星空を喰らう
「ねえ、聞いた? 夜空に看板出すって話ー。昨日、ニュースでやっとったんだけどっ、さっ」
眠気との格闘を終えた放課後、教室を出て廊下を歩いていると、羽崎ユリ(はざき ゆり)が私の肩をポンっと叩いて隣に並んだ。
「は? 知らんし。ってか、夜空に看板? ちょっと、なに言ってるのかわかんない」
私が応えると、ユリは次には鼻高々に言ってみせた。
「カノンって、ニュースとか見んの? ちゃんと新聞とかも読みゃあよ」
「っっ」
私、堂本カノン(どうもと かのん)の親友ユリは時々、名古屋弁を惜しみなく垂れ流す。それは生粋の名古屋人であるユリの祖母が、仕事で遅い母親の代わりに、ユリの家でご飯を作っていることに由来するのだ。ユリのおばあちゃんが作る味噌おでんは最高に美味しい。ユリの家に泊まりに行った時、何度かご馳走になったことがある。
「で? なんの話よ?」
改めて訊くと、ユリは手に提げて持っていたリュックをよいしょっと背負った。
「アメリカかどっか、そこら辺の国なんだけどね。打ち上げた衛星を使って、夜空に文字を描くことができるようになったんだってえ。で、そこでお店とか企業とかの宣伝をしようって」
「え、すごっっ。そんなんできるんだ」
「ねええ、カノンー。そんなこと言ってる場合じゃないわあ」
気だるそうに言う。
「え、なに?」
「そんなことされたらさあ。あたしたちの活動、どうなんのよー」
私たちが通う高校には天文部がある。昔、校長先生だった人が自費で購入したという、太陽を観測する大きな望遠鏡もあるし、簡易ではあるが大きなドーム型のプラネタリウムまであるし、そもそも天文部の存在自体が珍しいような気がするんだけど。
しかもこのプラネタリウム、季節ごとに違う夜空の星座を忠実に再現してそれを天幕に投影でき、その本体価格は数十万円とか、うん百万円とか噂されていて、部員である私たちを恐怖のどん底に陥れている。
去年はそれを文化祭の出し物の目玉にしたのだが、懐中電灯の準備を忘れたというドジな暗がりの中、最初はスマホの明かりを頼りに機械を操作していたのだけれど、そのうちバッテリーが無くなってしまい途中で閉店、惨憺たる結果だった。
それ以来、倉庫から出してもいない、という。
「恐れ多くて近寄れない、超高級プラネタリウムって、なんなんっすかね?」
天文部顧問でもある物理の先生に、部長として文句を垂れたこともある。
「恐れ多いて。 お前なあ、もうちっと勉強してくれよ。ニュアンスは伝わるけど、恐れ多いの使い方間違ってるから」
定年が近いと噂されている松崎のマッチャンが、生え揃っていない頭を掻く。あ、生え揃ってないってのはおかしいか。抜け去っている頭……⁇
とにかく顧問の髪の毛はないが、お金があって部費もたくさん貰える天文部が、私たちの所属する、俗に言うアオハルの舞台だ。
その割には部員が二人とは、色々と残念な気がするが。
「ほんと、迷惑な話だよなあ」
物理室に向かう廊下を、昨日やっていたというニュースの話題で盛り上がりながら、ユリと一緒に歩きながら話していると、後ろでマッチャンの声がして、私たちは振り返った。
「空に看板とはねえ……空や宇宙は誰のもんだって話だよ」
「ねえ、マッチャン。夜空に看板だなんて、星が見えなくなっちゃうんじゃないの?」
「そりゃあ、そうだ。ネオン街みたいなもんだからなあ」
「ネオン街?」
「お前らにゃ、わかんねえか」
マッチャンの口癖が出て、私とユリは顔を見合わせる。
そんなこんなで、天文部の部室、物理室に到着した私たちは、さっそく今朝やるべきはずだった、太陽の黒点チェックをし始めた。
太陽の観測専用の望遠鏡を覗く。丸くて薄いオレンジ色の物体、これが太陽。そして、その太陽の表面に付いている黒い汚れのようなものが、黒点だ。
黒点観察ノートを開いて、コンパスで描いた円の中に、大体の感じで黒点を描いていく。最後に日付を入れ、今日の活動は終わり。通常、朝。授業が始まる前に行うのだが、今日は寝坊して物理室に寄る時間がなかった。
「今日は、……じゃなく今日も、でしょっ」
ユリがツッコミを入れる。
「それにしても、こんなの記録し続けてどうすんべ?」
「ホントだよね。意味わからんし」
「とにかく終わったし。なにやる?」
「マンガでも読む」
「あ、私もー」
「おいー、お前ら、本当に天文部員かー?」
マッチャンの呆れた声が、隣接の準備室から聞こえてくる。
「だって、やることないんだもん」
ぶーたれた声を出す。
「やることないなら、帰れよ」
身体がその言葉に反応して、ぐら、と揺れる。私は助けを求めるように、ユリを見た。ユリは、黒点の記録ノートをペラペラとめくりながら、古い記録に目を走らせている。
「……べ、勉強してこーっと」
私が何気なくのフリをして大きな声を出すと、ユリも顔を上げて言った。
「あ、私も、物理でわからんとこあったんだわー」
そう言ってリュックの中から教科書を出す。すると、マッチャンが両手にマグカップを持ちながら準備室から出てきて、私たちが座っているテーブルの上に置いた。
マッチャンは、私たちがこうして物理室で時間を潰し始めると、いつもカフェオレかコーヒーを淹れてくれる。
部員は二人で顧問は一人。
天文部は夜が主要の活動時間なので、時々行なっている合宿もどき以外、昼間はぶっちゃけ何もやることがない。
「おおお、勉強かっ。お前ら、ついに開眼したか。で? どこがわかんねえんだ?」
ほくほくとした顔を寄越しながら、マッチャンは教科書を覗き込んでくる。マッチャンは先生らしく、生徒が勉強するのをなかなかに推奨してくる。
まだ教科書を出していない私は先に、マグカップに手を伸ばすと、小さくいただきますと言って、温かいカフェオレを啜る。
「おいし」
カフェオレを少しの時間、堪能してから、心底ほっとした心を持ち直すと、私もリュックから教科書を出した。
✳︎✳︎✳︎
家に帰っても誰もいない。
だから、同じ母子家庭でもユリの家はいいなあって、素直に思う。だって、ユリには優しくて料理上手のおばあちゃんがいるから。
ユリとユリのおばあちゃんは、住んでいる家は違うけれど、おばあちゃんはユリが帰る頃を見計らって、夕飯を作りに来ている。
私にも母方の祖母はいるけれど、県をまたぐちょっとした距離のところに住んでいるので、そう頻繁には行き来できない。高校生にもなると、なんでも一人でこなせるはずだと勘違いしている母親が、さらにおばあちゃんを呼ばなくなったから、私はそれをとても寂しく虚しく思っていた。
『米を二合、炊いておいてください』
ホワイトボードにそう殴り書き。
普段の会話もそれくらい。母はいつも夜遅くに帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
そして、バタバタと忙しそうに大袈裟な音を立てながら野菜炒めを作るのだ。
「カノン、あんた、ご飯を炊くしかできないわけ?」
軽く責められながら、遅い夜ご飯を食べる。
しーんと静まり返る空気。そんな中、カチャカチャと箸が食器をつつく音と、時折。はああああっと、疲れた感満載の、大きな溜め息。
私は居たたまれなくなって、食べ終わった食器をシンクに運ぶために立ち上がった。もちろん、食べ終わった後の食器や調理器具は私が洗うし、洗濯物も畳んで部屋の隅に置いてある。母の目には入っていないだけで、お風呂もちゃんと洗ってある。
(空でも、見よ)
母は疲れているのだから。自分に言い聞かせ、不満や悲しみが爆発する前に、二階へ駆け上がる。
カーテンを開けて、窓を開け放つと、私は夜のしんとした静けさを胸の中にすうっと深く深く、吸い込んだ。
綺麗な空をそのまま。そしてチカチカと光を放つ数々の星をもそのままに。
ぱくっと食べる。
胸の中に閉じ込めると、心もこの夜空のように澄んでいく気がして、私は天文部に入った。
✳︎✳︎✳︎
「お邪魔しまーす」
玄関で靴を揃えると、上がりかまちに足を進める。中から、おばあちゃんの声で、「カノンちゃんかあ、上がりゃーよ」と、いつもの名古屋弁が聞こえてきた。
ユリが玄関横にある階段の二階から降りてきて、私の荷物を受け取った。
「はい、マンガ」
「ありゃーと」
リビングに入ると、ほわっと良い匂いが鼻の奥に滑り込んできた。
「やっとかめだなも、カノンちゃん。元気だったかあ?」
皺の寄った頬を上げて、ユリのおばあちゃんはにこっと笑った。
「元気です。お邪魔します」
「ええよー、今日は泊まっていくんだよなあ? ユリが喜んどるよぉ」
「お菓子、持ってきました」
おばあちゃんへとビニール袋を渡す。行きにコンビニで買ったもので、ユリのおばあちゃんはせんべいが好きだと知っているから、醬油味のものを入れておいた。
「ありゃあ、こんな気い使ってえ。あんたは、ほんとにしっかりしとりゃあすなあ」
そう言ってくれるのはおばあちゃんだけです、と苦笑いを浮かべ、リビングのソファに座った。ユリが、そんな私の隣に滑り込んでくる。
「今日は、肉じゃがとシチューだって」
そのメニューを聞いて、私はぶっと吹き出してしまった。
「肉じゃがとシチューなんて、和と洋じゃん」
「でしょー‼︎ おばあちゃんっっ、やっぱおかしいってさあ」
ユリがそう大声を上げてから、私が買ってきたポッキーに手を伸ばす。口に三本咥えると、バリバリボリボリと音を立てた。
すると、エプロンで手を拭きながら、「ユリちゃん、今からご飯だってのに、あんたあ」と呆れた声で、キッチンから出てくる。
「カノンちゃんが、どっちが好きかなあって思って、二つ作れるようにしといたんだわ。同じ材料だから一緒くたに作っちまって、残った方は明日食べりゃいいで」
私は驚きの声を上げた。
「えっっ‼︎ 和と洋で全然違う料理なのに、同じ材料なんですか?」
ユリも目を見開いている。
「そだよ。ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、お肉……まあお肉はシチューが白いやつだから、鶏肉にしたけども」
ちゃんと考えてみると、確かに同じ材料だ。うちは母親が遅いから、ちゃっちゃと作れる炒め物が多く、煮込み料理はあまり口にしない。だから、気づかなかった。というか、考えもしなかった。
一気に二品の、しかもメインと言える料理ができるなんて。魔法か。
「肉じゃがのお肉って、なんでも良いんですね」
「いいのいいの豚肉でも鶏肉でも。もちろん牛でもな……そうだそうだ。二人ともこっちこやあ」
おばあちゃんが手招きしながら、キッチンへと入っていく。
私とユリは顔を見合わせると、ポッキーをそれぞれ二本ずつ口に入れながら、キッチンへと入った。
キッチンでは温かい空気が充満しており、湯気がふわふわと白く漂っている。大きな鍋がコンロにかけられ、グツグツと音をさせていた。
「こうして一つの鍋で作っておいてだなあ」
おばあちゃんがヨッコラセと腰を曲げて、シンク下の収納庫からもう一つ鍋を引っ張り出した。私は慌ててその場にしゃがみ込み、鍋を取り出すのを手伝った。ユリは隣でポケットに手を突っ込んだまま、ボリボリとポッキーを咀嚼している。
「ありがとね、カノンちゃん」
大きな鍋の横に、取り出した小ぶりの鍋を置く。
「でな、これで二つに分けるんだわ」
おたまを渡され、私は大鍋から小鍋へと材料をすくい入れた。出来るだけジャガイモとニンジンが同じくらいの量になるよう、お肉が一つの鍋に偏らないよう、気をつけて分ける。
ユリがいつのまにか持ってきたポッキーの箱から、さらに二本出して、私の口に突っ込んでくる。
「したら、これな」
ホワイトシチューのルーの箱。
「カノンちゃんはシチュー作ってくれる? で、ユリちゃんは肉じゃがな」
ユリは、ふわいーとポッキー口で返事をすると、だしの素と出された醤油と味醂と砂糖を「料理のさしすせそ」の順に入れていき、そして私はシチューのルーを落として、溶けるまでかき混ぜた。
ホワイトシチューと肉じゃがの匂いが絡まり合って、微妙な匂いになる。
「うわ、マジで和と洋が一瞬でできたわ。おばあちゃん、これほんとスゴイね」
「上手にできたなあ。カノンちゃんの作ったシチュー美味しそうだわ」
「って、ルー入れただけだからっ」
すると、おばあちゃんは笑って、言った。
「ばあちゃんだって、野菜切って、水で茹でただけだがね」
おばあちゃんはユリが作った肉じゃがの味を見ながら、ぽつりと言った。
「料理なんてそんなもんだ」
私はユリを見た。すると、ユリはすっかり空になったポッキーの空箱を持って、私を見ていた。
二人で、ふふっと吹き出すと。
おばあちゃんも、はははーと笑った。
✳︎✳︎✳︎
「マッチャン、私ね。ちゃんと調べたんだよ。太陽の黒点のこと」
天文部顧問のマッチャンが、私の隣でワークの添削をしている手を止めて、顔を上げた。
「ん? ようやく自分が天文部部長だったって、気づいてくれたか?……って、遅えよっ」
「だって、なんかの意義でも見出さんと、毎朝こんな地味なことできんってー」
「毎朝、じゃねえだろ。ユリはともかくお前はいつも放課後な。でもまあとにかく、意義を見出せて良かったな」
「……黒点の増減は太陽活動と密接な関係がある、ってウィキに書いてあった」
「丸読みか。そうそう、そういうことだよ。毎日、記録をつけるとな。黒点が日々増減しているのがわかるわけ。で、太陽が活動期に入っているとか、静穏期なのかとか、判断するの。でもまあ、それには長い年月が必要なんだけどな」
「でもそれがさあ、人間となんの関係があるの?」
「関係はある」
「なにに?」
「気候や人間活動などの他に、経済にも影響があるんじゃないか、という見方もある」
「ふうん……え、ちょっと待て、経済⁉︎」
「太陽が活発になればなるほど、金持ちが増えるってな」
ふいに、物理室のドアがガラッと開いて、ユリがちーっすと言って入ってきた。
「黒点、描いた?」
「描いたー。今日は太陽の黒点ちゃんの影響で、おやつなしの、しかも貧乏インスタントだってー」
ぶっと、マッチャンが吹いた。
「そりゃお前、それは完全に、俺の給料日の影響だ」
ハテナ顔のユリを置いて、私とマッチャンは笑い合った。
ユリにマグカップを差し出す。中にはすでにインスタントコーヒーの粉が入れてあり、ユリは窓際に置いてある電気ポットで、マグにお湯を入れた。
マッチャンが添削の赤ペンを走らせる、リズミカルに丸をつけていくその大きな手。ゴツくて、指に毛が生えていて、私たち以外の生徒もゴリラみたいと密かに囁いている手だ。
頬づえをつきながら、そんなマッチャンの手をぼんやりと見ていると、ユリがカバンから筆箱を出しながら、黒点観察ノートの、今日の日付のページを開けた。
「ねえカノン。あれ、どうする? 文化祭さあ。またプラネタリウムやる?」
唐突に振られて、私は正気に戻るタイミングを失ってしまったのだろう。
思いも寄らぬ失言をしてしまった。
「ああ? うん、そだね。それで良いんじゃない? ねえ、お父さ、ん」
言い切ってから、さあっと血の気が引いた。居もしない父親と、マッチャンを間違えるなんて。ううん、間違えたんじゃない、もちろん言い間違えただけだ。
冷静さを取り戻そうとして、取り戻せなかった。誤魔化そうと、取り繕おうとする意思はあって、しかもその口は半開きのくせに、何の音も発してくれない。
ユリも何を言っていいかわからない困惑顔を浮かべていて。そんな固まる二人を置いて、マッチャンが真っ先に声を出した。
「なんだ堂本。まあ、俺を母ちゃんと言わなかっただけ、褒めてやろう」
マッチャンはうちが母子家庭だということを知っている。
実は、ユリのマッチャンに対する口が軽すぎて、「うち、母子なんで。ちなみにカノンちもですー」の一言で、天文部入部の自己紹介は終わったという経緯もあって。
それにしても、くっそやっちまっったあ、と頭を抱える前に、マッチャンがフォローを入れてくれて良かった。その雰囲気で、私はホッと胸を撫で下ろしたのだ。
「間違えただけだっつーの。しかもマッチャンがお母さんだなんて、毛深すぎてあり得んけど」
冷たい言い草になってしまったが、それでもマッチャンはワークを添削し続け、そして軽口を続けてくれる。
「おいー、毛の量は関係ないだろー」
それから、マイペースのユリがようやく口を開いた。
「マッチャンって、娘さん、二人いたよね?」
「ああ、お前らと違って、もういい歳だけどな」
「二人とも結婚してるの?」
「ああ、してる」
世間話の流れになり、さらにホッとして。良かった、と思う。
私の本当の父親は他の女との浮気を繰り返し、母をボロボロにしてから去っていった。だから、父親という存在に何の光も見出せず、しかも『お父さん』なんて言葉、死んでも口にしたくなかったのに。
私は次に、父親が母に向かって「女はお前だけじゃねえ」という捨て台詞を吐いて出ていった場面を思い出してしまった。胸くその悪い思いと悔しさ苛立ち、哀しさが同時にやってきて、ぎりぎりと胸を締め上げる。
「……だけどなあ、」
はっ、とした。
マッチャンの声で、現実に引き戻される。マッチャンは相変わらず、滑らかにペンを走らせながら、そして世間話を続けるように言った。
「上の娘に子どもができなくってなあ」
孫。
軽いはずの世間話が、船の錨でもぶら下がったかのように、一気に重くなる。
今度は私が何を言っていいのかわからず、言いあぐねていると、マッチャンは笑って言った。
「だからまあ、『サザエさん』みたいな家は、そうそう無いってことだよ」
私は、スローモーションのようにゆっくりと顔を上げる。ユリと目が合い、そしてそのまま見つめ合う。
「それになあ、俺はこうやってお前らの勉強を見てやれるっていうの、案外楽しんでるかもだ。だからやっぱお前らは、俺の娘みたいなもんなのかもしれんなあ」
マッチャンは添削を終わらすと、インスタントコーヒーの入ったマグを取った。こくっと一口飲む。
「だから、明日のテストは満点取れよ」
鼻の奥がつんときた。けれどそれを隠すように、私は笑って言った。
「じゃあ、テスト問題見せて」
「やだ」
「ちょっとだけっ」
そんなやり取りをしながら、ユリを見る。ユリは鼻をすすりながら、黒点観察ノートに何かを描いている。たぶんあれだ。ユリお得意の、マッチャンの似顔絵。たぶんだけど、ゴリラみたいなヤツ、じゃない方。
「ヒントだけでもお願い」
「バカか」
「お願いっっ」
私は心から笑いながら、コーヒーを口にした。
✳︎✳︎✳︎
「じゃあねえ、バイバイー」
「またねー……ーえぇ?」
ユリが手を上げた姿で振り返り、そして彫刻のように固まっている。
「ちょ、カノン、どこ行くの?」
「んー、スーパー寄ってくー」
「買い物ー?」
学校帰り、私は近所を流れる川に架かる橋を渡ってから、団地の入口へと入っていく。けれど、今日は。橋を渡らず、これまたユリとは反対方向に足が向いているものだから、ユリは訝しげな顔を浮かべながら、私の横へと小走りで駆けてきた。
「うん、まあ。シチュー、作ってみようかなって」
「そうなんだ、私も一緒に行くー」
ユリが足元に転がっていた小石を蹴った。蹴った小石はコロコロと、私たちの歩く先を転がっていく。
「ねえ、私も一緒に作ってあげよっか」
ユリが声を落として言った。
「ううん、ユリのおばあちゃんに教えてもらったし。自分で作れるよ。簡単簡単」
「ふはは、作ったことないくせにい」
私は転がり留まった小石を、ひょいっと軽く跨いだ。
「だって、料理なんてそんなもんでしょ」
「だねー」
いつもは寂寞の思いしか抱えない夕暮れの空が、今日はほわっと暖かい電気ストーブのオレンジに見える。そんな空に包まれて、煌々と輝く一番星。
「宵の明星だ」
「綺麗だね」
私はユリにはわからないように、そのチカチカと輝く星に向かって、大きく息を吸い込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「冷めてるじゃない」
「うん、待って。今あっためるから」
両手に持っている重そうなカバンを、どんっとリビングのソファの横に置いてから、母は鍋を覗き込んだ。
「なんか、良いことでもあったの?」
その言い方っっと思いながらも、コンロの火をつける。
「別に。時間があったから、……作ってみただけ」
「そうなの。ありがとね。疲れてたから、助かっちゃった」
ちょっとだけ浮上する。
私は白いシチューを、おたまでクルクルとかき混ぜながら、どうってことなかったな、と思った。
野菜は全部、ピーラーで皮を剥いたし、あとは適当に切って、ちょっと炒めて、分量の水で煮込んだだけ。ユリのおばあちゃんが言った通りだ。
(これくらいなら、たまには作ってもいいかも)
シチューを食べながら、「カノンが作ってくれたから、片付けはママがやるね」そう言いながら、ビールなんか飲んでいる。
大人の上機嫌とはこういうもんなのか。それこそ職場で良いことがあったのかも知れないし、帰ったらもう夜ご飯ができていて、ご飯を作らなくて良いという開放感からなのかも知れないけど。
母はシチューを二杯お代わりし、ビールも二本飲んだ。鼻歌を歌いながら、皿を洗っている。
わからないけど、なんとなく。私も嬉しかったのかもしれない。
いつもよりは長くリビングに居て、しばらくテレビを見てから二階へと上がった。
そして、いつも通り窓を全開にして、目一杯空気を吸い込む。
澄んだ夜空を、大きく開けた口で、喰らう。
大口で食べる夜の空は、私の胸を同じように清くしてくれる気がして。
ユリも天文部に入ると決めた時、心が洗われるとかなんとか、同じようなことを言っていたから、きっと夜空にはそんな効能(?)みたいなものがあるのだろうと思う。
「マッチャンが顧問ー⁉ マジかー、ゴリラかー、どうしよー︎」
入部を迷っていたユリの、心底嫌そうな顔を思い出すと、今でも笑えてきてしまう。今ではもう、すっかりマッチャンに懐いていて、「マッチャン、その指の毛だけど。わたくしめが処理してあげましょうか?」と言って、ガムテを持ってニヤニヤしたりして、マッチャンを翻弄したりしているけれど。
私はもう一度、大きく深呼吸をした。腕を広げ、空に散らばっている星を、手で掻き集めて口に入れる。
そして、あーあ今年も文化祭でプラネタリウムやるかあー、と言いながら、窓枠に手をついて、身を乗り出した。
すると。
庭にある物干し竿、部屋から漏れる薄明かりの元、取り込むのを忘れて、すっかり冷えているであろう洗濯物を次々にカゴに放り投げる、母の姿が見えた。
げ、しまった忘れてたっと思う間もなく、母が声を上げる。
「カノン、あんたまたプラネタやるんだったら、今度はちゃんと懐中電灯持っていきなさいよっ」
昨年の失敗を大声で晒してから、母はカゴを抱えて、忙しそうに家の中へと入っていった。よく見ると、庭用のスリッパの片方が、転げて逆さになっている。
私はなぜか、そのスリッパのようにいきなり転げ回りたくなって、ベッドの上にダイブした。散々ベッドでごろごろしてから、大の字になって天井を見る。
目を瞑ると、浮かんでくるのは、夜空。
そう、私は夜空の星を繋いでいって、新入部員歓迎ってのと、今年もプラネタリウムやります、ってのと、そんな大きな看板を宇宙に浮かべながら、にやりと笑った。