんて書いてあるんだろう?


 読めないけど、簡単そうな名前だと思うんだ。字数が少ないから。

 俺が神社の看板に気を取られていると、何かにぶつかった。


「あいたた・・・」


 何なんだ、こんなところに何かあったかな。


 頭をさすりながら、ぶつかったものに目を向けると、それは筋肉隆々の土佐犬だった。


「ぎょえぇぇぇ」


 俺は、びっくりして素っ頓狂な声をあげてしまった。こいつ、昨日の野犬たちのボスだ。仕返しに来たのであろうか?


「な、なんだお前! またきたのか?」


 俺は、後ずさりしてリトの背後にまわり警戒した。決して、リトの背後に隠れたわけではない。リトの背後を護るためだ。


「にゅー今日は一匹かにょ」


「昨日は、失礼した。俺の名はライデンだ。今日は、昨日の詫びにきた」


 ライデンと名乗った昨日の土佐犬は、くわえていた二匹の魚を俺たちの足元に置いた。ピチピチ跳ねていて、鮮度抜群のアジだった。


「お、おう。そういうことなら、気にしてないよなぁリト」


「おさかなくれるのかにょ?」


「ああ、食べてくれ。お前の強さには感服した。何か困ったことがいつでも言ってくれ」


 ライデンは、それだけ言うと背を向けて立ち去ろうとした。


「ありがにょーいただくにょ」


 リトは、飛び跳ねて喜んでいる。


「あ、ライデン。この神社の名前、知らないか?」


 ライデンは、振り返って答える。


夜刀(やと)神社だ。蛇に気をつけろ」


 ライデンは、行ってしまった。不穏な言葉を残して・・・。

 俺は振り返って、神社の看板を見た。そう言えば、看板の細工に蛇がいる。


 ここ、蛇出るんだ・・・。


 出るだろうな。

 俺は、鬱蒼とした周辺の森を見渡した。

 蛇どころか、妖怪やお化けだって出てきそうだ。


 俺は身震いをして、呑気な咀嚼音の方に目を向ける。

 リトは、頂いたアジを美味しそうにかじっていた。

 こいつなら、蛇だって気にせず食べちゃうんだろうな。


 俺もアジを頂いた。久しぶりの生魚は、格別だった。

 出かけるつもりであったが、食事も頂けたので、俺たちは神社周辺を探索することにした。しかし、俺たちは猫なので、途中で飽きて木に登ったり虫を追いかけたりして遊んでしまった。


 気が付いたら昼を周っていたので、当初の予定通り佐藤さんの家でカリカリを頂き、食べ終わると縁側でお昼寝した。


 この日は、終日いい天気で最高の猫日和だ。

 帰り道、俺たちは公園の前を通った。


 昨日までは、俺のマイホームだったんだ。ルームメイトのスズとブチはいるのかな・・・。

 いないわ!


 絶対いない。それどころか、ここにはもう戻ってきませんって雰囲気がある。

 これは、我々にしかわからないシックスセンスなんだけど、見た目はいつもと一緒でも、引っ越しましたってわかる残り香のようなものがあるんです。


 毛布もそのままだけど、ここにはもうあいつらはいない・・・。

 毛布の中の、あいつらの匂いがサヨウナラって言っている。

 辺りの匂いも嗅いでみる。


 あいつらは、もう近くにはいない。

 寂しい。


 そんなに仲良かったわけではないんだけど、一緒に行動したりはあまりしなかったけど、寝るときはいつも一緒だった。

 家族だと思っていたのに・・・。


「くっさいにょー」


 リトが毛布の匂いに、顔をしかめる。

 あ、こいつだ・・・。


 こいつの存在が、あいつらを遠ざけたんだ。

 そういえば、今朝からライデン以外の犬も猫も鳥さえ見ていない。


 我々猫だけでなく、人間以外のすべての生き物が危険信号共有システムというものを持っている。

 虫も魚も鳥たちも、餌と捕食者であったとしても、自分達ではどうにもできない絶体絶命の大災害が発生すると、これが誰ともなく発動され共有されるのである。


 生き残るために。


 それが、発動されたのだ。


 俺は、あいつらの残り香からそれを感じ取った。

 こいつだ・・・。

 リト = 災害。


「ここ臭くていやにょー。お家かえるにょー」


 リトが欠伸をしながら言う。


「おい、災害! いい加減にしろよ!」


 ちょっとキレちゃったけど、リトは気にもせず眠たそうにしている。

 こいつが悪いわけではないんだ・・・。

 いや、こいつの所為よね?


 はぁー。

 俺の怒りは、溜息と共に空気の中に溶けていった。


 「お前の父ちゃん、おっさんじゃん! 桂 修平に勝てる訳ないじゃん」


 あちゃー。近所の人間の子供たちが来ちゃった。

 一人の女の子を囲んで、ほかの子供たちがはやしたてている。


 いじめだな。


 可愛そうだけど、こればかりは仕方がない。すべての生物に、いじめはあるのだ。

 自分の強さを堅持するために、または自分を実際よりも強く見せるために、わざわざ弱いものをいたぶるのだ。


「帰ろうか、リト」


 俺は、傍らのリトに声をかけた。

 しかし、反応も気配もない。

 あれ・・・。


 隣にリトはいない。

 どこへ行ったのだろう?

 俺は周囲を見渡す。


 すると、滑り台の頂上に、腕を組んで仁王立ちのアイツを見つけた。

 険しい顔で、眼下の子供たちを見下ろしている。


 俺は、一瞬で全身の血が引くのを感じた。


「だめだ、人間の子供だけはだめだ!」


 人間の子供にだけは、手を出してはいけない。

 ものすごい報復を、受けることになるかもしれない。

 普段優しい人間も、怒らせると世で一番危険な生物になるのだ。


 俺たち猫が、滅ぼされるかもしれない。

 俺は、必死で滑り台の階段を駆け上った。


「大勢で一人をいじめるのは、卑怯にょ!!」


 リトは、滑り台の手すりを蹴りつけた。

 車が衝突したかのような、大きな音が鳴り響く。


 子供たちが、一斉にリトを見上げる。

 リトは、不思議な格好をして叫ぶ。


「ガウガウへんたい! ガウガウガー」


 天に片腕を突き上げ、また叫ぶ。


「ガウガウリト!!」


 リトは、雄叫びをあげながら滑り台から飛び降りた。


「わぁぉぉぉんー」


 俺は、もう少しでリトに届きそうだったのに、間に合わなかった。

 リトは、鶴のような格好で片足で着地すると、両の後ろ足を大きく開き、拳を前面に突き出し気合を入れる。


「いくにょー」


 そのとき、公園を囲む茂みの至る所から大勢の犬たちが飛び出してきた。


「にょー。なににょー」


 犬たちは、砂場にいた人間の子供たちを取り囲む。

 子供たちは、肝をつぶしたであろう。ワンワン泣きだした。いじめられていた子供一人を除いて・・・。

 リトの傍に、ライデンがやってきた。


「呼んだか?」


 リトは、困惑した顔でライデンを見る。


「よんでないにょ」


「お前の遠吠えがきこえたんだが・・・」


 人間の子供たちは、悲鳴をあげながら逃げていった。

 その姿を、リトは沈黙で見送る。


「何か、余計な事をしたか?」


 ライデンも、リトのつれない態度になぜか気まずい。


「逃げられてしまったにょ。でも、いいにょ。全員集合って必殺技を使ったことにするにょ」


 リトは、犬たちの中心で立ち上がる。


「大儀だったにょ」


 リトは、渋々ライデンたちの労をねぎらう。

 でも、ちょっと怒っている。





 俺とリトは、ライデンが率いる野犬たちを見送った。

 どうやら、リトの遠吠えのような雄叫びにライデンが反応したらしい。

 人間の子供たちは、大勢の犬に驚いて逃げてしまったのだが、何故かいじめられていた女の子だけが残っていた。


「あなたが助けてくれたの?」


 その女の子が、しゃがんでリトの頭を撫でる。


「ありがとうね。でもね、私つよいから平気なんだよ」


 とてもつよそうには見えない。

 体は、他の子たちと比べてもだいぶ小さい。可愛らしい顔をしていて、強さなど微塵も感じない。


「私のお父さんは、坂本 勇気っていってボクサーなんだ。全然勝てないんだけどね」


 女の子は、砂場の隅の石に座って話し始めた。


「もう36歳で、他の人と比べたらずいぶんおじさんなんだ。だから今年で最後にするんだって・・・。だからなのか、すごい気合が入っていてね。プロボクサーになって、初めてトーナメントで3勝したんだ」


 話の内容なんて良くわからないだろうに、リトはその女の子の話しをちゃんと顔を見て聞いている。


「でもね、今日これから試合なんだけど、対戦相手が桂 修平っていう人で、これまでの試合全部KOで勝っている凄く強い人なんだ。それで、みんながきっと負けるって言うから、ちょっと言い争いになっちゃった」


 その女の子は、立ち上がるとにこりと笑った。


「叩かれたりしたけど、私は殴らなかったよ。ボクサーの拳は凶器だからね」


 俺たちの前で、その女の子はちょっとだけシャドーボクシングをしてみせた。

 そして、大きく手を振って去って行った。


「なんだかよくわからないけど、帰ろうぜ」


 俺は、神社に向けて歩き出した。

 あ、ご飯どうしよう?


「なぁ、ご飯どうしようか?」


 俺は、後ろにいるであろうリトを振り返って訊ねる。

 いない。

 はるか後方に、リトの小さなお尻が見えた。


なんでだよ!


 俺は、慌ててリトの元に駆け寄った。


「どこいくのさ? 帰ろうよ」


 リトは無言で歩き続ける。

 その視線の先には、あの女の子がいた。


「にゅ、急ぐにょ」


 リトは突然走り出す。

 そこは、エスズ家電のある大通りだった。


「待てって、どうしたんだ?」


 あの女の子は、バス停で止まった。

 丁度やってきたバスに乗るようである。

 リトは、さらにスピードを上げ、女の子が乗り込んだバスに飛び乗った。


「まてまて、バスは駄目だろう。摘まみだされるぞ!」


 俺は、リトを静止したかったのだが、もうバスの扉が閉まりそうになって、やむを得ずバスに飛び込んだ。

 車内はそこそこ混んでいて、どうやら俺たちに気付いている人間はいなさそうだ。


 リトは、出入り口に近い席の下に潜り込む。

 俺も人間たちの足の間をすり抜けて、リトの隣に身を潜ませた。


「何やってんだお前、バスになんて乗ったら、どこかに連れていかれて帰れなくなるぞ。次、扉が開いたらすぐに降りよう」


「静かにするにょ。静かにしていれば怒られないにょ」


 うん。なるほど。 

 いや、そうじゃないけど、一理あるけど・・・。 

 騒がない方が良いのは間違いないので、俺は静かに状況を見守ることにした。


 バスが止まる度、扉が開いて何人かの人間が乗ってきて、扉が閉まる。

 それが何度か繰り返されると、突然大勢の人間が動き出した。皆が同じ場所で降りるようだ。

 その中に、あの女の子もいる。


「いくにょ」


 リトも座席の下から出て、人間たちの後ろをついて行く。

 俺たちは、乗ってきたバスを飛び降りた。

 何人かの人間が、俺たちに気づいたようでびっくりしていたが、追いかけられはしなかった。


 俺たちがバスを降りた場所には、大きな建物があった。

 人間たちは、皆この建物の中に入っていく。

 あの女の子も、そんな人間たちの流れの中にあって、リトはどうやらあの子を追いかけているようである。


 目的はわからないけど、聞いても教えてくれないから、黙ってついて行くしかない。

 建物の壁には、写真が飾ってあった。

 二人の人間の男の写真だ。


 そうか、ここであの子の父親の試合があるんだ。

 リトはそれが見たくて、あの子についてきたんだ。

 やれやれ、それならそうと言ってくれればいいのに・・・。


 いや、駄目だよ。


 バスにも乗っちゃだめだけど、建物の中にも入っちゃダメなのに。

 もう止めたって聞かないのわかっているから、俺は仕方なくリトについて行く。

 人間たちの足元をすり抜けて、大きな部屋にたどり着く。


 そこには、いっぱい椅子があって人間たちが中心に向かって座っていた。

 中心には四角い台があって、何人かの人間がモップで掃除をしている。


「しばらく待機にょ」


 リトはむしゃむしゃしながら言った。

 イカの燻製スルメを食べている。猫の大好物だ。


「お前、ひとりで何食べてるんだよ! どうしたんだそれ?」


「もらったにょー見つかるから早くいくにょー」


 すぐ近くに座っているおじさんの足元にビニール袋が置かれていて、中身がこぼれている。


「盗んだんだろ!?」


 リトは小、走りで四角い台の傍に移動する。

 どうやら、この台の事をリングというらしい。

 俺たちは、一番前の席の下に身を隠した。


 試合が始まるには、もう少し時間があるようだ。

 俺は、リトにもらったスルメをかじりながら周囲を観察する。


 いっぱいある座席のほとんどが埋まっている。聞き耳をたてていると、桂 修平の名前がよく聞かれた。

 どうやら、若くて強くてイケメンらしい。


 しばらくすると、場内が少し騒がしくなって、何やら騒がしい音楽が流れだした。スポットライトが照らされて、一人の男がゆらゆらと体を動かしながら出てきた。

 あれが桂 修平か。


 髪の毛がはえてて、目があって耳があって口がある。

 どこがイケメンなのか俺にはよくわからない。


 ふとリングの上に目をやると、椅子に座っている男と、その隣にあの女の子がいた。

 いつの間にかリングに上がっていたようだ、スルメに気を取られて気付かなかった。


 座っているのは、あの子の父親なのだろう。

 髪の毛がはえていなくて、口があって耳がある。

 イケメンだ、俺はそう思う。


 ライトに照らされて、ひかり輝く頭が美しい。

 俺は、そう思う。


『赤コーナー124ポンド二分の一、不入斗いりやまずジム所属 坂本 勇気ィィィ』


 リングの上でスーツ姿の男が、坂本 勇気を紹介する。

 坂本はガリガリに痩せていて、これから闘う男の姿には見えなかった。


『青コーナー125ポンド今出在家(いまでざいけ)ジム所属、桂 修平ィィィ』


 対する桂は、しまった体に無駄のない筋肉に覆われていて、若く肌の艶張りも良い。

 桂が片手を突き上げると、会場は割れんばかりの歓声に揺れた。


 もうじき、試合が始まるようだ。


 どうやら隣の席のおじさんたちは、ボクシングにとても詳しいらしく、俺たちに丁度良いタイミングで解説してくれているのだ。

 また、マイクを持ってしゃべっているので、良く聞こえる。


山田川 (さぁ、間もなく始まります。私、実況の山田川と本日は元フェザー級世界チャンピオンのピストン高杉さんに解説をしていただきます。ピストンさんよろしくお願いします)


ピストン高杉 (あい、よろしくぅ)


山田川 (会場は、ひとめ桂を見ようと大勢の観客が押し寄せていますねぇ。桂の人気はすごいですねぇ)


ピストン高杉 (強いですからねー桂は、デビューしてから全勝、なおかつ全てKOですからねー)


山田川 (そして、対戦相手の坂本 勇気は、今まで目立った成績は残していません。今年36歳ということで引退も囁かれていますね)


ピストン高杉 (坂本も頑張っているんですけどねー。でもねー、今年は何か違うよねー。目が違う、鬼気迫るものがあるねー)


 ゴングが鳴らされ試合が始まった。

 坂本は、がっちりと構えてすぐさまリング中央に進み出る。

 桂は、薄ら笑いを浮かべながら悠然と歩いている。


山田川 (さぁ始まりました。一直線に前に出る坂本に対し、桂は余裕ですね)


ピストン高杉 (良くないね。ああいう態度)


山田川 (まだ若いですからね。18歳ですから、坂本との年令差が・・・。わ、倍ですよ)


ピストン高杉 (はははは、そりゃすごい。親子ほどの違いがあるなら、桂もこの試合でなにか学んでくれると良いんだけどね)


山田川 (坂本、細かいジャブで桂を追います。しかし、桂はこれを華麗にかわす)


ピストン高杉 (あのやろー舐めやがって)


山田川 (どういうことでしょう?)


ピストン高杉 (舐めてんだよ。自分の方が格上だと自惚れてんのさ、ああいう奴は、ここらで痛い目見ると良いんだ)


山田川 (あ、ダウン。坂本ダウンです。何が起きた!)


ピストン高杉 (かぁー、アイツ狙ってやがったんだ)


山田川 (今のは、カウンターですね。坂本がはじめて放った右ストレートに桂がカウンターを合わせたようです)


ピストン高杉 (プロの試合で、一発KO狙うなんて舐めているにも程がある)


山田川 (一発KOですか、それはすごい。坂本立てないか・・・お、立ちますね)


ピストン高杉 (立つよ、意地でも立つよ)


山田川 (ああ、立ちました坂本。試合再開です。あーフラフラですね坂本)


ピストン高杉 (あはは、桂の残念そうな顔おもしれー)


山田川 (お、ゴングです。坂本ゴングに救われました。1ランド終了です)


 そこからの試合は、一方的だった。


 一発KOで仕留めそこなった桂は、なるべく早いラウンドで仕留めようと、坂本に連打を打ち続ける。

 会場は、桂がクリーンヒットを打つたびに歓声があがった。


 よろけながら何とか堪える坂本に、早く倒れろなんて野次も聞こえる。

 リトは興奮して、リングにかじりついて試合を観戦していた。


「おい、大胆すぎるだろう。見つかるぞ」


「誰も気にしてないにょ!試合に集中するにょ!」


 その時、ものすごい音がした。

 バットで何かを叩いたような、鈍い音がしたと思ったら、坂本 勇気がまるで棒切れのようにリングに倒れた。


山田川 (あああぁ、これは危ない。坂本、二度目のダウン!これは立てない。レフリーが駆け寄ります)


ピストン高杉 (立てよ!立てよ坂本!!)


山田川 (あの、ピストンさん公平な解説をお願いします)


 騒めいていた会場が、静まり返った。

 コーナーポストに戻ろうとしていた桂 修平も、その妙な気配に気づいて振りかえる。

 そこには、まるで生気のない坂本 勇気が立っていた。


 ここでゴングが鳴る。


 会場にいる多くの者が、試合の継続は無いと思っていた。

 坂本のいる赤コーナーには、坂本 勇気を多くの人が囲んでいる。


 レフリーやドクター、ジムのトレーナーなどに混じって、子供もひとりいた。

 泣きながら父を応援している。


 レフリーが、リングの中央に戻るとゴングが鳴り試合が再開された。

 会場は一瞬どよめいたが、大きな歓声に変わった。

 歓声の声が変わっていた。


 ずっと桂 修平を応援する声の中に、坂本 勇気を応援する声が混じっている。

 あの女の子も、リトも俺も、必死になって坂本 勇気を応援した。

 桂 修平は、焦っているようであった。


 一発KOするはずであったのに、こんなおじさんボクサーを未だ倒せないのである。

 桂がパンチを放つたびに、坂本はゆらゆらとよろめいた。


「いい加減くたばれよ!おっさん!!」


 桂が叫びながら、渾身の右ストレートを放つ。


 そしてその瞬間、俺は見た。

 ガードごしに睨み返している坂本の死んでいない眼差しを・・・。

 桂も気付いたのだろう、引きつった顔をしている。


 桂は、慌てて防御の姿勢をとる。

 しかし、間に合わなかった。

 桂の放った右ストレートに、坂本の右ストレートが交差して桂の顎を打ちぬいた。


山田川 (あああぁ、カウンターだ!!)


 まるで時間の流れが緩やかになったかのように、しずかに桂はリングに倒れた。


ピストン高杉 (やりやがったー!!)


 怒号のような歓声が、会場を揺らす。


山田川 (ダウゥゥゥゥゥンー、桂ダウンだぁぁ)


ピストン高杉 (よくやったーよくやったー坂本)


 ピストンのおじさんは、泣きながら叫んでいる。

 それに誘われてか、会場には泣き出す人がちらほらいる。

 桂は、立ち上がった。


 会場は、変な空気になっていた。

 桂が立ち上がっても、歓声をあげる人は少ない。

 そこからは、子供の喧嘩のような試合だった。


 ただボカボカと殴り合っているだけで、テクニックや駆け引きなどまったくない泥仕合だ。


 最終ラウンド


 みんな必死で応援した。

 もう誰をじゃなかった。

 ただ、がんばれがんばれと・・・。


 試合が終わった。


 桂 修平の拳を、レフリーが高々を掲げる。

 しかし、桂は悔しそうで勝者の顔はしていなかった。

 坂本 勇気は、ボロボロでなんの感情も窺い知ることはできない。


山田川 (いあや、凄い試合でした。結果をみれば勝者は桂でしたが、坂本の気迫はすごかったですねぇピストンさん)


ピストン高杉 (オボボボ、おどごだあいじゅうは)


山田川 (言葉になりませんね。しかし、この試合、桂はKO記録をここで止められ、記録の更新はできませんでした。辛うじて勝つことはできましたが、得るものも大きかったのではないでしょうか)


 坂本は、敗北が決まると自分のコーナーに戻ってきた。

 椅子に座ったまま治療を受ける。

 俺とリトも、坂本の傍に駆け寄った。


 リトの眼には、涙がいっぱいたまっていて、今にもこぼれそうだ。

 闘い傷つき、ボロボロの坂本に幼い子供が飛びつく。


「ごめんな。アヤ、負けちゃった」


「負けてないよ。お父さん、強かったよ。みんな応援してたよ」


 アヤとよばれた女の子が、泣きながら父親にしがみつく。


「負けてねーってのは、聞き捨てならねーな」


 親子の前に、いつの間にか桂 修平が立っていた。


「おっさん、どうせ負けんのに無駄に足掻くんじゃねーよ」


 桂のあまりの非礼に、周りの男たちが気色ばむ。


「どうしてくれんだ。KO記録途切れちまったじゃねーか」


「あなたなんか、運よく勝てただけなんだから!」


 アヤは、桂に掴みかかろうとするが、父親が優しい面持ちでそれを止めた。


「アヤ、お父さんは本気で闘って、負けたんだ」


 父親がそう言うと、アヤは声をあげて泣いた。


「さぁ、行こう」


 父親は、娘の手を取ってリングを降りた。

 リングを降りた坂本 勇気に観客から割れんばかりの歓声が沸く。


「勝ったのは、おれだっつーの」


 それを横目で見る桂は、苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。

 

「けっ、ペットまで連れ込んで最後の思い出作りかよ」


 桂は、俺たちに気付いて腰を屈めた。


「可愛いにゃんちゃんですねー。負け犬どもを癒してあげてくださいねー」


 桂は、そう言ってリトを撫でようとした。

 リトは、右手を背後まで振りかぶり、その手を床すれすれの軌道で振り上げると、同時にジャンプする。

 振り上げられたリトの右手は、屈みこんでいた桂 修平の顎にあたった。


 桂は、屈んでいる体勢から直立の姿勢になり、その足が浮くとリング中央付近まで飛んで行った。


 ヤバイ!


 やらかした!!


 俺は、リトのうなじを口で掴んで、慌ててその場を退散した。

 背後から、絶叫する声が聞こえる。


山田川 (ああぁぁー。どうした桂! リング中央で倒れたぞ!!)

ピストン高杉 (ん! なんだ今のは・・・)

山田川 (先ほどの試合のダメージでしょうか? ピストンさん、坂本のカウンターの威力は相当な物だったのですね?)

ピストン高杉(いや、猫が・・・。)

山田川 (猫? あ、ドクターがリングに入ります。起きませんね桂、大丈夫でしょうか?)

ピストン高杉 (猫が、アッパーカットを・・・。)

山田川 (な、何を言っているんですか。今、担架が持ち込まれました。桂立てません。今もリング中央で倒れています)




 リトが、子猫並みのチビ猫でたすかった。

 他の人間に見られることなく、あの場を去れたはずだ。

 俺は、建物の外の安全な場所まで来ると、リトを離した。


「何するにょー」


「バカ! 人間には手を出しちゃダメって、何回言ったらわかるんだよ」


「だって、アイツ嫌な奴だったにょ」


「それでも、人間には手を出しちゃダメなの」


「大丈夫にょ」


「なんでだよ」


「ボクシングでやっつけたにょ」


「いや、だめでしょう」


「かえるアッパーにょ」


「名前つけるな」


 まったく、すぐ影響される。

 この間までガウガウガーだったのに、次はボクシングか・・・。


 周囲が騒がしくなってきた。

 会場にいた観客たちが出てきたのだ。

 やっぱり、あの後大変な事になったらしい。


 観客たちが、口々で桂 修平の容体を案じている。

 意識が無くて、顎が割れているとか、心臓が止まっているとか・・・。

 俺が聞き耳を立てていると、遠くからサイレンが聞こえてきた。


 あちゃー、重体なんだーーー、死んじゃったらどうしよう。

 俺は、心配になってきて、ここから早く遠ざかるべきだと思った。

 リトにそのことを話そうとしたら・・・。


 いない。


 あれーーー。

 俺は、慌ててリトを探す。


 いた。

 アイツは、何故か会場に戻ろうとしている。

 自首する気か!!


「何やってんだよ!」


「にゅー、リングに戻るにょー」


「アホか! 猫に自首されたって困るだろうが!! もういいから帰るぞ」


「ジシュ?」


 リトが首をかしげて不思議そうに俺を見ている。

 いや、俺の方だよ首をかしげたいのは!


「何しに行くのさ?」


「にゅ、リトが勝ったから、次の試合に出るにょ」


 驚きすぎて、目が点になるわ顎も脱力しすぎて外れそうになった。


「出られるわけないだろう!」


 俺は、リトのうなじを掴んで帰路についた。


「いやにょーやめてにょー」

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