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雪原に消ゆ

作者: 黒森牧夫

 耳当てもせずに出て来たので、耳が千切れそうな程痛かった。頬や額、それに鼻の下の辺りに薄らとこびり付いた汗や鼻水は疾うに凍り付いて、硬い膜を皮膚の上に纏わり付かせ、意識し始めると途端に痛みと痒さが襲って来そうな予感がしたので、私は極力自分の肉体から注意を逸らそうと試みた。手や足の指先の感覚はもう半ば以上麻痺してしまっていたので、明日に成れば――今日の日が明ければ、凍傷とは云わないまでも、酷い霜焼けに悩ませられるのは必至だろうと思われた。怒れる一匹の獣の様に、その忌々しさに身を震わせようとして、私は足首の上まですっぽりと冷たい氷の手がしつこく触れているのを覚えつつ、少しの間立ち止まって足踏みをした。直ぐ耳許で鳴っている様なくぐもった響きを立てる荒々しい自分の呼吸音に混じって、普段ならまるで気付きもしない、自分の体が微かに動く正確な出所の知れない音が耳に届いたが、一度大して溜まってもいない唾を飲み込んで耳を澄ませると、やがてじんわりと一面から、ぴいんと張り詰めた凍れる静寂が押し寄せて来て私を包み込んだ。生きて、動き、変化するあらゆるものどもが一斉に息を潜め、全身全霊を傾けた黙想の裡に気配を研ぎ澄ませている様な静けさは、まるで世界の果てから私の居る所まで一足跳びに訪れて来ている様な気がしたが、それと同時に私の直ぐ隣で泉の様に湧き上がって来たものの様にも思われた。私は思わず息を詰め瞳を凝らして、雲ひとつ出ていないにも関わらず見渡す限り押し殺された殺伐とした闇によって照らし出された、仄白く微かに青み掛かった新月の夜に神経を集中させて行った。

 オリオンはもう大分西に傾いていたが、山の端の向こうから朝陽が冴えざえとした光と熱とで地上世界を照らし出すまでにはまだ大分間が有る様に思われた。昼間の内にまた降り積もった雪は、この長い夜明け前特有の冷え込みによって無慈悲さを増し、その冷厳な美しさを装うこと無く黙然と剥き出しにして、ものみなが死に絶えた様ななだらかな起伏の続く山々のうねりを滑らかに覆っていた。星々の光は闇の隙間を縫ってやっとのことで地上に降り注いでいる所為か、如何にも弱々しかったが、大気が澄み渡っているのかその一筋ひとすじが柱の様にくっきりしていて、微かにそれと判る銀色の粉を艶やかに地表に振り撒いていた。美しくも死滅した世界―――その中で私は独り、たった一人目を覚まして、この長い、果てし無く思われる陰鬱な悪夢は、恐らく終わることは無いのだと云う苦痛に満ちた認識に全身を浸らせて、何も言わずに、何も言えずに、暫し立ち尽くしていた。いっそ思い切って彼の名を叫んでみようかと思ったが、開き掛けた口は周囲の沈黙に圧倒されでもしたのか、その儘中途半端に固まってしまい、舌は石にでも成ってしまったかの様に固く動かず、喉の奥からは唯停止させられた音の残流がもそもそと漏れ出て来るばかりだった。何と云うことだろうか、私は行動を制限されてでもいるのだろうか、何等かの見えざる力によって人間らしい常識的な振舞いをすることを禁じられてでもいると云うのだろうか、私は無力な傍観者たることを強いられ続けるのだろうか。

 そうかも知れなかった。今回の辞職の一件が口実に過ぎないことは解っていた―――彼にとっても、私にとってもだ。私達の様なタイプの人間にとっては常にそう云うものなのだ。現象は必ずしも事態の本質とは一致しない、表面に現れているもの一切を仮令取り尽くすことが出来たとしても、肝腎要の部分は尚も謎として秘密の帳の向こう側に隠された儘でいる。世界の一切は詰まるところ仮象であり、諸契機に満ちてはいるが、その終局の動因ではないのだ。要するに彼も私も、この粗野で理不尽で、非合理どころか没-合理的な世界によって駆り立てられ、疎外され、行き場を失ってしまった孤独な魂に他ならず、余人の窺い知ることの出来ぬ広大な領土をその視野に収め乍らも、永久に境界上で彷徨い続けることを定められた迷える懐疑なのだ。この一連の流れの結末として何が起ころうとも、どんなことが出来しようとも、それはその見掛け上の因果関係の内部で進行して来たものではなく、彼や私の様な人種にのみ開かれた、複雑で多層的な諸関係の深奥から、永い冬眠からやっと目覚める様にして現れ出て来たものなのだ。彼の失踪が、慢性的だが衝動的な逃避に因るものではなく、何かに魅せられた為であることを、私は朧気乍ら理解していた。この何処までも清潔な厳しい寒さが彼を外に連れ出したのだろうか、それとも上空の一隅であの凶々しい輝きを放つアルデバランに彼は招かれたのだろうか、何れにせよ、この空の下に垂れ込めているのは厳粛な恐怖であって、悲惨や嘆息などではなかった。息を吐き掛けて両手を擦り合わせると、私は自分がこの未知なる大地、未知なる時間に祈りを捧げているかの様な錯覚に囚われた。

 何とも言い様の無い衝動に駆られる前に、些か性急に辺りを見回すと、私は再び彼の足跡を追い始めた。一応道らしきものは在るとは云え、この季節には殆ど人の通らないこの一帯には彼以外の足跡は人間どころか兎のものさえ付いてはおらず、蠱惑的な曲線を描いて流れる、仄白く輝く緩やかな起伏の表面には、私を吸い込もうとしているかの様な黙々と寄り道もせずに続く一組の青み掛かった影を落とす穴々が点々と、彼の行動の、彼がそこに存在していたと云うことの証明を残していた。彼の跡をその儘なぞる様にして私は歩き続けた。強張った身体がどんどんと悍ましいまでの冷気に浸蝕されて来ているのは分かっていたが、それ以外の全てのことを忘れ去ってしまったかの様に、私は進むことを止めなかった。なだらかな小振りの稜線を更に幾つか越え、さして踏み固められている訳でもない曲がりくねった地面の凹凸に屢々足を取られ、白いカヴァーの下に、踏み抜いたら危険な鋭い石や木切れや窪みや裂け目が在るのではないかと怯えつつも、この新月の夜の徒手空拳の行軍は導かれる様にして前方の或る一点を目指していた。影と光との風景が行く手から押し寄せて来ては、背後の不可視の領域へと、忘却の淵の向こうへと押し流されて行った。

 不意に黯い木々の連なりが途切れ、森を抜けた所で、足跡は唐突に終わっていた。その先は崖になっていて、引き返した形跡も方向転換した形跡も見当たらなかった。私は一番終わりの跡まで辿って行ってギリギリの縁まで身を乗り出し、その下を覗き込んだが、十五メートルばかり下に、誰にも何にも冒されてはいない透明な雪原が、打黙した儘広がっていた。更に目を凝らして眺め渡してみたが、見渡す限り人ひとりが隠れられそうな場所は何処にも無く、振り返ってみても、それ以上彼の痕跡は見付かりはしなかった。行動の指針を失って私は途方に暮れ、それ以上の手掛かりを得ようとすることも忘れて暫し凝っとその場に立ち尽くしていた。

 と、上空に目を遣ると、月を欠いた深々と黒い口を開けた攻撃的なまでに満天の星空が、私のことを見下ろして嗤っているのが見えた。腹の底から或る恐ろしい響きが湧き上がって来て、私の脳裏に届いた。この森が、木々が、山が、雪原が、星々が、私自身が、この夜の全てが、夜明け前のこの恐るべき長く深い闇が夢見た一篇の幻想であることを、その時私は知った。

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