鍵盤の聖女は焼おにぎりを解す
挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」を使用させて頂きました。
5限の講義を終えると、私達は堺音大近くの居酒屋へ直行したの。
安さが売りの大手チェーンだけど、学生風情なら分相応だね。
「お疲れ様、浪切さん。来年は4回生ね、私達。」
乾杯に用いたワイングラスを口元へ引き寄せると、千恵子さんは気品ある微笑を投げかけてきた。
ピアノとヴァイオリンという専攻の違いはあれど、千恵子さんと私は実に気が合い、こうして頻繁に遊びに出掛ける間柄なの。
「そしたらすぐ卒業かぁ…進路、どうしよっかな。」
ビール混じりの溜め息をつく私を笑顔で見つめながら、「鍵盤の聖女」の異名を持つ友達はワインを傾けていた。
「浪切さんも奏者希望でしょ。同じ交響楽団で演奏出来たら素敵よね。」
安いテーブルワインなのに、彼女が飲むと高級品に見えてくる。
さすが鍵盤の聖女様。
大人びた美貌と気品が羨ましいよ。
「楠太郎君の指揮で、私と浪切さんが演奏するの。良いと思わない?」
「三藤君に?指揮者まで決めてるの?」
三藤楠太郎君というのは、千恵子さんと交際してる指揮者志望の男子学生なの。
2人は結婚も意識してるようで、気の早さに驚いてしまうけど…
「出産後の数年は休業するけど、絶対に復帰するの。生演奏を娘に聞かせたげたいじゃない?」
そんな千恵子さんを見るのは、本当に飽きない。
夢を熱く語っている千恵子さんを見ていると、私にも気合いが入るんだ。
負けてらんないって。
それにね…
「あっ、それ良いね!スッゴく美味しそう!」
さっきより、トーンの高くなった声。
私がオーダーした焼おにぎりに、グッと身を乗り出した千恵子さんの目は釘付けだったの。
「1つあげるよ、千恵子さん。」
「やったね!ありがと、茉莉ちゃん!」
そう!千恵子さんは時々、妙に子供っぽくなる事があるの。
そんなギャップが愛おしくて仕方なかった。
「濃い口の醤油味は赤ワインにも合うのよ。浪切さんも一度、試してみたら?」
先の無邪気さは既に鳴りを潜め、千恵子さんは上品な箸捌きで焼おにぎりを解している。
「あら…どうかなさったのかしら、浪切さん?何か、良い事でも?」
「ううん…何となくだよ、千恵子さん!」
今の気品ある淑やかさも、先程の初々しい無邪気さも。
どちらも千恵子さんである事に、変わりは無い。
そして私は、どちらの千恵子さんも大好きなんだ。