1-2「くすぐりの刑に処す」
二十二世紀初頭の東京都、その郊外に位置する西東京市にて。
西東京市は世界有数の学術都市として有名である。多数の学術機関と教育機関を要する独特の文化が形成されており、別名学園都市とも呼ばれる。
都立の中学校である西東京市立西中学校は、千人程の生徒を抱えていた。
かなり自由度の高い校風が魅力であり、自他ともに認める先進的な教育を行っていた。
生徒数は全国的な平均値と比較しても多い方であり、全国平均の中央値を上回っている。
それ以外の特徴を細かく見れば多少の問題こそあれど、基本的には健全な運営が行われている。
要は、ほとんど普通の中学校である。ただ一つ違うとすれば、随所に施された最新技術であろう。
この日も、春季休暇を終えた生徒たちが続々と登校していた。
本日行われるのは始業式。一般には生徒への連絡や校長先生の退屈な演説が行われるのが常であるが、西中は違う。
節目ということで儀礼的に開催しているだけで、簡素な式が行われるだけなのだ。
ゆえに生徒たちも気楽に臨み、式自体もあっという間に終わる。だからこそ、どこの教室でも皆楽しそうにお喋りに興じていた。ある一つのクラスを除けば。
そこは校舎の二階にある二年三組の教室。
二年三組のクラスメイトたちは、他のクラスの例に漏れずお喋り中だった。
口々に今日これから起こることへの愚痴を溢したり、休暇中に起きた大小様々な事件などについて友人同士で語り合っている。
その他流行りのアニメや何やらの話題が飛び交うありきたりな光景だ。
そんな中でもひと際目立つのはやはり、窓際後方の一角に形成された集団であろう。まだ集まっていないが普段の彼女達は四人組であり、男子はやや近寄りがたい雰囲気を持っていた。
その内の一人、まともそうな少女の名をハルカという。小柄な体形で可愛らしい雰囲気を持つが、際立った特徴はない。
ハルカは眼帯の少女と何やら話している。
どうやら踏切で起きたことについて詰問している様子。
「トーコ、私はアレに慣れてしまっている自分が凄く嫌なの」
「ダメだよハルカ……! ああして気を張っていないといつか襲撃を受けてしまう。もう一人の私もそう言っていることだし、従って損はないよ!」
「なるほど」
ハルカは軽く流した。
それに対し、変わった風貌の少女はきょとんとしていた。小首など傾げながら。
眼帯に眼鏡の危ない感じの少女は、名をトーコといった。妙なタメを作って話すことが特徴的な女の子であり、ややふくよかとした体形がもう一つの特徴だ。
そしてある意味で悪目立ちするのは、一切の染色が行われていない黒髪だろう。
設立から二十年の節目ということもあり、去年から自由度が増して多様化した西中の校則。
ここ一年間の生徒たちのトレンドは、多種多様な髪色に染めてみることだった。頭髪をほとんど痛めることなく染めることが可能な染料が開発されてから、オシャレに敏感な年頃の生徒は多くがその恩恵に与っていたのだ。
無論誰でもそうするというわけではないが、トーコのように見目麗しく胸部の膨らみが素敵な感じの少女が染めないというのは、珍しいこと。普通っぽい見た目のハルカですら地毛ではなく茶髪なのだから、流行り具合は相当なものである。
あくまで学園都市内で、という注釈は必要になるが。
そんな二人は、創作活動部というサークルを入学して間もなくに創設したという変わった経緯を持つ。思い付きの行為であったにもかかわらず、二人の申請は簡単に通った。これには訳がある。
西中は一般に大学で行われているサークル活動の要素を試験的に取り入れているため、多種多様なクラブが乱立していた。そんな校風であるから、あまりにもふざけたクラブ名も多い。一方の創作活動部は名称だけならそれっぽいので、許されたという経緯があったのだ。
しかも所属しているのは全員が女子という、一風変わったクラブ活動の様相を呈している。先輩も後輩もいないという所がもっとも変わった点であろうか。
彼女達は今日も彼女たちなりの青春を謳歌している。その活動は、誰にも邪魔されるわけでも誰かに迷惑を被らせてしまうわけでもない。
一つ問題点があるとすれば、本物の変わり者しか集まらないという点だろう。
「ちゃんと宿題やって来た?」
「くっくっく、私を誰だと思ってるんだよ。そう、私は世界の変革を見届ける者。選ばれし存在として――」
「先生来たよ」
「はい」
教室前方のドアが開き、担任の教師であるタカハシが入って来た。朝のホームルームが始まる。
予鈴が鳴ると、タカハシが起立の号令を掛けた。
ちなみに、起立から着席に至るまでの過程は現在重要視されておらず、行為自体は強制されていない。いずれ廃れていくことは明白で、あくまで教師の裁量に委ねられる。
タカハシはそれをするタイプであった。止めろと言われればすぐにでも止められるほどの薄いこだわりでしかないが。
朝のホームルームで行われるのは大したことではなく、儀礼的に行われる内容ばかりである。
タカハシは慣習そのものに関してはそれなりに実行するタイプである。それを嫌う生徒も多いが、タカハシは違う。
それ以外は基本的に無駄を省いてくれるタイプの教師ということで、特に生徒たちから嫌われているということはなかった。
「点呼取るぞー……って、メロディはまだ来てないのか」
点呼を開始したタカハシだったが、一人いないことに気付くと同時、いつもなら当の昔に席にいるはずの生徒がいないことにも気づいた。
「おっ、アスナが遅れてるのは珍しいな。ハルカ、何か知って――」
「ごめんなさーい! 遅れましたっ!」
慌ただしくドアが開かれると、水色の髪を持つ少女が現れる。息を切らしているため、誰もが彼女は遅れまいとして走って来たのだと理解した。
アスナはスクリーンに表示された時計を確認すると笑顔になる。
「時間ピッタリだ! セーフだよね先生!」
「いやアウトだよ」
アウト宣言を受けて、アスナはさぁっと顔が青くなった。アスナは入学から一年間無遅刻無欠席の風の子であるから、一度たりとも遅刻などしたくないのだ。
「せ、先生! ご勘弁を! これにはやんごとなき事情があって!」
その様子を見てやれやれと息を吐いたタカハシ。
「まあ今回は許してやる。これが常態化するようなら特別授業が待っているから気を付けるように」
「へい、精進しまっす!」
タカハシは神対応を決めた。
アスナは見逃されたことに安堵しつつ席に付いた。トーコとハルカに挟まれているのがアスナの席である。
「……代わりと言ってはなんだがメロディを見なかったか?」
「メロちゃんならトイレの近くで隠れて腕組んで仁王立ちしてると思う!」
「そうか助かった。まったくあのバカは……」
タカハシが早足で教室から出て行くと、にわかに生徒たちのお喋り熱が高まった。アスナはともかく、メロディが遅れるのは珍しいことではないから話題にならない。
人によっては久しぶりに見たなこの光景、程度に見られていた。
教室に廊下の向こうからタカハシの声が聞こえて来る。
「見つけたぞ。こんなところで何をやっている!」
「な、なんでばれたんだよチクショウ!」
彼女、メロディは口が悪かった。
「ある親切な生徒が教えてくれてな。ちょっと来い、お仕置きだ!」
「ア、アスナぁぁーー!」
メロディは告発人を一瞬で察した。自分が女子トイレの近くにいることなど、他に誰も知る由はないからだ。
呼ばれたアスナはというと――
「聞こえない聞こえないっとー」
無慈悲かつ自然にメロディの位置を告発したアスナはだんまりを決め込んだ。
彼女は悲痛なメロディの叫びを無視してお喋りに興じるようだ。
トーコはニコニコしながら両手を頬に当てる。
「おはようアスナ。相変わらずエネルギーがムンムンだね……!」
「そういうトーちゃんこそ、僕に負けず劣らず負のエネルギーがプンプンだよぉ! 悪を止めて光に目覚めなさい! このこの!」
トーちゃん。
不思議なあだ名である。アスナはそのままトーコの胸に飛び込むと、デレデレとした恍惚の表情を浮かべながら、ワサワサとする。
具体的に記すのは難しいのだが、とにかくワサワサとしていた。
「ダメなんだよ―アスナ。くすぐったいよぅ」
「えへへ……このまま脱がしちゃうぞぉ……へへへ」
「おい、それ以上やったら法に触れるぞ」
シャツのボタンが開かれる一歩手前。ハルカは公衆の面前で破廉恥な行為を行う二人を窘めた。
アスナは唇を尖らせて「しょうがないにゃあ」とトーコから離れた。凄まじく緩んだ顔から、溢れんばかりの変態性が漏れ出していた。
「それにしてもアスナが遅刻するなんて珍しい。何かあったの?」
「あいたた、いやぁ実は――」
「アスナぁ!!」
会話を遮るように、誰かが乱暴に入室して来た。若干泣きそうな顔をしているのは、タカハシの言っていたお仕置きとやらを施された結果だろう。
プリン状態になりかけている染められた金髪にまつ毛の長い碧眼が特徴的な女の子はどうやら怒っているようだ。
「アスナ、何でタカハシに場所教えたんだよ」
「メロちゃんがいけないんだよ? しつこく絡んでくるから」
「お、俺が寂しがり屋なの知ってるだろ! お前がオレを置いて行くから!」
「なにおう!」
メロディが詰め寄ると、応戦するようにアスナも立ち上がった。
ハルカは「またか」と呆れ顔だ。
「落ち着きなよメロディ。アスナもほら、喧嘩腰は良くない」
「うっ、そんな目でオレを見ないでくれハルカ……わかったよ」
二人に事の顛末を尋ねたハルカ。
まずアスナがどうして遅れたのかを説明し出した。
学校に着いたのは十分以上前だったのだが、玄関口でメロディが話しかけて来たこと。そのままお話に付き合っていると時刻が迫っていたので、話を切り上げようとした所メロディがお手洗いに行きたいと言ったこと。
一度は断るが引き留められたこと。
ゆえに、仕方がなく付いて行ったから遅れたのだと。
その時点でハルカの顔が淀んでいき、雲行きが怪しくなる。
もう答えは出ているのだが、ハルカは優しいのでメロディの言い分も聞いてみることにしたようだ。
「オッケー。次、メロディ」
「お、おう……」
続いてメロディが説明を開始した。彼女はこの時点で覚悟を決めておくべきだった。メロディはアスナに登校中の出来事を話していたら、いつの間にか時刻が迫っていたがどうしても用を足したくなったことを語った。
いつも誰かと行くので一人ぼっちでは行けないと悟り、無理やりアスナを連れて行ったということを。
そして最後に、遅れるのは良くあることだからまぁ許してくれ、的なことを言って締めた。
「えーと、つまりメロディがアスナを、無遅刻無欠席のアスナを遅刻寸前まで追い込んだということでいいの?」
「あっ、えっと、その」
先ほどまでの気勢はどこへやら、すっかり弱弱しくなってしまったメロディ。
「そう……」
「ハル、カ?」
これまでほとんど無表情だったハルカは、最高に悪そうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がった。
無言の恐怖にメロディはブルリと震えた。
「メロディ正座。そして、くすぐりの刑に処す」
「ま、まさか……やめろ、やめてくれ! やめ……ふ、ふぎゅっ! あははは! ちょ、やめ――」
「問答無用!」
くすぐりの刑は淡々といて苛烈に行われた。
トーコは一部始終をニコニコと見ていた。実に楽しげに。
結局、反省した(させられた)メロディがアスナに謝ることで事態は終結した。