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香月記 前半  作者: 井村仁美
1/1

天運飯店を巡ってひと悶着

 凌央の国は肥沃な土地に恵まれた豊かな国だったが、その北に位置する余の国は日照時間が少ないため、農作物の出来も良くなく、その代わりの産業も発達していなかったことから、全体的に庶民の生活は貧しかった。そのために打ち出した政策が、凌央を我が物にすることだった。

 

 その戦争に巻き込まれた香月は、故郷を捨てざるを得なくなり、凌央の首都で父が営んでいた天運飯店を継ぐことになる。



     1



「ありがとうございました」

 澄んだ声が、片手をあげて満足そうに店を出ていく客に向かってかけられる。

 ここは天運飯店。大陸の中央に位置する凌央の国の首都錦凌に、二か月前に開かれたばかりの店だ。が――。

「いらっしゃいませ」

 黎香月は閉じたと思った扉がまた開かれ、新しい客が姿を現すと満面の笑みを浮かべ、挨拶をする。そして店内を見渡して、何とか空いている奥の席に客を案内した。二十席ある卓はすべて満席だ。

「相変わらず香月ちゃんのところは流行っているね」

 案内された客は四十代半ばのやもめである。だからだろうが、十五、六歳が適齢期のこの時代、二十七歳というれっきとした行き遅れの香月のことも「ちゃん」呼ばわりしてくれる。天運飯店が開店した当時から通ってきてくれている常連だ。

 そう。この客の言う通り、天運飯店は非常に流行っている店に成長した。最初にこの地で店を開店することを決めたときは、まさかここまで流行るとは、香月本人も思っていなかった。

「おかげさまで。宗さんがご贔屓にしてくださるからですわ」

「おや、嬉しいことを言っておくれだね。それなら今度、どうだい。花見にでも一緒に」

 そう言って宗が、卓のすぐ近い場所に置かれていた香月の手に手を伸ばそうとした瞬間、卓の反対側から鞘に納まった長剣が宗の手を遮った。

「今日は何になさいますか。豚肉の煮つけがお勧めですよ」

 低い声で脅すように言うと、飛燕は宗を睨め付けた。まだ十七歳の飛燕だったが、剣の扱いは一人前である。

 それは過去、年増とはいえ、美貌を誇る香月に言い寄ってきたあまたのやもめたちが、揃いも揃って飛燕に痛い目にあっているのを、宗も見てきて承知している。今日は店を見回したとき、飛燕の姿がないので、これ幸いとばかりに色気を出したのがまずかった。飛燕がそうやすやすと隙を見せるはずもなく――。

「あはは、そうだね。それじゃその煮つけをもらおうか」

 宗は冷や汗をかきながら、今日のお勧めを注文する。するとようやく飛燕は長剣を収めた。

「喜んで」

「ありがとうございます。豚肉の煮つけ一人前!」

 香月は宗に礼を言うと、厨房に向かって注文をする。そして店が満席になったのをもう一度確認すると、店は飛燕に任せて、香月も厨房へと入っていった。とても厨房にいる万南一人ではさばききれないからだ。

 香月が厨房へ入っていくと、案の定万南は鍋を一人でいくつも使いながら、汗まみれになっていた。

「ああ、香月さん」

「一人にしてごめんなさいね。私も手伝うから」

 香月の肌によく似合う空色の襦裙の上着の袖をまくりあげると、万南が早速頼んでくる。

「それじゃ、豚肉の煮つけと鶏肉と香菜の炒め、お願いします」

「わかったわ」

 万南に言われるがまま、香月は紐で縛っている豚の塊肉を鍋でぐつぐつ煮込み、鶏肉と香菜を手際よく炒めていく。その間にもかまどから人数分の飯をよそおう。

「今日も忙しいですね」

「そうね。ありがたいことだわ」

「店ではひと悶着あったみたいですけど」

 汁物に入れる団子をこねながら、万南がそれとなく聞いてくる。

「万南にも聞こえた? ごめんなさいね。宗さんがちょっとね」

 香月が苦笑すると、万南もつられたように苦笑いをする。

「あの人も本当に懲りないっていうか、香月さんも罪な人ですよ」

「私? 別に何もしていないわよ」

「……そうなんですけどね」

 万南は心の中でため息をついた。

 天運飯店が流行っているのは、もちろん早い安い美味いの三拍子が揃った食べ物屋であることは確かだが、一番大きなポイントは女将である香月にある。きっぷの良さに加えて、年増ながら、めったに見ることがないような美貌を保っているのだ。

 もっとも当の本人である香月はそのことには気づいていなかった。香月にしてみれば、美貌よりも自分の年齢のほうが大きなマイナスであって、年齢から醸し出されるしっとりとした雰囲気がやもめたち常連をとらえて離さないとは考えたこともなかった。いくら美人だと言われても、彼女の心には響かなかった。どちらかといえば、年増なので美人だと言ってくれているとしか思えていなかった。

 だからこそ、店の給仕兼護衛でもある飛燕は大変なのだが。

「よし、できた。持っていくわね」

 そんな飛燕や万南の思惑を知る由もなく、香月は豚の煮物を入れた皿と、鶏肉と香味野菜の炒めものを載せた皿を持つと、厨房を出て行った。



 凌央の国は大陸のほぼ中央に位置する国で、肥沃の土地に恵まれていた。そのためその北に位置し、農作物の出来があまりよくなく、全体的に庶民の暮らしが貧しい余の国から攻め込まれることが多々あった。

 香月の父、黎向陽は元軍人である。しかもただの軍人ではなかった。平民の出ながら三十年前に起きた余国との戦で数々の手柄を立て、若いながらに黎将軍にまで躍進した人物だった。

凌央の国の歴史でも、黎将軍といえば知らない人はいないとまで言われていた。子供たちが勉学を習いに行く書館の授業でも教わるぐらいの傑出した軍人である。最後は北の国境を守る将軍として、軍を統率した。

 が、その最後の戦で腕を負傷し、剣を振るえなくなってしまった。それでも戦術面やそのほか、いくらでも軍人として生き残っていく道があり、実際彼と戦を共にした先輩後輩同輩、ともに彼を引き留めた。

だが、香月の父は根っからの軍人だった。剣が振るえなくなってしまった自分が軍にいることを良しとしなかった。彼は将軍の地位を返上して退役した。

 その後、香月の母親・恵藍と結婚をし、戦をしたためよく知っている凌央の国の北の国境すぐのところに新居を構えた。そして始めたのが天運飯店だったのだ。


 香月が生まれ、そして十歳になったころ、近所の若夫婦が亡くなった。一人息子の飛燕を残して。

馬車で買い出しに行った際、ほかの馬車が使っている馬が急に暴れ始めて、飛燕の両親が乗った馬車に突進してきたのだった。そして避けきれずに二人は亡くなった。

 近所に住み、普段から仲良くしていた恵藍は、ちょうど昼寝をしている飛燕を預かっていた。

「身寄りがないんだろう?」

 葬式の席で、竹で編んだ揺りかごの中で無邪気に笑っている飛燕を見て、向陽は妻に問うた。

「そうなのよね。聞いていた話では二人とも孤児で、同じ孤児院で育って、それで結婚したらしいの」

「そうか。……おまえはどう思う?」

「どう思うって、向陽。もう決めたんでしょう?」

「まあそうだが。引き取るともなれば、実際おまえに負担が増すだろう」

 恵藍は家事をして、天運飯店の手伝いをして、牛の世話をして、香月を育てている。今でもいっぱいいっぱいの生活である。向陽もなるべく手伝えるところは手伝ったが、やはり店があるのでそちらを中心として生活をしている以上、なかなか家事の細かいところまでは手が届かなかった。

 香月が十歳になり、自分のことは自分でできるようになり、あまつさえ母親の手伝いをし始めてくれたことが、二人の仕事を少し楽にし始めてくれていた。ようやく少し息をつけるようになったのだ。

 そこへ飛燕を引き取るということになれば、またしても家事が倍増する。というよりも、赤ん坊を育てるのはひと手間どころの騒ぎではないのだ。

「でもねぇ。これで私たちが引き取らなかったら、この子の行く末がねぇ」

 寺あたりで育てられた後は、労働力を必要としている家に引き取られ、家畜のように働かせられるのが目に見えている。

 飛燕の亡くなった両親は、若いが気立てがよく、未来に夢を持っていた。一粒種の飛燕をそれは可愛がり、将来は向陽のように武人として立派になってもらいたいとよく言っていたものだった。

 どうしたものか――決めているようで、今一つ決められない現状があった。すると――。

「飛燕、うちに来るんでしょう? 私、弟がずっとほしかったの」

 それはまるで天啓のように、無邪気な声が向陽たちの後ろから聞こえてきた。

香月だった。

「香月?」

「父さん、大丈夫。母さんが忙しいときは、私が飛燕の面倒を見るから。だってお姉ちゃんになるんだもの」

 目をキラキラ輝かせて言う香月の姿は、親バカと言われてもいい。それこそ天女のように見えたものだった。

 こうして飛燕は、向陽たちが引き取り、言葉通り香月がよく面倒を見ながら成長していったのだ。まるで本当の親子四人といっても過言ではなく、仲良く皆で店を切り盛りしていた。特に向陽は、飛燕を自分の息子のように可愛がり、飛燕の実の父が望んだように、彼に剣を仕込んだ。


 国のほうも安定していた。三十年前に起こった余国との戦争は、その後和平協定が結ばれ、平和が訪れていた。もともと地続きの余国と凌央の国では人も物資も行き来が盛んになり、人々の生活にゆとりができ、文化も発達した。凌央の国民も余の国の国民も、この時代が長く続くことを切に願った。


 だがそれも長くは続かなかった。凌央の国の皇帝が年を取り、病気がちになってから、余の国が再び凌央の国に色気を見せ始めたのだ。たちまち両国の間にきな臭さが立ち込め始めた。

 そしてそのことは、直接香月の運命にも影響することになった。

 前年の十五歳になったばかりの時、香月は国境を越えたお隣さんである余国の一歳年上の幼馴染み、武官候補生の伯栄西と婚約をしていた。

 余の国の人間だからとか、凌央の国の人間だからとか、幼い二人には関係なかった。小さい頃から一緒に遊び、勉強し、気が付いたら目の前に相手がいた。好ましいと思う相手が。

 どちらの家から、ということもなく婚約は当たり前のように執り行われた。

 そして一年が経ち、そろそろ婚礼の話が進められようとしていた春の日にそれは起きた。


「香月、ちょっといらっしゃい」

 牛の乳を搾っていた香月は、母に呼ばれた。いつもより緊張した声音だったように思えるのは、香月の気のせいだったのだろうか。

「着替えてね」

「は~い」

 牛乳を入れた鉄の搾乳缶を転がしながら台所の裏手に置くと、香月は裏口から家に入った。

(何かしら)

 母の口調と言い、わざわざ着替えるように言われたことと言い、いったい何事が起ったのだろう。

 香月は自分の部屋へ行く前に、ちらりと居間を見た。すると何のことはない。伯栄西とその両親がやってきているのだった。三人とも正式な袍を着てやってきていた。

(栄西だわ!)

 その瞬間、香月の胸が躍った。栄西に会うのは二か月ぶりだった。余国の要請で、軍事訓練に出ていたのだ。

(帰ってきたんだわ)

 香月は袖がたっぷりとってあるよそ行き用の桃色の曲裾深衣を着込み、向陽が作ってくれた木箱にしまっている髪飾りを、大事そうに取り出した。

軍事訓練に行く前、栄西が、

「これ、やるよ」

と、ちょっとぶっきらぼうな口調で渡してくれた、薄紅の花模様が描かれている髪飾りだった。

「どうしたの。これ?」

 栄西は人がいいが、ちょっと言葉足らずのところがある。今も「言わなくてもわかるだろう」という雰囲気を体中から醸し出していた。しかしあいにく香月は言ってくれないとわからない人間なのだ。そして結局は栄西が雰囲気負けする。

「……昨日、父さんと軍事訓練の札をもらいに町へ行ってきたんだ。そうしたらそれが売っていたから。……似合うと思ったんだ」

 最後の言葉はぼそぼそとした話し方で、よく聞き取れなかった。

「え? 何? 何て言ったの?」

「だから! おまえに似合うと思ったんだよ!」

 栄西は顔を真っ赤にして告白した。そしてそれを聞いて、香月もまた顔を赤らめたのだった。

 そんなほほえましい由来のある髪飾りである。香月は念入りに髪を整えると、慎重な手つきで髪飾りをつけ、久しぶりに会う婚約者とその両親に恥ずかしくない身なりを整えた。

「これで良し」

 鏡に映った自分の姿に満足してうなずくと、香月は踊りだしたくなるような気持ちを抑えて、居間に入っていった。

「お久しぶりです」

 皆の視線が香月に集中した。それに戸惑いつつも、ちょっと恥じらいながら微笑むと、栄西の母が突然泣き出した。

「う、ううう、う……」

「おば様? どうかなさったんですか?」

 その言葉に栄西の母は顔を上げ、香月の姿を注視した。そして次には横に座っている夫の胸に顔をうずめたのだ。

「あ、あああ、どうしてこんなこと……。ひどいわ。あともうちょっとで……それなのに、ううう、う、なんとことなの、あの――」

 栄西の母は呪詛の言葉を発しようとしていた。それを向陽が鋭く止めた。

「奥さん、それ以上は……!」

「あ、ああ、ごめんなさい。私ったら……。私たち以上に辛い思いをするのは当人たちなのに」

 栄西の母はぬぐってもぬぐい切れない涙を拭きながら、香月と栄西を交互に見やった。

(え? 何? どういうこと?)

 栄西の母の取り乱しようは尋常ではなかった。いつもはそんな人ではない。暖かくて優しくてしっかりしていて、そして駄目なことは駄目ときっちりと注意できる常識的な人である。

 しかしよく見ると、恵藍も涙ぐんでいた。栄西の父も向陽も顔を曇らせており、それよりなにより一番気がかりだったのは、栄西だった。

 二か月ぶりに会った婚約者に一言もなく、一度もこちらを見ようともせず、俯いたままで、膝の上に置かれた手は両方ともきつく握られていた。

「栄西……あの……」

 久しぶりに話しかけようとした言葉は父に遮られた。

「香月、栄西君との話はなかったことになった」

「え……?」

 聞き間違えかと思った。けれどもそうではなかった。向陽は振り返った娘に向かい、小さく頭を振って見せた。

「どうして……? なんで?」

 だってもうすぐ結婚だって、この間母さんだって言っていたじゃない。

 それなのになぜ栄西との婚礼話が急になくなってしまうのか。香月にはさっぱりわからなかった。

「申し訳ない。香月ちゃん。まさか我々もこんな事態になるとは思っていなかった」

 栄西の父親が香月に頭を下げる。香月はその態度にも驚いた。栄西の父が年若い香月に頭を下げるなんてことは、あってはなかったことだ。

 戸惑う香月に、向陽が言葉をかけた。

「香月、凌央の国と余国の間が微妙な関係になってきていることは、おまえも気づいていただろう?」

「あ、うん。それは」

 十六歳の香月にも、おぼろげながらそれまでと両国の関係が変わってきていたことはわかっていた。以前は通行手形がなくても両国を行き来できたのに、この頃では村長、下手をすると郡太守の手形がなければ通行することもかなわなくなっていた。

 けれどそれと香月たちのこととどう関係しているのか。悲しいかな、そこはまだ香月は子供だった。

「それでな。数日前、両国の間での取り決めが発表されたんだ。余国と凌央国の間での新たな婚姻は禁止すると。国益に反するってな」

「え? 何、それ……。国益に反するって」

「つまりだ。これから先、もしかすると戦争になるかもしれないから、敵国同士での親戚を作るな――そういうことだ!」

「そんな! だって! 栄西!」

 たまらず香月は婚約者の――いや、元婚約者になるのか。そんなことがちらと頭をかすめながら、名前を呼んだ。呼ばずにはいられなかった。

 すると伯栄西は、十人の娘がすれ違えばほぼ九人は確実に振り返るだろうという男前の顔を歪めたまま立ち上がると、座っている親たちの前を大股で通り、震えている香月の手を掴むと、そのまま家を出た。

「栄西!」

 栄西の父が呼んでいたが、栄西は止まらなかった。

 香月の手を掴んだまま歩く栄西の足取りは早かった。天運飯店の前を通り、大通りを抜けると林が林立している。その中にどんどん入っていった。どこまで行くつもりなのか本人もわからない、そんな形相だった。

「痛い! 栄西!」

 しかし力任せに握られた手の痛みに耐えかねて香月が悲鳴を上げると、栄西はようやく我に返ったようだった。足が止まり、掴んでいた香月の手を離す。

「すまない」

 それが掴んでいた手のことなのか、それとも駄目になってしまった婚約のことなのか、香月には判断できなかった。

 とりあえず真偽のほどを聞いてみる。

「栄西、本当なの。さっき父さんが言っていたこと」

「本当だ」

「そんな! それじゃあ私たち結婚できないの?」

「そうだ」

 淡々とした答えしかよこさない元婚約者の態度に、香月の怒りが爆発する。

「何よ、栄西。『本当だ』とか『そうだ』しか言わないで! 平気なの? 結婚駄目になっちゃったのに、なんとも思わないの?」

「そんなわけないだろう!」 

 ようやく初めて栄西は本音をぶちまけた。

「俺だって思ったよ! なんでこんなひどいことできるんだって! だって、だって俺は……軍事訓練が終わったら、おまえと祝言を上げるつもりでいたんだぞ! それなのに軍事訓練の最終日になって、あんな発表があってさ。目の前が真っ暗になったよ。何かの間違いじゃないかって、大尉にまで聞きにいったんだ。そうしたら間違いないって言われて。俺が凌央の国の子と――おまえと婚約しているのは知っていたから、気の毒そうな顔をされてさ。……おまえにどういえば言いのかずっと考えてた。でも何にも浮かばなくて……」

「栄西……」

「こんなことになるなら、軍事訓練に行く前に祝言を上げておけばよかったよ。そうすれば今度の発表だって関係なかったし。祝言を待つ必要なんてどこにもなかったのに、どうして俺は肝心な時にいつも!」

 白い内衣に赤い袍が映える。

 綺麗だ。怒りに打ち震えている栄西は、香月が今まで見た中で一番輝いているように思えた。

「でも、もう遅いもんな。今更どうすることもできないし。だけどどうして俺たち、たった一本の線で分けられなけりゃならないんだ? 考えてみればひどい話だよな。ついこの間までは、国境なんてないに等しかったのに、今は手を伸ばしてもすぐ掴めるところにいるのに、掴んじゃいけないなんてさ」

「……うん……」

 不意に香月の目にも涙が浮かんできた。栄西の言葉がどんどん染み込んできて、現実が立ちはだかってくる。そうだ。結婚どころではない。もう今までのように、気軽に会うことさえできないのだ。

 香月が理解したのが分かったのだろう。栄西はそれまでとは打って変わって静かな口調で言った。

「幸せになるんだぞ、香月。おまえにはその資格があるんだから。俺のことなんて忘れて、凌央の国の一番いい男を捕まえろよ」

「栄西、あんた何言ってんのよ。そんなことできるわけないでしょ」

「できるよ、香月。おまえは自分で思っている以上にいい女だ。これからもっと綺麗になって、きっと凌央の国の男たちがみんなおまえに夢中になる」

「馬鹿言ってる……」

 香月の言葉を遮るように、栄西は香月の体をきつく抱きしめた。

「栄西――」

「……本当のことさ。だから香月、幸せになれよ。幸せになってくれ……」

 そう言うと、栄西はこれが本当に最後だというように、想いのすべてを吐き出すようにもう一度香月をきつく抱きしめ――香月から身体を離した。そして香月の顔を一瞬見つめると、踵を返し、香月の家ではなく、自分の家へ走っていった。

余国の国境線が引いてある先の自分の家へ――。


 それから向陽の言っていた通りのことが始まった。国境といっても、香月の家と栄西の家の間には、普通の家と家の区切りを示す柵と線が引かれているだけだったが、香月の婚約が破談になった二か月後には、両家の間には高い塀が建てられることになった。

 しかも郡太守同士の取り決めなどではなく、こちら側は凌央国の軍隊の一個小隊がやってきて、栄西の家の方は余国のこれまた軍隊がやってきて、同じように塀を建てていった。物々しいどころの騒ぎではない。

 もうこれで、今まで普通にしていた栄西の母と恵藍のちょっとしたおしゃべりなどというものは消え去ってしまった。それどころか、相手の家がどういう状態か、まるでわらなくなってしまった。

 そしてくすぶり続けた戦の火種は、五年前、凌央の国が若い皇帝を迎えたことで、真っ赤に燃え盛った。余の国は、まだ若く戦争経験の少ない皇帝が凌央の国を統べたことを好機と捉えた。両国は三十年ぶりに正式な戦争状態に突入した。

  

 戦が始まって五か月が過ぎた。戦は始まっているものの、まだ軍隊同士の衝突でしかなく、国民の生活はかろうじて普段通りのままだった。天運飯店の営業も変わらず営まれていた。もっともお代は金でなく、野菜や肉、魚といった物々交換が多くなってきていたが。

「いつまで続くのかねぇ」

 そう呟くのは、近所で野良仕事をして、八千菊という食用の菜っ葉を作り、物々交換で食事に来ている初老の男だった。

「そうですねえ。本当に商売あがったりで困ってしまいますよ」

「本当だよな。――そういえば、知っているかい」

「何ですか?」

 客はさすがに辺りを見回すと、声を潜めて向陽に言った。

「隣の、っていってももう国境隣になっちまったが。伯家の息子――栄西って言ったよな。この間の加永台の戦いで死んだとさ」

 高い塀ができるまで、協定条約中はほとんど国境などなく過ごしてきた村である。村人同士の動きは筒抜けだったので、香月が伯栄西と婚約していたのは周知の事実だった。だから男は親切心で教えてくれたに違いない。

けれど――。

 ちょうど紹興酒を運んできた香月は、その言葉を耳にした途端、盆ごと酒を床に落としてしまった。

「香月!」

「あ、ごめんなさい、父さん。ごめんなさい、おじさん。すぐに代わりのお酒を持ってきますから」

 うろたえながらも盆と零れてしまった紹興酒の始末をしながら香月が謝ると、客はひどく気まずい顔をした。

「いや、こっちこそ余計な話をしちまって。すまないね、向陽さん、香月ちゃん」

「いえ。教えていただいてありがとうございました」

 律儀に礼を言う娘を、さすがに向陽は心配そうに見つめる。

「香月」

「ごめん、父さん。私ちょっと家に帰ってきていいかしら。紹興酒が服にかかっちゃって」

 見れば襦裙の裾の部分に酒の染みが広がっていた。

「そうだな。着替えておいで」

「はい。それじゃおじさん」

 香月は愛想よく客に挨拶をすると、天運飯店の扉を開いて閉めた。と、同時に涙が溢れ出すのを止めることができなかった。

(栄西、栄西、栄西!)

 栄西が死んだ。死んでしまった。

 香月は客に見られないように、家に向かって走り出す。

 栄西と会ったのは、婚約解消の日が最後だった。あれからどうしていたのか。消息はちっとも入ってこなくなってしまっていた。

 それなのに、こんな形でこんな風に知らされるとは。

すでに忘れたはずだった。忘れなければいけないはずだった。けれどもそんな簡単に忘れられるはずもなく……。

香月は家にたどり着くと自室へ行き、寝台に横たわって泣いた。

「香月? どうしたの?」

 何も知らない恵藍が、すごい勢いで二階へ上がり嗚咽をしている娘を、扉越しに心配そうに尋ねてくる。

 だが香月に答えられる余裕などなかった。泣いて泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣き崩れていた。


 余国が思ったほど、簡単に戦争は終わらなかった。凌央の国の若い皇帝は諦めるという言葉を知らなかった。戦争は戦闘状態、休戦状態を繰り返しながら五年続いた。


 そして決定打が起ったのは半年前のことだった。

寝静まっていた香月達は、いきなり馬の嘶く音に起こされた。一頭や二頭ではない。何十頭とも聞こえる馬と、そして近づいて、そして去っていく怒声。

 若い頃黎将軍に上り詰めた向陽は、それが軍隊の音だということをすぐに理解した。そして階下からちろちろと燃え上がり始めた火の手を目にすると、余国の軍が通りしな家に火を放って行ったことを確認した。

「早く起きろ! 急げ! 煙にやられるぞ!」

 向陽に急かされながら、香月と恵藍、飛燕は急いで階段を下りていく。火の手はすぐ目の前まで迫ってきていた。恵藍は口元を抑えながら、戦慣れしている夫に訝し気に尋ねた。

「どうしてこの辺に現れたの? 軍隊もこの辺りには駐屯していないのに」

「だからだろう」

 これまでは軍隊と軍隊の戦いだった。だが余の国の想像以上に、凌央の国は応戦していた。このままではらちが明かない。余国はそう判断したに違いない。だから民間人のいる村に狙いを定めたのだ。余国もかなり焦り始めたということを示していた。

「飛燕! これを持っていけ」

 向陽が投げた長剣を、飛燕は軽々と受け止めた。向陽が渡した剣は、向陽が黎将軍時代に愛用していた物だった。

「父さん、でもこれ父さんの大事にしている剣じゃないか」

「だから持っていろ」

 幼いころから向陽に剣を仕込まれてきた飛燕は、この頃すでに二本に一本は向陽から勝ち星を取るようになっていた。

「さあ、早く!」

 香月たちはなんとか火の勢いにまかれまいと、袖で口元を抑えて、出口に向かった。家の向かいには天運飯店が建ててあった。そこへ逃げれば――。

 だが何とか家から逃げ出した香月たちが目にしたものは、真っ赤に燃えている天運飯店だった。

「店が!」

 余国の軍隊は、国境近くに住む凌央の国の住人を根絶やしにするつもりらしかった。四方八方、香月の視界に入ってくる建物は、どこも火に包まれていた。

「あいつら……!」

 向陽の瞳に怒りの炎が燃え盛る。

「ともかく火を消さなけりゃ、この辺りは全滅だ。それにまだ事態に気づいていない奴もいるだろう。声をかけて回らないと」

「私も行くわ」

 恵藍が言うと、向陽は反対した。

「駄目だ。香月たちを連れて早く逃げろ。火の回りが予想以上に早い」

「何言っているの。まだ寝ている人もいるかもしれないのよ。見過ごせないわ」

「恵藍!」

「あなた。私は黎元将軍の妻よ。自分のやるべきことをやらないで、このまま子供たちと逃げろって言うの?」

 そう言う恵藍は誇りで満ち溢れていた。妻を眩しそうに眇めた目で見ると、向陽は頷いた。

「わかった。二人で村人たちに声をかけにいこう」

「ええ」

 恵藍が答えると、向陽は首にかけていた木の札を外すと、香月の首にかけた。

「父さん?」

「これはこの土地の所有を示す権利符だ。もし何かあったら、これを示せ。そうすればここいら一帯がうちのものだと証明してくれる」

「いやよ、父さん。こんなの受け取れないわ」

 まるで形見分けのようではないか。

 けれども向陽は安心させるように笑みを浮かべた。

「いいから。万が一の時のためにだ。そう深く考えるんじゃない。ともかくおまえたちはここから逃げなさい。父さんは母さんとこの辺り一帯の家に声をかけたら、すぐにおまえたちに合流する。そうだな。村の南にある高坊の岩の前で落ち合おう。あそこなら他に建物もないし、人も住んでいないから余国の軍隊もやってこないだろう」

「わかったわ」

「うん」

「それじゃあ、気を付けるんだぞ」

「気を付けてね」

 それが向陽と恵藍を見た最後だった。


 香月と飛燕が高坊の岩の前でいくら待っても、向陽も恵藍も姿を現さなかった。向陽と恵藍に起こされて、ここに逃げるように誘導されたというほかの村人たちはわらわらと集まってきていた。皆、自分たちの村が焼けていくのを無言で見守っていた。何も言葉が出なかった。

やがて余国の軍隊が放っていった火の手もだんだん収まっていき、朝日が昇るころには香月達のいる場所からも、すでに村が鎮火しているのがわかった。

 二人はどちらともなく立ち上がると、ほかの村人たちとともに岩場から再び家に戻っていった。

 そして二人は、すっかり焼け落ちてしまった家と天運飯店と牛舎を見つけた。それからしばらく辺りを探していると、生き残った村長が香月たちを探しにやってきた。

「香月、飛燕」

「村長さん」

「こっちへ」

 促されるままに村長についていくと、焼け落ちた家のすぐ近くに、焼け焦げた二人の遺体が並んでいるのが目に入った。それが誰だか、確かめなくてもわかっていた。しっかり握られた二人の手は、最後まで二人が一緒だったことを物語っていた。

「助けようとしてくれたんだな。この家の爺さんを。だが火事の方が早かったようだ。……本当に最後まで黎将軍は……」

 村長が香月の手を握った。

「すまない。ありがとう」

「村長さん」

 香月は何といえばいいのかわからなかった。生きていてほしかった。当たり前だ。だが、他方ではこうやって死んでいったのは、実に両親らしいとも思えるのだ。

 けれども飛燕は違った。

「父さん、母さん!」

 飛燕は二人を認めると、その場に膝をつき、すぐに泣き出した。

「え、ええ……、えっ」

 しかし香月は泣けなかった。この戦争で、彼女はあまりにも多くのものを失いすぎた。心の中の感情がすっぽり抜け落ちてしまったような感じだった。

明日からどうすればいいのか。どうやって生きていけばいいのか。だが、傍らで育ての親の死を心から悼んでいる弟を目にすると、このままではいけないということだけはわかっていた。


 それからの香月はやることが多かった。近所の生き残った人たちとともに、がれきの撤去作業を行い、奇跡的に燃えずに済んだ村長の家に、生き残った村人たちは世話になりながら生活した。

だが、村は壊滅的だった。ただでさえ余国と国境を近くにしているうえに、天運飯店をはじめとする店や家が焼失し、村人も多数亡くなった。ここでもし天運飯店を再開しても、集客の見込みはなかった。

 

「飛燕、姉さん、ここを出ようと思うんだけど、どうかしら」

 天運飯店のがれきもほぼすべて運び出したある日、香月はがらんどうになった前庭で長剣を振って、腕が鈍らないようにしている飛燕に尋ねた。

 一瞬何を言われたかわからないといった顔をした飛燕だったが、次には何の迷いもなく答えた。

「いいよ」

「って飛燕、あなた本当にいいの?」

「うん。家も店も燃えちゃったしさ。父さんたちもいないし。姉さんがそうしたいなら、俺はついていくまでだよ」

 そう言うと、飛燕はまた長剣を振り下ろし、横に向けてそのまま突くといった基本動作を確認する。香月が考えていたより、ずっと冷静だった。飛燕は飛燕で思うところがあるのかもしれない。

 だが、飛燕が反対をしてこなかったことで、香月の腹は決まった。ここにいたら、もしかしたらまた軍隊に襲われるかもしれない。今まではそんなことはなかったが、これからはわからない。両国の国境が近いこの場所は危険だ。

 香月は家と天運飯店と牛舎のあった土地を売って、生まれ育ったこの村を去ることにした。向陽が渡してくれた権利符が役に立った。買いたたかれるかもしれないと思っていたが、国境近いことが幸いして、かえって高く売れた。不動産屋が軍に高く売りつけてやると息巻いていた。そううまくいくかどうかわからないが、村を守れなかった軍に対して、村人たちの苛立ちは大きかった。むろん香月とて気持ちは変わらない。

 だがともかく、思っていた以上の金額が手に入った香月は、生まれ育ったこの地を去ることにした。

「さみしくなるね」

「おばさん」

 香月の家の三軒先に住んでいた女性は、香月が生まれる前からこの地に住んでいた。向陽が死んだこの間の余国の戦闘で店を焼かれる前は、夫とともに質のいい酒を造って売っていた。

「でも、大丈夫だよ。凌将軍と恵藍さんがあんたたちのことをきっと守ってくれるから。どこへ行っても頑張るんだよ」

「……ありがとう。おばさんも元気でいてくださいね」

 香月はこうして今まで慣れ親しんだ人たちと別れを告げると、新しく買った馬車に乗り込み、飛燕とともに首都の錦凌を目指すことにした。


 最初はどこに行こうか迷ったのだが、首都には人が大勢いる。天運飯店を再開するにも、客がいなくては話にならない。

 しかも錦凌には平民だけでなく、皇帝や貴族、官僚も住んでいる。彼らを守るべく、禁軍十万人だけでなく、皇帝が直接指揮を執る親衛隊北軍虎吼隊や、亡くなってはいるが皇后の部隊南軍龍吠隊、そのほかにもいくつもの部隊が駐屯していた。ほかの土地に住むより、よほど安全と言えた。

 それに加えて皮肉な話があった。香月のいた村は余国の軍隊に火をつけられて、ほかの地域と遮断されていたから知らなかったのだが、香月の村が襲われたことにより、凌央の国は余国に対し、休戦を申し出ていたのだ。ただでさえ五年も戦が続いていることで、民たちは疲弊し始めていた。そして果たして今の皇帝を位につかせたままでいいのかという、きな臭い話も出ていた。そこへ今回の襲撃である。庶民の感情をなだめるための方策ともいえた。

 余国としては、村に火を放ったことで一定の成果を上げたため、あのまま続けたかったのだろうが、いかんせん時期が悪かった。米の収穫時期を迎えていたのだ。凌央の国の北に位置する余国にとって、米の収穫は、凌央の国と戦火を交えることよりもある意味大事なことだった。

 戦で腹をすかせる軍人たちを食べさせていかなければならないからである。

 よって、両国ともそれぞれの事情を鑑み、一時の休戦状態に入っていた。


 錦凌と上部に大きく書かれた門をくぐると、そこは凌央の国の首都錦凌である。門に入る前までは石で覆われた道が続き、辺り一面田畑が広がっていた。錦凌の回りにある田んぼには収穫を迎えようとする稲穂がたわわに実って、穂が俯いていた。やはりこの辺はまだ平和なようだ。

 錦凌に来る途中の村々では、戦争によって田畑が荒れている地域も多くみられた。そういうところでは、庶民の生活が苦しそうだった。

 けれども店をやっているところは、まだいくばくかの余裕は見られた。こう考えると、庶民の間でも貧富の差は生まれ始めているようである。

香月も人のことは言っていられない。家や店があった土地を売ってきているのだ。もし錦凌で天運飯店が失敗したら、どうやって生活をしたらいいかわからない。ましてや飛燕もいるのだ。辛い生活だけはさせたくなかった。

 馬や馬車、徒歩で錦凌の門をくぐっていく人たちの列が続いている。通行手形や、交通証、荷札書など、門番に見せる書類がいろいろあるので、どうしても時間がかかるのだ。

 香月は馬車で順番を待ちながらも、門の先に広がる錦凌の街を見やった。北とは大違いに人や馬車が行きかっている。なんてにぎやかなことか。そして視線を少し上げて、街の先を見る。この先に皇帝の住んでいる龍呼城や後宮があるのだ。そう考えると、まるで別世界のような感覚がある。

 ようやく香月達の番がやってきた。香月は村長が出してくれた通行手形を飛燕の分とともに門番に見せながら微笑みを浮かべた。

「私たち、今度こちらで食べ物屋を開こうと思うんですけど、条件の良い店舗を扱っている銀主はどちらにありますでしょう」

 香月に憂いのまなざしで見つめられた門番は、ぽーっとなって彼女を見つめ返した。それをもう一人の門番が、持っていた棒で相棒の肩をつつく。

「おい」

 つつかれて我に返った門番は、ようやく真顔に戻ると、懇切丁寧に香月に土地や家、店の売買や賃貸を扱っている銀主の場所を教えてくれた。

「それならこの道を二町ほどいった角を右に曲がりなさい。すぐ行ったところに『幸縁屋』という五代続いた銀主がある。あそこは錦凌の目抜き通りの店のほとんどを扱っているって話だから、そこへ行ってみるとよかろう」

「ありがとうございました」

 香月がにっこり微笑むと、門番は顔を赤らめながら、

「いい店が見つかることを、私も祈っておる」

 と、手まで振ってくれた。

 香月はそれに対して、また丁寧に頭を下げると、馬車を言われた方の道に向ける。飛燕はその様子を見て、文句を言った。

「姉さん、愛想よすぎだよ」

「何言っているの。村にいた時とは違うのよ。知らない人ばかりなんだから、愛想をよくしないと。愛想が悪いと、教えてくれるものも教えてくれなくなっちゃうでしょ」

 これも村を出て学んだことだ。もともと天運飯店で店番をしていたことから愛想はよかったが、飛燕と二人で錦凌に向かいながら、あちこちの村や町を通り過ぎた。その時に痛感したことは、やはり愛想の必要性だ。香月がにっこり笑いかけるのと、そうでないのでは、相手の反応に雲泥の差があるのだ。

 もっともこれは香月の大きな誤解だった。村では香月の美貌は、いつものことで、そんなに大きく取り上げられるほどのことではなかった。食事の時間に、どこかの村人の家で、「そういえば天運飯店の香月ちゃんもめっぽう綺麗になったわね」「本当だな。あれでいかず後家なんだから、凌将軍も心の底じゃあ、嘆いているだろうな」ってな具合だった。

 だが、村を出て初めて香月に会った人たちは、その美貌に驚くとともに、それこそまだ行かず後家ということに二度驚くのだった。

 それを香月は、自分の愛想の有り無しで変わるものだと勘違いし、物心ついた時から香月とずっと一緒にいた飛燕は、それが香月の美貌によるものだと冷静に分析していた。

 亡くなった香月の元婚約者、伯栄西が別れるときに言っていた言葉が、くしくも予言通りとなっていたのだった。

 飛燕はその言葉は知らなかったが、ともかく香月を守るのは自分の役目だということは自覚していた。 

 向陽が渡してくれた長剣を、何かあったらすぐに抜けるように手元に置いておく。


「ここですが、どうですか?」

 そして飛燕の分析通り、香月の微笑みにいちころになった四十代後半「幸縁屋」の五代目社長は、錦凌の目抜き通り、錦凌通りの中心にあるちょうど前も食べ物屋をやっていた空き店舗を紹介してくれた。

「まあ、ちょうどいい広さですわね」

「そうでしょう。香月さんの出された条件を聞いて、すぐにこの店が浮かびましたよ、私は」

「そうですの? さすがですわ」

「いやぁ。香月さんにそう言っていただけると」

 まるで昔からの付き合いがあるかのように、五代目社長はなれなれしく香月の名前を呼んでいた。香月もちょっとそれは早いと思ったのだが、この物件が気に入った手前、銀主の機嫌を損ねるのはまずいと踏んだ。

 世の中は愛嬌、愛嬌。

 心の中で念仏のように呟くと、香月は肝心なことを尋ねた。

「それでこちらですけど、お家賃はいかほどですの?」

「そうですね。ほかならぬ香月さんとその弟さんが開くお店ですからね。思い切ってこれでいかがでしょう」

 算盤を懐から取り出すと、球をはじいて見せる。

「あらあら、社長さん。それはちょっと厳しいですわ。うちは芸館をやるわけじゃありませんのよ。庶民の皆さんを相手にする食べ物屋ですから、単価も安いんですの。そこのところを考慮していただいて、これでいかが?」

 香月が銀主のはじいた球を、そっと動かす。すると五代目社長は目を丸くした。

「これは……。しかし半値と言われましても」

 香月は窓枠に積もったほこりを人差し指ですっと拭く。

「社長、このお店。以前入っていたお店が閉店してから、どのくらい経ちますの? 私の見たところざっと半年は経っているように思えるんですけど」

「う……それは……」

「ここで私が借りなかったら、また空いたままですわ。そうしたらお家賃はずっと入らないままですわね。私の提示した金額でも、入らないより入った方がまだましなんじゃありません? それにこうしたらどうでしょう。半年経っていますから、お店の内装は手を入れなければいけませんでしょう? 本当ならそちらにお任せするのが筋だと思うのですけど、お家賃を負けていただけるのでしたら内装はこちらでいたしますわ」

 そう言うと香月はにっこり笑った。

 しかし社長も飛燕も、香月の提案には声もなかった。家賃を半額にさせた上に、まだ内装を銀主にさせようとしていた、香月の見かけによらずたくましい商魂に、開いた口がふさがらなかった。

「いかがです?」

 香月が促すと、五代目社長は不意に大声で笑いだした。

「は、は、は!」

「社長さん?」

「いや、これは大したものだ」

 社長は腹を抱えて笑っている。

「私も大勢の人と商売をしてきましたが、あなたのように美しい方が、こんな大胆な提案をしてくるのは初めてですよ。驚きですな」

「では……?」

「いいでしょう。その大胆な提案に免じて、香月さんの条件を飲みましょう。この先、この店に借り手がつくかわかりませんからね」

 五代目社長も思い切ったものである。香月は、

「やったー!」

 と、それまでのしとやかさはどこへやら、飛燕の手を取り喜びを全身で表した。

「姉さん!」

 飛燕に注意されて、香月は我に返った。

「失礼しました。嬉しくて、つい」

「いえいえ。どういたしまして。それでこの店は、お二人で切り盛りされるのですか?」

「ああ、そうですわね。それなんですけど」

 香月は今はがらんとなっている店全体を見回した。北で天運飯店をやっていた時のことを思い出す。あの店はここより少し広くて、一家四人で切り盛りしてちょうどぐらいだった。

 この店は少なくとも卓だけで二十は置けるだろう。それと厨房がある。香月が料理を作っている間、飛燕が給仕をするとしても、二人だけでは限界がある。それは錦凌に来る道すがら、飛燕と話し合っていたことだった。

「料理人を一人雇おうかと思っています。私が北の料理が得意なので、できれば南の料理が得意な人がいいんですけど」

「なるほど。経験は?」

「少なくとも五年以上はほしいです」

 下働きや下ごしらえをするまで、どんなに短くても三年はかかる。それから料理を作らせてもらえるようになるには、五年以上は必要だった。向陽も天運飯店を開く前には、北で開かれていた名店で五年は修業したと聞いている。貴族相手の高級料理店を開くわけではない。庶民相手の食べ物屋である。だが、そこで妥協はしたくなかった。変なものを出したら、亡くなった父の名前に傷がつく。

「わかりました。それじゃあそういった料理人を探していることを、私の顧客に流しておきましょう」

「社長さん、なんて言い方なんでしょう」

「この時代です。得体のしれないものが香月さんの店に入ったら困りますからね。身元はしっかりしている方がいいに越したことはありません」

 五代目社長の好感度は急上昇である。飛燕は面白くなさそうな顔をするのを隠そうともしなかった。


 そして紹介されてやってきたのが万南だった。二十四歳の万南は、髪を後ろに引っ張って束ね、幘を被っていた。全体的に痩せていて、口数は少なかった。

 「幸縁屋」の社長によると、十四歳の時から修業をし始め、以前勤めていた店は、店主の息子が軍に配属されていた折に余国との戦いに敗れ戦死をし、それを聞いた店主がやる気を失い、店を閉めてしまったそうだ。それ以来、万南は自分に合う店を探していたらしい。腕は折り紙付きだと不動産屋の社長は付け加えた。万南が以前勤めていた店に社長も行ったことがあるということだ。

 しかし紹介されたからと言って、はいはいと雇うわけにはいかない。万南とてそうだろう。お互いに味と意気が合わなければ、一緒に働くのは難しい。

 香月は内装を新しくして、新築のように綺麗になった厨房に万南を案内すると、試験を行うことにした。

「焼売と餃子、それから饅頭をお願い」

「わかりました」

 万南は言われると、さっそく準備を始め、香月に言われた三品を作り始めた。ともかく手際が良かった。無駄な動きが一切ない。あっという間に三種類の品物を作ると、香月と飛燕の前に出して見せた。

「どうぞ」

 言われるがままに食べてみると、口の中に肉汁が溶け出し、しかも味も濃すぎず薄すぎず丁度いい。

「美味しーい」

 思わず声が出ると、万南はその時だけ嬉しそうに笑った。飛燕も香月と同感らしく、皿に出された見本を、次々と平らげていった。

「美味い! これ、父さんが作っていたのより美味いんじゃないかな」

「飛燕! 亡くなった父さんに失礼でしょ」

「あ、ごめん」

 とはいうものの、内心香月も飛燕と同じ感想だった。向陽には悪いが、やはり途中から料理人になった父と、幼いころから修業して一人前になった万南では、腕が違う。

 それを考えると、万南に自分の作った料理を食べてもらうのは勇気がいったが、避けて通れない道である。

 香月は豚肉の煮物と赤魚の蒸し料理を作って万南に出した。彼と違って、正式に料理を修業したわけではないので,万南がどういうか心配でたまらなかった。

 だが――。

「ああ、いけますね。これは」

「え?」

 聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい。万南は赤魚の蒸し料理を食べながら、

「確かに香月さんは修業はしていないでしょう。でもこれはこれで家庭料理の味がして、お店の意図とよく合っているんじゃないでしょうかね。私は好きですよ、この味付けは」

「本当?」

「私は嘘は言いません。特に料理に関しては」

 むっつりとした顔で言う万南は、確かに嘘はついていないようだった。香月はどぎまぎしながら尋ねた。

「それじゃあうちの店に来てくれるかしら?」

「私の腕でよければ」

「もちろんよ!」


 こうして天運飯店は始まった。

 どうなることかと思っていた香月だったが、開店して最初のころは、香月にすっかり骨抜きにされた「幸縁屋」の社長が、そのお仲間を引き連れて食事に来てくれた。それからはお仲間のお仲間が連れだって寄ってくれるようになった。

 それだけではない。北で営んでいた時とはさすがに違い、錦凌で同じ値段で出すことは無理だったが、それでも他の店よりも遥かに安い値段で料理を提供していた。それこそ「幸縁屋」の社長が賃料を払ってもらえるか、一時は心配するほどに。

 だがそれも杞憂に終わった。庶民の目と舌は嘘をつかなかった。安くて早くて美味いとなれば流行らないわけはなかった。しかも女将は奮い立つような美人のいかず後家である。

 こうして開店して早二か月。天運飯店は一気に錦凌の名物店となった。昼ご飯の時間ともなれば、早い時間から客がやってきて、二十卓ある席はすぐに満席になった。夜も似たようなものである。夕方から賑わいを見せ、それが一段落して一息ついたころに、次のお客が波のように押し寄せる。その繰り返しだ。

「お待たせいたしました」

 香月は飛燕と万南と共に、そうやって毎日忙しく店を切り盛りしていた。





     2



 十二月に入ると、凌央の国の南に位置する錦凌でさえも、さすがに寒い日が続く。天運飯店でも卓と卓の間をいつもより広く取って、各々の場所に炉を置いて席が暖かくなるように工夫していた。

「今日も寒くなりそうね」

 香月は窓の内側から空を見上げた。澄み切った青空はすがすがしく、その分寒さが増している。

 店の中にいるとはいえ、やはり冷える。香月も今月に入ると内衣の枚数を増やし、深衣も暖かいものに変えた。飛鷹も香月ほどではないが、やはり厚手の生地の袍を着ている。

「でもお客さんは来てくれそうだけどね」

 見覚えのある常連客が、店に向かってくるのが見て取れる。皆、一様に首元に毛皮が付いた外套を着て寒さをしのいでいた。

「万南さーん、今日のお勧めは?」

 飛鷹が厨房に声をかける。常連客がやってきたら、すぐに次の客たちがやってくる。行きつく暇がなくなる時間帯に突入だ。その前に確認しておかないといけない。

「今日は豚肉のあんかけと肉入り野菜汁だな」

 万南は厨房から良い匂いをさせながら答える。その匂いを嗅ぐだけで、香月もおなかがすいてきそうだ。

 そう思っていると、店の扉が開いた。

「やあ、香月ちゃん。今日のお勧めは?」

 常連客達は勝手知ったる何とかで、各々外套を脱ぐと、さっさといつも自分たちが座る所定の位置につく。香月と飛鷹もすぐに注文聞きに飛んでいく。

 そんな中、そのあとから少し遅れて扉が開いた。

(このタイミングで珍しいわね)

 香月が客から注文を取りながら、開いた扉の方を向くと、長剣を持った一人の青年が扉を閉めてからどうしたものかとでもいうように、辺りをきょろきょろしているのが目に入ってきた。

 新顔だった。

 こう見えても接客業である。十代のころから父の店で慣れ親しんだ商売だ。一度見た客の顔は、よほどのことでもない限り覚えている自信があった。

 年は二十三、四といったところか。すっきりとした目鼻立ちで、唇がきりりと引き締まっている。男らしい顔立ちの美形といえよう。背も高い。香月より頭一つ分高く育った飛鷹よりも、まだ高いようだ。それでいてきっちりと鍛えていそうな体つきをしているのが、毛皮付きの外套を脱いだ袍の上からも見て取れる。あれならさぞかし女どもが放っておかないだろう。

(もてそうねぇ)

 香月はあたかも近所のおばさんにでもなったかのような、微笑ましい気分で青年を見ていた。

 長剣を持っているので、武家の者かもしれない。それもいいところの坊ちゃんらしかった。それは着ていた外套に縫い付けられている最高級品の毛皮の質や、外套の生地や深い緑色をした袍の襟のところに縫ってある細かい刺繡の手の込みようからしても、容易に窺い知ることができた。

「いらっしゃいませ」

 香月は常連客から注文を取ると、早速青年の方へ向かい、声をかけた。青年は見るからにほっとしたようだった。

「お待たせいたしました。外套をお預かりいたしますわ。おひとりさまですか? でしたらこちらへどうぞ」

 青年から外套を預かると、香月は厨房が見える席へと案内した。武家の者なら長剣は他人には預けない。それはわかっているので、長剣のことには触れなかった。

着ている衣の質がいいので、名の知れた武家の出かもしれない。どちらにせよいいところのご子息といったところだろう。なので幼いころから教育は受けているだろうから、たぶん店に貼ってある品書きは読めるだろうが、もし万が一ということもある。

一夜で百姓から大金持ちに大変身というのも賭場に通う者ならありうる話だ。だが、青年からはそういった退廃した香りはしてこなかった。

 それどころか――。

「料理はこれだけなのか。もっと違ったのはないのか?」

 かなり横柄な口調で香月に聞いていたのである。

「とおっしゃいますと?」

「蒸し鶏と胡瓜の巻物とかふかひれの上湯とかはないのか」

 それはまるで宮廷料理で出てくるような料理である。庶民を相手にしている天運飯店で用意している料理ではなかった。

 一瞬香月が押し黙っていると、青年は一人でわかったように頷いた。

「そうか。こう言った店ではそういう手の込んだ料理は無理なんだな」

(なるほどね)

 これは、一夜にして大金持ちになった例では決してない。こう言った口の利き方をするのは、大概生まれた時からそれなりの待遇を受けて育った者だ。

 厨房の方を見ると、青年の声が聞こえたらしく、普段は温厚というか、あまり表情を表に出さない万南が、珍しく怒りの表情を浮かべていた。

 無理もない。万南はこの道のプロだ。本当ならもっと高級な店の調理長とて務まるぐらいの腕の持ち主である。それを天運飯店の価格に合わせて、料理を作ってくれているのだ。

 しかしそういったことを、この腕っぷしは強いかもしれないが、世間知らずの青年に言ったところで、すぐには理解できないだろう。

 香月は万南に目配せをすると、青年には優しく接した。

「お客様。そう言った料理は、うちでは予約していただくことになっておりますの。ご覧のとおり、皆さん、お仕事の休憩時間にいらっしゃっている方ばかりですから、手早く食べられるものを好まれるんです」

「……なるほど」

 青年は香月に促されて店内を見回し、改めて客層に気が付いたようだった。

「それにお客様、安くても美味しいものが世の中にはたくさんございますのよ。そう言ったものもぜひ召し上がっていただきたいですわ」

「つまりここは安くて美味いものを出すのか」

「はい。例えば今日のお勧めは豚肉のあんかけと肉入り野菜汁です。お客様、好き嫌いは?」

「それはない」

「でしたら、一度試してみてくださいませ。決して損はさせません」

 香月がにっこり笑うと、青年は一瞬それに魅入られたように目を見張り、それから慌てて咳ばらいをすると、

「それほど言うなら試してみよう。その豚の何とかと汁物を頼む」

「ありがとうございます。少々お待ちください」

 香月は恭しく礼をすると、厨房に入って万南に声をかける。

「万南、豚肉のあんかけと肉入り野菜汁一人前」

「……食べるんですか?」

 万南は親の仇でも見るかのように、席に座って、物珍しそうに店内を見回している青年を睨め付けた。万南の気持ちがよくわかる香月は、笑ってたしなめる。

「そういう顔はしないのよ。あなたの腕を知らないだけなんだから。――さあ、坊ちゃんをあっと言わせてあげましょう」

 そう言うと、万南の顔が綻んだ。


 やがて青年の目の前に、豚肉のあんかけと肉入り野菜汁と飯が置かれた。

「お待たせいたしました」

「うん」

 青年は頷くと、長剣を椅子の横に立てかけ、何かあればすぐに取れる態勢にして、最初は何やら恐る恐るといった体で料理に口をつけた。だが一口食べるとパッと顔が輝き、

「美味い!」

 驚いたように声を上げると、欠食児童のように次から次へと料理を口に運ぶ。

 その様子に、香月は笑みを押し殺し、他の客に料理を出していた飛鷹もそれ見たことかと言わんばかりの顔つきをし、何より厨房から青年の様子を窺っていた万南は満足そうににやりと笑った。そんな笑い方をするのは珍しいことだった。


 青年はすべて綺麗に平らげた後、支払いの段になった時、香月に話しかけてきた。

「女将、美味かった」

「それはようございました」

「その……」

 青年は口籠ると、少しの間考えてから口を開いた。

「申し訳なかった。最初、あんな口を利いて。料理人にも謝罪しておいてくれ」

(あら、これはこれは)

 どうやらいいところのご子息は、しごくまっとうな育てられ方をされたようだ。香月は満面の笑みを浮かべ、青年に答えた。

「ありがとうございます。そのようなお言葉を頂戴して、うちの料理長も喜ぶと思いますわ。これに懲りずにまたいらしてくださいね」

「ああ」

 青年は頷くと、質のいい毛皮のついた外套を着込み、長剣を握りしめると、扉を開けて帰っていった。


 そして驚いたことに、青年は本当に天運飯店が気に入ってくれたようだった。それからというもの、初めて来たときと同じように長剣を握りしめながら、昼だけでなく、時には夕食の時間にも表れるようになった。毎日というわけにはいかなかったが、一週間に一度はやってきて、一人静かにその日のお勧めを食べて帰るようになった。

 冬が去り、春の気配を感じる頃になってもそれは変わらなかった。

「もう常連だね」

 ある日、飛鷹は青年が少しも残さず食べて帰った皿を片付けながら嬉しそうに香月に言った。

 最初は反発を感じていた飛鷹も、青年がきちんと謝った上で通ってきてくれるようになってからは、良い客とみなすようになっていた。

「そうね。常連さんね」

 常連客が増えるのは嬉しいことだ。

 特に若い客が増えることは喜ばしい。なぜなら天運飯店の常連客は、香月の年増の美貌と、しっとりとした女性の魅力が吸引力となって、三十代中ごろから、上はなんと七十代まで、妻を亡くしたやもめや、妻に逃げられたやもめなど、あたかも錦凌中のやもめが勢ぞろいしているのではないかというほど、やもめの客が多かったからだ。

 むろん若い客もいることはいる。けれども比率的に、店全体の八割、九割はやもめが占めていた。

 そのため飛鷹は、香月に無体なことをする客はいないか、始終客に目を光らせているのだった。



 春の日差しが辺りを柔らかく包むようになると、天運飯店はますます客が増えていった。そんなある日の夜、店内は客でごった返していた。そこへ長剣を持った青年が一週間ぶりに姿を見せた。

「女将、相変わらずにぎわっているようだな」

「いらっしゃいませ。おかげさまで。さあ、こちらへ」

 香月はすでに青年の指定席ともいえる厨房が見える席へと案内する。万南が厨房から青年に黙礼すると、青年も同じように頭を下げた。すでに馴染んでいる証拠だ。

「今日のお勧めは?」

「そうですね。今日はいくつかありますの。それで――」

 香月がお勧めを書いた紙の束を青年に見せていると、万南から声がかかる。

「香月さん、ちょっと裏の倉庫に春野菜を取りに行ってきます。この勢いだと、もう少しすると用意している分がなくなりそうですよ」

「わかったわ。それじゃ私が厨房に入るわね」

 香月が答えると、万南は「頼みます」と言って、裏の倉庫へ消えていった。

「本当に忙しそうだな」

「ええ。おかげさまで。それで何になさいます?」

「そうだな。今日は凌香酒をもらおうかな。それとまずはこの蛤の酒蒸しを通しで頼む」

「かしこまりました」

 頷いた香月が、厨房へ入ろうとすると、青年が座っている隣の席で老酒を飲んでいたやもめの常連客が、不意に香月に話しかけてきた。

「香月ちゃん、今日も綺麗だね。ねぇ、ちょっと一杯飲んでいかない?」

「楼さん、いつもありがとうございます。今度いただきますわ。今日はちょっと混んでおりますので」

「えー、香月ちゃん、いいじゃん、ちょっとぐらい」

 そう言うと、常連客の楼は香月の袍を掴んで、自分の方に引っ張ろうとした。

「楼さん」

「いいじゃないか。一杯ぐらい」

 楼は執拗だった。珍しいことだ。四十代初めの楼は、同じ錦凌の目抜き通りにある呉服問屋の主人をしている。十年前に妻を病気で亡くしてから、男手一つで息子二人を育て上げ、普段は固い男で有名だった。だが香月が天運飯店を開いてからは、その硬さはもろくも崩れ去り、香月のファンを自認して憚らなかったが、ここまでしつこいことはなかった。

 同じ商売人同士、しつこさは相手の邪魔になる。それは互いにわかっているはずのことだった。

「さあ、ねぇ、香月ちゃん」

 吐く息がかなり酒臭かった。この店に来て老酒はまだ一本目。それでここまで酒臭くなることは考えられない。

 どうやら天運飯店に来る前に、どこかで一杯ひっかけてから来たようだ。それで気が大きくなっているのだろう。

(どうしようかしら)

 楼に袍を掴まれたまま、視線で飛鷹を探したが、あいにく奥の席で接客中だった。万南は裏の倉庫へ野菜を取りに行って、まだ帰ってきそうもない。

 仕方がない。一杯ぐらいなら――。

 香月が覚悟を決めた時だった。

 香月と楼の間に長剣がすっと入ってきた。そしてそれは楼の胸元を指していた。

「な、な、なんだ?」

 焦った楼が思わず盃を落としてしまう。長剣の持ち主は、座ったまま涼しい声で言った。

「隣なので話が筒抜けでな。女将も困っている様子。失礼ながら止めさせていただいた」

「な! 何なんだよ! おまえには関係ない話じゃないか! 大体青二才のくせに、大人の話に割り込んでくるな!」

「『おまえ』ではない。王凱と申す。それに青二才の私が見ていても、あなたの態度は承服しかねるものがある」

「そんなの……!」

 楼が言いかけた時、胸元の長剣の鞘が抜きかけられる。途端に楼の顔が青くなった。

「い、いやだなぁ。王凱君だっけ。冗談だよ、冗談。ごめんね、香月ちゃん」

 楼は酔いが覚めたようで、慌てて懐から茶巾袋を取り出すと、飲み代を卓の上に置いて

逃げるように天運飯店を後にした。

 香月は慌てて扉を開けると、走っていく楼に声をかけた。

「楼さん、またいらしてくださいね。お待ちしておりますよ」

 聞こえたか、聞こえていないかわからない。しかしそう声をかけておかないと、楼も顔を出しづらいだろう。

(やれやれだわ)

 ほおっと香月が小さくため息をついて、ふと店の角に目をやると、男が一人立っていた。腰から長剣を下げているのが見て取れる。

 客だろうか。その割に天運飯店の壁に張り付くように立っているだけだ。

「あの……?」

 試しに香月が声をかけてみると、男はびくっとしたように背筋を伸ばすと、慌てて店から離れていった。

(何かしら?)

 首を横に振りながら店に戻ると、王凱は何事もなかったかのように、長剣の鞘を戻し、いつものように席の傍らに立てかけて置いていた。幸い店の中は混んでおり、厨房近くの席で行われた短時間のいざこざに気づく客はいなかったようだった。

 香月は王凱の席の前に行くと頭を下げた。

「王凱さんっておっしゃるんですね。助かりました。ありがとうございました」

「いや、こちらこそ余計な口をはさんですまなかった。ただあの御仁、私も何度かこの店で見かけたことがあるが、あのような態度を取るような男には見えなかったのでな」

「楼さん、ええ。おっしゃる通り、今日みたいなのは初めてですわ。どうやら他で聞し召していらっしゃったみたいで」

「なるほど」

 それを聞いて王凱は、人の悪そうな笑みを浮かべた。

「それで普段はできない行動に出てしまったというわけか。まったく女将も男泣かせだな」

「やめてくださいよ、もう。それこそ悪い冗談ですよ」

 香月は苦笑で返すと、厨房に入っていった。万南はすでに裏の倉庫から戻ってきていた。

「ごめんなさいね。厨房に入れなくて」

「いえ、何かあったみたいですね」

 さすがは万南。察しがいい。

「まあちょっとね。そうだ。肉の汁物あるかしら」

「ええ。ちょうど出来上がったばかりのがありますよ」

 万南は目の前の鍋を指さした。

「よかった。ちょっともらえる?」

「もちろん」

 香月は鍋から肉の汁物を寄そうと、盆の上に載せて王凱の前に置いた。

「女将?」

 王凱は「これは何だ?」という顔で訪ねてきた。まだ王凱は頼んでいなかったが、肉の汁物は彼の好物の一つだった。

「お礼というには質素で申し訳ありませんけど、気持ちです。おかげでお互いに嫌な思いをしないで済みましたから」

「……なら遠慮なくもらおう。凌香酒を飲む前に腹に入れておけば、酒も回らずに済むだろう」

 そう言われて、香月は肝心なことを思い出した。

「そうでした。凌香酒と蛤の酒蒸し! ごめんなさい、うっかりして」

「いいさ。あんなことがあったんだ。それにしてもきっちり覚えているのは大したもんだな」

「この仕事も長いですからね。それだけが取り柄ですよ。万南、凌香酒と蛤の酒蒸し、一人前」

 万南に王凱の注文を告げると、王凱は肉の汁物に口をつける。

「美味い。相変わらず美味いな」

「ありがとうございます」

 香月が破顔すると、王凱は一瞬眩しそうに目を細めて尋ねてきた。

「それはそうと、この仕事も長いと言っていたが女将は何歳になるんだ? 考えてみれば女将を『女将』と呼んでいるのは、私ぐらいなものだろう?」

「まあ、女の年なんて聞くもんじゃありませんよ。お若い方は特に」

「若いって、まあ確かに先ほどの御仁よりは若いが、それでも私はもう二十三だ。若い若いと連呼されるような年でもあるまい」

(二十三歳ね)

 最初見た時に辺りをつけていた年齢が当たったというわけだ。確かに男性は十六、七で結婚するのが平均の現在、二十三歳はそう若いとも言えない。けれども――。

「十分お若いですよ。私なんぞ、もう二十七歳の年増ですからね」

 言ってしまった。

 しかし王凱の反応は、香月の予想を反するものだった。

「なんだ、私よりたった四歳上なだけじゃないか」

「四歳上なら、立派な年増ですよ」

「年増というほど年増ではないだろう。とにかく『女将』などと、えらく年上に呼んでいて失礼した。これからは私も名前で呼ぶことにしよう、香月さん」

 王凱に「香月さん」などと呼ばれると、なんとなくくすぐったい。

「今まで通り『女将』で結構ですよ」

「いや、もう決めた。香月さんだ」

「何ですかねぇ」

 はたで聞いていると、なんとも仲の良い二人である。二人のやり取りを聞いていた飛鷹や、ほかのやもめ客たちが、その日機嫌が悪かったのは言うまでもなかった。



 それからしばらくして、昼休みの時間に楼が菓子折りを持って謝りにやってきた。

「大変申し訳なかった」

「やめてくださいな、楼さん。お互い商売じゃないですか」

「だからなおのこと、申し訳ない。あんなこと二度としないから。どうか水に流してくれないか」

「わかってますわ。ですから顔をお上げください」

 香月が重ねて言うと、ようやく楼は頭を上げた。

「いや、本当にあの時……王凱君といったか。彼がいてくれなかったら、私はもう二度と天運飯店に足を踏み入れられないところだったよ」

「大袈裟ですわ、楼さん」

「自分が情けないよ。酒に呑まれてしまうなんて」

 楼はなおもしょんぼりしている。根が真面目なので、思い詰めてしまったのだろう。

「王凱君にも会ったら謝っておいてくれないか」

「わかりました」

「……よく来るんだろう?」

 探るように聞いてくる楼に、香月が不思議そうに聞き返す。

「楼さん?」

「あ、いや。何でもない。それじゃ私はこれで。本当に悪かったね」

 そう言うと帰っていったが、香月の胸にはなぜだか楼が来る前より、帰った今の方にわだかまりが残った。

「なんだか引っかかるような言い方だったわね」

 すると卓を拭いていた飛鷹が茶化すように言った。

「そりゃあね。食べ物屋で長剣をかざして姉さんを守ったのが若くていい男ときたら、楼さんをはじめとするやもめ軍団の皆さんは居ても立っても居られないと思うよ」

「何それ」

 香月が眉を顰めると、厨房にいた万南も出てきて会話に加わった。

「言葉通りの意味ですよ。私も小耳に挟みましたよ。やっぱり香月さんも年寄りより若い方がいいのかって。やもめ軍団の皆さんですね、気にしているみたいですよ」

「勘弁してよ。万南までそんなこと」

「本当のことですよ。王凱さんが毎週来ているのは、何も料理が気に入っているからだけじゃないと思いますね、私は」

「あ、万南さんもそう思う? 俺も怪しいと思うんだよね。だけど露骨に手を出してくるわけじゃないから追っ払うわけにいかないしね」

 飛鷹はため息交じりに難しい顔をする。香月は二人に待ったをかけた。そうでもしないと、二人の妄想はとどまるところを知らないようだった。

「もう、やめなさい。だいたい王凱さんは私より四つも年下なのよ。そういうことを言うと、あちらに迷惑でしょう。そんな噂が立って、店に来てくれなくなったらどうするの? 大事な常連さんなのよ」

「それもそうか」

「そうですね」

 香月が本気で怒り始めたために、二人ともこれ以上からかうのはまずいと思ったのだろう。話はそこまでとなった。



 数日後、王凱が姿を現した。定番の席に着いた彼に、楼が謝罪に訪れたことを告げると、王凱も嬉しそうだった。

「そうか。やはり一時の気の迷いだったのだな。良かった良かった」

「ええ。王凱さんにも謝っておいてくれということでした」

「わかった。なかなかできた御仁だな」

 そんなよもやま話を王凱としていると、奥の席で食事をしていた宗が終わったらしく、出入り口に向かってきた。

「ご馳走様、香月ちゃん」

「宗さん、いつもありがとうございます」

 香月が笑みをたたえて挨拶をすると、宗がちらりと香月のすぐ後ろに座っている王凱を睨み付けていく。

(宗さん?)

 香月が他の客と話していても、いつもはそんな表情を浮かべない男である。やはり飛鷹や万南が言っていたように、やもめの客たちは王凱のことを気にしているのだろうか。そんな勘違いは勘弁してほしい。

 香月は、扉を開けて出ていく宗に、

「またいらしてくださいね」

 と声をかけると、宗は思いもかけなかったらしく、振り返り嬉しそうに笑顔を見せてきた。

(よかった)

 これで一安心とばかりに、香月が胸を撫で下ろしていると、またしても店の角に男が立っているのが見えた。

(あれは?)

 確か、楼とひと悶着あった日もいた男ではなかったか。よくよく見ていると、天運飯店の角のあまり人目につかないところに立って、たまに中の様子を窺っている。

(誰か見張ってでもいるのかしら?)

 香月は首を捻り、店に入っていった。


 やがて店を閉めた後になって外を見てみると、先程の男の姿はなかった。

(何かしら)

 誰もいない道を睨み付けていると、中から飛鷹が扉を開けてきた。

「何やってるの、姉さん」

「飛鷹」

 心配をかけるかもしれないが、とりあえず聞いてみた。

「……実はね、店を見張っているみたいな男がいてね」

「ああ。あいつな」

 すると意外なほどあっさりと飛鷹は頷いてきた。

「あなた気が付いていたの?」

「そりゃあね、あれだけわかりやすく来てればさ」

「誰か見張っているのかと思うんだけど」

「王凱さんだろ?」

 今度もまた飛鷹は何のためらいもなく言った。

「そうなの?」

 驚いたのは香月の方だった。まさか王凱が見張られているとは思ってもみなかったことだった。

「うん。あの見張っている男さ、王凱さんが来ているときに限って来ているんだよ。だから間違いないと思う」

 飛鷹がそう言うならそうなのだろう。向陽が飛鷹に教えたのは武術だけではない。武官としての生き方も学ばせたのだ。

「そんなに気になるなら、今度王凱さんが来た時に聞いてみれば?」

「そんなにって……! そういうわけじゃないけど、店の中を覗かれているのって、あんまりいい気はしないでしょう?」

「そりゃ確かにそうだね」

 飛鷹は肩を竦めた。



 そんなわけで、次に王凱が来た日、香月はなんとなく落ち着かなかった。店の外に男が来ていなければいいのにと願わずにはいられなかったが、店の中から窓越しに眺めると、やはり男は来ていて、そっとこちらを眺めているのがわかった。

「香月さん、どうした。落ち着かないな」

 王凱に心配される始末だった。

「その……、よくわからないんですけどね。飛鷹も気づいていて、あの……、王凱さんがここにいらっしゃると、必ず店の外に男の人が立って見張っているような感じなんですよ。大丈夫なんですか?」

 まったく何が大丈夫なのかわからないが、とりあえず香月は尋ねてみた。すると王凱は、かえって香月の気が抜けるような、どうでもないと言わんばかりの言い方で答えた。

「ああ、また来ているのか。何だ、香月さん。心配してくれているのか?」

「いえ、そんな心配なんて、王凱さんに限って。でも、そうですか。別に何でもないんですね」

「ああ、何でもない。悪いね、皆の香月さんに心配をかけさせて」

「やめてくださいな。『皆の』なんて」

 珍しく茶化したように言う王凱に、香月はちょっとむくれて見せると、

「悪い悪い。でも本当に何でもないんだ。気にしないでくれ」

 そこまで言われると、それ以上香月も追及のしようがない。

「いえ、こちらこそ出過ぎた真似を」

 そう断りを入れると、香月は厨房に向かった。王凱と外の男がどんな関係なのかまるでわらなかったが、とりあえず心配するような間柄ではなさそうだった。





     3



 店が繁盛することはいいことだ。最初に錦凌にやってきたときの不安を考えると嘘のような話だ。

 天運飯店の名前は、今や錦凌でも知らぬものはいないぐらいの有名店になっていた。

 けれどもそれが仇になることがある。

 いつの頃からか、少し暇な時間を見計らったように、店に与太者たちがやってくるようになったのだ。

 別に客を区別しているわけではないので、お代さえきちんと払ってくれれば、誰もが客である。

 玖能という男を頭とするその男たちは、金払いはよかった。品書きの中でも高い料理をいつも注文していた。

 それだけならいい客と言えるのだが、初めて来たときから、玖能は、

「香月さん。ここは香月さんのお店で間違いないですよね」

「そうですが、それが何か?」

「どうです。うちの傘下に入りませんか」

 と、突拍子もないことを言ってきたのである。

「はあ?」

 思わず香月は玖能という男をまじまじと見つめた。年齢は三十七、八といったところか。髪は長く、後ろに流した部分を二段階に分けてひもで結び、あとは垂らしていた。金を持っているというのは、着ているものにも表れていた。朱色の袍は長く深い袖で、大襟には金糸で派手な刺繍が縫いつけてあり、白い袴は絹だろう。だが残念なことに、どんなにいい衣装を着ていても玖能という男からは「品」が感じられなかった。

 消そうとしても消せない賭場の香りが、これまた消えない濃厚な酒や煙草の匂いと絡み合い、交じり合っていた。

 それはこの男の生き方を端的に物語っていた。

「何、ちょっと手間賃を払っていただければいいだけの話ですよ」

「ありがたいお話ですけど、うちの店はうちの店でやっておりますので」

 香月が丁寧に断ったが、玖能はそれを聞いていないように押してくる。

「うちに入っておくと、何かと便利ですよ。何か困ったことが起ったら、すぐにうちの若いのが飛んできますからね」

「ああ、それでしたら御心配には及びませんわ。うちには飛鷹がおりますから」

 香月が言うと、店の壁にもたれて暇を持て余していた飛鷹は、急に背筋を伸ばし、形見となった向陽からもらった長剣を握りしめた。

 その様子に、玖能は、

「なるほど。わかりました。今日のところは退散します。でも私は一度決めたら、諦めたりしませんから。私の信条です」

 そう言って帰っていった。

 それだけなら問題はなかった。

 それからが問題だった。

 玖能は執拗に店に現れるようになった。そして毎回香月を口説き落としにかかるのだが、香月が頑として聞き入れようとしないので、だんだん地が出てきた。

「そろそろ観念した方がいいんじゃないのかなあ。俺としてもこれ以上待つのは性に合わないんだよな」

「ですからうちのことは諦めていただけません? 何度も申し上げましたけど、うちには飛鷹がおりますから、そちらのお手を煩わせることはないと思いますの」

 香月が頑として受け入れないとわかると、玖能は腹立ちまぎれに椅子を蹴飛ばし、手下ともども店を後にした。

 それからはもう香月を説き伏せるのは諦めたようで、手下の与太者を連れて天運飯店に来るたびに、香月を罵倒し、店の中の備品や家具を傷めつけて、飛鷹と対峙するようになっていた。

 被害が出始めてから、錦凌の警察機関である都尉の古儀勝が見回りに来てくれるようになったのだが、こちらも甚だやる気を感じさせない男だった。

 玖能の姿が見えて暴れ始めると、すぐに都尉に使いをやるのだが、いつも店に現れるのは玖能が退散した後なのだ。まるで玖能と顔を合わせるのを避けているかのようだった。



「どうしたもんでしょうねぇ」

 玖能のやり口に辟易した香月は、その月の家賃を「幸縁屋」に持って行ったついでに、ついつい相談した。

 すると五代目主は気の毒そうな顔はしたが、

「う~ん、こればかりは仕方がないんじゃないのかな」

「あら、ご主人ともあろう方がそう来ますか」

 そう言ってはみたものの、五代続いたやり手の銀主の主だ。長い物には巻かれろ的発想がなければ、ここまで家業が続くわけもなかった。

「まあね。持ちつ持たれつのところもあるから。うちも用心棒代として払っていますよ」

「え? こちらが、ですか?」

 それでもさすがに幸縁屋まで、玖能に金子を払っているとは思っていなかったため、香月が驚いて目を見開くと、五代目主は苦笑した。

「うちだけじゃないですよ。楼さんのところも、宗さんのところも、まあこの辺で儲かっている店のほぼほぼが大なり小なり払っているんじゃないかな」

「そんなにですか?」

「まあね。本当は私だって払いたかないですよ。でも少しの金子を渡しただけでおとなしくなってくれるし、よその町から来たガラの悪い連中を追っ払ってくれたりするときもあるからね。……香月ちゃんの気持ちもわからないではないですよ。天運飯店には飛鷹君がいますからね。でもここはひとつ目をつぶって、ちょっと渡すぐらいはしておいたらどうかなあ。そうしたら玖能もそうそう顔を見せなくなるだろうし。今のままだと営業妨害に遭っているようなものでしょう」

 五代目主の言っていることもよくわかる。確かに金子を少し渡してやれば静かになるだろう。玖能という男は、流行っている店を脅しては、金を巻き上げるどうしようもない男だ。だからこそわかりやすいと言えばわかりやすいのだが。

 しかし理屈はわかっても、香月の気持ちがついていかなかった。どうして悪いことをしたわけでもないのに、一方的に脅されなければならないのであろう。

 それに今の主の話でわかったことがある。

「ご主人、天運飯店が入っている店ですけど、うちが入る前に営業していた店も、もしかしたら玖能に目をつけられたのに金子を払わなくて、それで玖能に閉店に追い込まれたんじゃありません?」

「香月ちゃん……どうしてそれを……」

「いえね。内装をうちでやりましたでしょう。うちが入るまで半年空いていたってことでしたけど、やたらと綺麗だったんですよね。竈なんかも、まだそんなに使い込まれていなくて。

 それでもしかしたら、店を始めてから、割とすぐに閉店しちゃったのかしらって。それにご主人、値段交渉をしたときにちらっとおっしゃったじゃありませんか。『この先、借り手がつくかもわからない』って。あんな目抜き通りの一番いい場所にあって、変だなと思ったんですわ。よほどやり方が下手じゃなければ、そこそこ利益を出せる場所でございましょう? 今から考えれば、錦凌で商売をやっている人は、あそこの場所の怖さを知っているから、だからああいう言葉が出たんですよね」

 北から出て来て、右も左もわからない田舎者だから、あの場所を何の躊躇もなく借りられたのだ。不動産屋からしてみれば、渡りに船といったところだったのだろう。

「すまない、香月ちゃん!」

 五代目主は観念したように、座ったまま頭を下げた。

「いやだ、よしてくださいよ、ご主人。あの場所を選んだのは私なんですから。それに玖能のことですから、あそこの店を借りなくても、錦凌で繁盛すれば、どのみちやってきましたでしょう?」

「それは確かにそうなんだが」

 ある意味、香月もまた強気である。

「とにかく色々とお話をありがとうございました。参考にさせていただきますわ」

 そう言って、香月は「幸縁屋」を辞したのだった。



(「幸縁屋」のご主人はああいっていたけど……)

 どうしても玖能に金子を渡す気にはなれない。

「どうかしましたか、香月さん。手が止まっていますよ」

「え? あら、やだ。ごめんなさい」

 万南に注意されて、危うく豚の揚げ物を焦がすところだったのが救われた。それを見ていたらしく、夕食を食べに来ていた王凱が、もう少しで吹き出しそうになるのが視界に入った。

「もう、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

 香月が思わず王凱に文句を言うと、

「ぷ、ふふふ、すまない。香月さんにしては珍しいことだったから、つい、な」

「私だってたまには……え?」

 香月が王凱に言い返そうとしたその瞬間、いきなり扉が乱暴に開かれた。入ってきたのは与太者たちで、その後ろにけだるげに、だが明確なある意思を持って玖能が来たのが視界に入った。 

 嫌な予感。だがそれは得てして当たるものだ。

 案の定、いつもはあまり客がいない時間を見計らってやってきていた玖能たちだったが、今日は違った。

 夕食時の、客で満席になるのを待っていたかのように入ってきて、玖能が顎を上げて合図を送ると、与太者たちは気勢を揚げて、近くにある卓から壊しにかかる。

「そりゃー!」

「ここにいると邪魔なんだよ!」

「ほれほれ! どけどけ!」

「うわっ」

 瞬く間に客の悲鳴と与太者たちの怒声が入り混じって、店の中は大混乱に陥った。

「何しやがる、おまえたち!」

 給仕をしていた飛鷹は、慌てて与太者たちに立ち向かう。右に左に拳が来るのを、瞬時に避けて与太者の腹に拳を打ち付ける。

「ぐっ……!」

 すると今度は別の与太者が飛鷹に襲い掛かる。

「飛鷹、危ない!」

 厨房から万南が叫んだ。

 香月を巡ってのやもめ相手のいざこざの時ならば、厨房から万南が出てきてどうこうすることはなかったが、今回は相手が違う。万南は決意を漲らせて、香月の方を向いた。

「香月さん、ここ頼みます」

「え? 万南……」

 香月がびっくりしている間に、万南は手元にある何本かの包丁のうち二本を掴むと、

「うぉりゃあー!」

 と、叫びながら与太者たちにかかっていった。すると飛鷹が破顔する。

「万南さん!」

「おう! 行くぞ! 飛鷹!」

 それが合図のように、飛鷹と万南は、襲い掛かってくる与太者たちを相手に、前後左右に蹴りを入れ、拳を回し、包丁で威嚇しながら店から与太者たちを追い出しにかかろうとした。 

 最初はそんな二人の気迫に負けそうな与太者たちだったが、なんといっても場数を踏んでいる。じりじりと飛鷹と万南との間合いを詰めてきた。それでも寸でのところで、二人は与太者の攻撃をかわし、またしても攻防戦が進む。

 店の中は卓が横倒しになり、椅子も同様にひっくり返り、客たちはともかくまき沿いを食らわないように、店の奥へ奥へと逃げていく。

(ああ、私の店が!)

 玖能たちによって、せっかくここまでにした店が壊されていく。飛鷹と万南も与太者に負けじと応戦しているが、何分にも多勢に無勢である。なかなか決着がつきそうにない。その間にも、香月の店はめちゃくちゃになっていく。

 あの火事の時と同じように――。 

 いや、しかしあれは戦争だった。だがこれは違う。同じ国の中で同じ民族同士が利権を巡って戦っている。玖能たちは弱い者いじめにやってきているだけだ。

(どうしていつもいつも!)

 こんな目に遭わなければならないのか。

 香月の中に理不尽なものに対する怒りが満ち溢れる。

「いい加減になさいよ! あなたたち!」

 店中に聞こえるような声を上げると、厨房に置いてある包丁を手に取り、与太者たちに飛び掛かっていこうとしたその時、

「おっと」

 手下たちと飛鷹、万南の争いを涼しい顔で見つめていた玖能が、素早く動いたかと思うと、厨房から出てきた香月の手首を捻りあげ、香月の手から素早く包丁を奪い取る。

「痛……っ」

「香月さん、あんたまで刃物を持つなんざいけねぇな。どうだい、そろそろ観念したら。香月さん自慢の弟も厨房の兄さんも、かなり疲れてきているみたいだけどな」

 その言葉に、香月は二人の様子に目をやる。確かに玖能の言っていることは正しかった。いくら飛鷹が向陽に武術を叩き込まれているからと言っても、相手が多すぎた。万南とて同じことだ。普段は厨房で鍋釜相手に奮闘している男である。勝手が違いすぎた。

 負けを認めたくない。ここで認めたら、未来永劫この男は骨の髄までしゃぶり倒すに違いない。だが――。

 香月が口を開きかけた瞬間、

「う!」

 玖能が突然声を漏らした。

何事かと見上げると、いつの間にか王凱が玖能のそばに近づいていた。いつも持ち歩いている長剣の鞘を抜き、よく手入れしてあると見える刃の部分を玖能の首筋に当てている。

 一瞬焦ったかのように見えた玖能だったが、まだ年若い王凱の姿に、大した相手ではないと踏んだようで、軽口を叩いた。

「こりゃまた香月さんにはやもめの爺さんたちだけじゃなくて、こんな若い信者もいたのか。良い刀じゃねぇか。いい家の坊ちゃんみたいだけどな、どうせ香月さんに良いところを見せたいだけだろう? こんな立派な剣をお持ちだけどよ、使ったことがおありなんですかい?」

 その言葉に、王凱の手が素早く動く。それに沿って玖能の首筋から一筋の血が流れた。

「おいおいおい、本気かよ!」

 しかし王凱は無言で玖能を見つめた。その眼は少しも笑っていなかった。玖能と王凱の視線がぶつかり合う。先に目をそらせたのは玖能の方だった。

「くそっ」

玖能が貌を青ざめさせて言った。

「皆、ここまでだ。引き上げるぞ!」

 その言葉に、王凱は玖能の首筋に当てていた長剣をひっこめる。与太者たちもまた、すぐさま攻撃をやめた。だが熱気が収まらないらしく、

「ちょ、何だよ! 畜生」

「覚えていろよ!」

 口々に罵倒しながら、出ていくときに行きがけの駄賃とばかりに店の椅子を蹴飛ばしながら帰っていった。

 久能一派が完全に天運飯店から出ていくのを見送ると、さすがに体力の限界だったのだろう。飛鷹と万南はその場にへたり込んだ。

 すると今度は入れ違いに派手な濃い青の襦裙に薄青の披帛を肩に掛けた女性が、屈強な男三人を引き連れて急いで天運飯店にやってきた。

「香月! 飛鷹君! 万南! 無事?」

 天運飯店の一角隣にある芸館・雲歌宴の主、蝶歌である。年齢は香月より五歳年上の三十二歳。和平協定が完全に破られ、戦争再開の時に従軍していた夫をその戦で亡くし、芸館を始めて、一人息子を懸命に育てている頑張り屋だ。

「蝶歌さん。ありがとうございます。見てのとおりですけど、何とか無事です」

 そう答える香月に、蝶歌は店内を見回すと渋い顔をした。

「あ~、やっぱりかなりやられたようね。うちもさっきまで玖能の手下たちが来ていたんだけど、ちょうど兵部尚書がいらしていたから、嫌味を言うぐらいで済んだのよね」

「よかったじゃないですか」

 蝶歌の店も玖能に脅しを掛けられていたが、香月と同じように断固拒否していた。その代わり、できうる限りの対策として、護衛をかなり雇い入れていた。天運飯店には蝶歌が雇い入れている大勢の護衛以上の能力を持つ飛鷹がいるのは知っていても、一人で玖能の手下とやりあうのは難しいことはわかっている。なので、香月の店を助けようと護衛を引き連れてやってきたのだった。

「まあね。うちの場合、お客様の中にはお偉いさんや、お偉いさんのご子息なんかも遊びにいらしているから、玖能もうちで暴れるのは得策じゃないってわかっているんでしょ」

 玖能も頭の回る男だ。自分が不利になるようなことはしない。

「それにしても、玖能にしては――こんなこと言うと悪いけど――なんだか中途半端なところでやめていったわね。あいつのことだから、木っ端微塵になるまでやるかと思っていたんだけど」

「ああ、それは飛鷹と万南が頑張ってくれたってこともあるんですけど、玖能を追い払ってくれたお客様がいらしたんです」

「ええっ? あの玖能を? 誰々?」

 蝶歌は目を輝かせて、店内を見回す。すると店の奥に逃げ込んでいた客たちは、玖能一派がいなくなったことで、そろそろと店の中心部まで足を運んできていた。

「香月ちゃん、大丈夫かい?」

「なんて乱暴な奴らなんだ」

「役に立てなくてごめんよ」

 やもめ軍団は皆一様に謝罪し、玖能に対する怒りをあらわにしていた。しかし香月にしてみれば、逆だった。

 一番恐れていたことが起ってしまった。客に迷惑をかけること――それは店主として、やってはいけないことなのだ。

「こちらこそ皆様に怖い思いをさせてしまいまして、申し訳ありませんでした」

 飛鷹と万南もよろよろと立ち上がると客に向かって頭を下げる。

「すみませんでした」

「申し訳ありません」

 けれども客たちは錦凌で生活している者ばかりなので、玖能の汚さを熟知していた。どちらかというと、今まで天運飯店が久能に目をつけられていると気が付かなかった自分たちを責めていた。

 めちゃくちゃになった店内を少しでも片付けようとする客たちに、香月は悲鳴を上げた。

「宗さん、楼さん、何なさっていらっしゃるんですか。おやめください」

「いや、だって、こんなになっちゃっていたら大変だろう?」

「そのお気持ちだけで十分です。お怪我でもされたら大変ですから。お願いします」

 床には玖能の手下たちがなぎ倒した卓や、それに載っていた皿や茶碗が粉々に割れて、そこいらじゅうに散らばっていた。手で掴んだりしたら、怪我をするのは目に見えていた。

「そうかい? それじゃあ」

 香月の必死の願いを無下にすることもできず、掴んでいた皿の破片を床に戻すと、今度は客たちは懐から揃って巾着袋を出した。

「お代はいくらかわかるかい?」

「お代だなんてとんでもありません。あんな騒ぎに皆さんを巻き込んでしまって、こちらの方がお見舞金を出さなければいけないぐらいですわ」

 あのまま攻防戦が続いていたら、客に被害が及んだかもしれないのだ。それでも飲食代は払わないと、と言っていた客たちと一瞬もめたものの、香月の意思が固いことを知ると、皆巾着袋を渋々と懐にしまった。

「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 そう言って頭を下げる香月に、

「香月ちゃん、気にしないで」

「また来るからね~」

 と、玖能がいた時に震え上がっていた様子はどこへやら、客たちは揃って帰路についた。

 そんな客たちを見送って、一つ深呼吸をして振り返ると、残っていた王凱が長剣を手に、唯一無事だった王凱の定位置である席から立ち上がるのが目に入る。

「さて、それでは私も退散するとするか」

「王凱さん、先程はありがとうございました。お陰様で命拾いをいたしました」

 あそこで王凱が入ってくれなかったらどうなっていたことか。きっと最終的には玖能の要求を飲まされていたに違いない。

「いや、そんなに大したことはしていないからな」

 二人の会話に耳をそばだてていた蝶歌は、その言葉にピンときたようで、

「え? じゃあさっきあんたが言っていた、玖能を追い払ってくれた人っていうのが」

「ええ。こちらの――王凱さんとおっしゃるんですけど――王凱さんが助けてくださったんです」

 すると蝶歌は、ニンマリ笑った。

「あらまあ。そうなの。良い男じゃない。良かったわね、香月」

「蝶歌さん! もう、そんなんじゃないですから。王凱さんはうちの常連さんなんです」

「へ~え、そうなんだ」

 何を言っても、蝶歌の中では別の話が出来上がっていそうだ。

「すみません、王凱さん」

「いや……まあ、ともかく三人とも命に別状がなくてよかった」

「王凱さんのお陰です」

 改めて香月が礼を述べると、王凱は少し照れくさそうに笑った。が、真顔に戻ると今度は王凱の方から聞いてきた。

「それで香月さん、あいつらなんだが、いったいいつ頃からこの店に来るようになったんだ?」

「そうですね。この店が軌道に乗り始めて、お客様で満席になるようになるのが続くようになってからでしょうか」

「そうだったのか。それでこのことは――」

 王凱が言い掛けた時、ようやく外に馬の止まる音がした。そして錦凌の警察機関である都尉の鎧と兜をつけた古儀勝と、その部下たちが、天運飯店にやってきた。

「遅いですよ!」

 さすがに今度ばかりは香月も声を荒げた。しかし古儀勝も慣れたもので、香月をなだめるように言った。

「まあそう言うな。これでも知らせを受けて、部下たちと馬を走らせてきたんだぞ」

 確かにあの状況下では、都尉に知らせに行くのに無理があった。古儀勝が来たのも、店の外で店内の様子を見た誰かが、教えてくれたに違いない。

「おい、おまえたち。被害状況を記入しておけ」

 古儀勝はそう部下たちに指示を出すと、部下たちは早速店のあちらこちらを調べて回る。それを横目で見ながら、古儀勝は香月に教え諭すように言った。

「香月、おまえもあまり意地を張らない方がいいんじゃないか?」

「何ですって!」

「どういうことですか!」

「被害者はこっちなんですよ!」

 あまりの言いように、座れそうな椅子を持ってきて、それに体を預けていた飛鷹と万南も非難の声を上げた。

 さすがにまずいと思ったのか古儀勝は、

「わかったわかった。玖能には俺の方からも注意しておくから」

 そう言うと、その場を離れ、部下たちのところへ行くと被害状況をあちこち調べ、あらかた調べ終わったところでそそくさと帰っていった。



 それまで黙って双方のやり取りを見聞きしていた王凱だったが、古儀勝の姿が見えなくなると、香月に不審そうな顔を見せる。

「香月さん、今のあれは……」 

 香月と蝶歌は大きく頷いた。

「絶対あれは玖能から賄賂をもらっていますね」

「間違いないわね」

 そうでなければいつもいつも来るのが久能たちがひと暴れした後になるわけがないし、今回は特にこれだけ被害が出ているのだ。玖能を捕まえるのが筋だろうに、まるで玖能の言うことを聞かない香月たちが悪いような言い方をしてくる。

「まったく何が錦凌の民を守る都尉なのかしら。頭に来ちゃう」

 北ではこうではなかった。父が元将軍だったからかもしれないが、郡尉はもっと規律正しく行動していた。

 それが首都ではどうだ。こんな不正がまかり通っている。皇帝や貴族、官僚が揃っている街だというのに。

 すると王凱が提案してきた。

「どうだろう。都尉があてにならないのだったら、都尉を監督する監御史に訴えてみるというのは」

 その言葉に、香月と蝶歌は一瞬きょとんとし、それから思わず笑ってしまった。さすがに若いというか、物知らずというか。

「王凱さん。あなたは名家の方みたいですからそんなこともないんでしょうけど、私たちみたいな庶民が監御史様のところへ行っても、笑って追い返されるのが落ちなんですよ」

「……そんなものなのか? ……では上奏してみたらどうだ」

 今度は皇帝に直訴する案を出してきた。肝が据わっている香月も蝶歌も、その言葉にはさすがに驚いた。

「それはちょっとまずいですわ。皇帝陛下に直訴するなんて、正気の沙汰とは思えませんよ。そんなことをしたら、こちらの身が危うくなりますわ」

「なぜだ」

「なぜって……。皇帝陛下は戦争のことだけで頭がいっぱいだと思うんですよ。今の陛下になってから、なかなか戦争が終わらないじゃありませんか。今はちょうど休戦中ですけど、

またいつ戦争が始まるかわかりませんしね。それなのに、そんなところへ私たちの訴えみたいな、陛下にしてみれば些末なことをお願いしたら、ご不興を買ってしまうんじゃないかと思うんですよね。下手をしたら罰を与えられないとも限りません。なんていっても今の皇帝陛下は鬼みたいに冷酷だって言うじゃありませんか」

 香月が言うと、蝶歌も賛同してくる。

「あ、それ私も聞いたことがあるわ。何でも徴兵したての若い子たちばかりで作った部隊を前線に送ろうとしたとか、皇帝陛下の意に沿わない上奏をした尚書様に、皇帝陛下が文鎮が投げつけたとか」

「いい噂はあまり聞きませんわね」

「……そうか。そういうものか」

 王凱は香月の言葉を反芻するように、しばらく考えに耽っていたが、長剣を持つとやおら立ち上がった。

「また来る」

 そう言うと、王凱は静かに帰っていった。

 良いところの坊ちゃんに世間の荒波を教えたのはまずかっただろうか。だが、いつかは彼も知らなければいけない時がくるものだ。

 しかしそれでも、その「いつか」を自分が教えるべきだったのかはわからない。

 香月が考え込んでいると、蝶歌が茶々を入れてきた。

「何、坊ちゃんを傷つけちゃったって? 良い男だもんね」

「そんなんじゃないですってば。もうその話は終わりにしてくださいな」

 どうも蝶歌は、香月と王凱をくっつけようくっつけようとしているようだ。

「何よ。あの男じゃ気に入らないって言っているの?」

「そうじゃありませんよ。そんなんじゃないんです」

 ただ王凱は名家の人間らしいので、香月とは釣り合わないだろう。黎元将軍の娘と言っても、向陽が将軍だったのは、香月が生まれる前の話だ。

 それに王凱とちょうど同じ年で亡くなったのだ。元婚約者の伯栄西は。それは香月の中で、結構大きな傷となって残っていた。

 だから先ほどの玖能とのやり取りで、王凱が無事でよかったとしみじみと思う。死なないでよかった。人が死んでいくのは辛い。たとえそれが店の常連客だとしても。

 あの時のような気持ちをもう二度と味わいたくない。つくづくそう思うのだった。



 翌朝、香月は飛鷹と、いつもより早く出勤してもらった万南と共に、散々散らかった店の掃除と、壊された調度品や家具を片付けた。

 覚悟はしていたものの、結構な数の調度品が壊され、皿や茶碗も八割がた割られていた。

「ちょっと待ってよ。算盤を持ってくるから」

 香月は店の奥から算盤を取ってくると、飛鷹と万南に壊された家具や調度品、厨房に残っている食器の数を言ってもらい、どれぐらいの被害が出たか計算した。

「あら~、これは大変だわ」

 もう一度買いなおすとなると、なかなかどうして馬鹿にならない金額である。

「う~ん、そうねえ。卓と椅子を減らす?」

「減らしたら、お客さんが困るよ。今だって満席なのに」

 飛鷹が反対する。

「そうよね。お皿とか茶碗は――」

「ないと商売になりません」

 万南が却下する。

「そうね。そうなのよね」

 香月は大きなため息をつく。

「もういっそ玖能に取り立てに行ってこようかしら」

 玖能の羽振りの良さからすれば、天運飯店の被害額など微々たるものだろう。半ば本気で香月が言っていると、

「失礼します。こちら天運飯店様でしょうか?」

 見知らぬ男が扉のところに立っていた。

「はい、そうですけど。何か?」

「ご注文のお品をお持ちいたしました」

「え?」

 何も注文した覚えのない香月たちが驚いていると、男は外に出て荷車に載せてある家具を、連れの男たちと一緒におろし始めた。そして呆気に取られている間に、手慣れた手つきでどんどん運び込んでいく。

 気が付いた時には、店の中は以前と同じように、いやそれ以上に良い品物が置かれていた。

「あの、これ、誰から」

「はい。王凱様からご連絡をいただきまして、こちらお昼から営業なさるということで、朝一で運ぶように言付かってまいりました」

「王凱さんから……」

 道理で店に置くのにちょうどいいものばかりなはずだ。しかも今まで店にあったものよりちょっと質が良くて、天運飯店に合う物ばかりだった。今までの天運飯店も雰囲気は良かったが、持ってこられた家具で、少しばかり上品な感じに仕上がっていた。

(だけどこれは受け取れないわ)

「運んでいただいて、大変申し訳ないんですけど、これは持って帰っていただけません?」

「ええ?」

 驚いたのは家具屋だけだった。飛鷹も万南も仕方がないと言わんばかりに頷いている。香月の性格を知り抜いているからこそである。

「いえ、そういうわけにはまいりません。こちらも商売です。すでに代金は頂戴しておりますので、持ち帰ることはできません。なんならそちらで処分していただくということにしていただきます」

「そんなもったいない!」

「ですので、こちらで収めて使っていただきませんと」

 香月と家具屋が言い合っていると、またしても見知らぬ男がやってきた。

「おはようございます。こちら天運飯店さんで間違いございませんよね」

「……はい。そうですが」

 嫌な予感がした。

 今度は食器だった。やはり今まで使っていたのもより質が良く、香月の趣味を知り尽くしたものだった。送り主は言うまでもなく王凱からだった。

「こちらも受け取れませんわ」

 かくして香月は朝っぱらから家具屋と食器屋の両方と返す返さないで、揉めに揉めていた。

 と、そこへひょっこり現れたのが蝶歌である。

「おはよう。朝からいったい何の騒ぎ?」

「おはようございます。それがですね――」

 飛鷹からおおよその話を聞いた蝶歌は、

「なるほどね。それならその家具と食器、うちでもらってあげようか」

 と親切に申し出たのだが、香月と家具屋、そして食器屋が申し合わせたように、

「駄目です!」

 と声を揃えて反対した。思わず香月たちは顔を見合わせ、三人とも吹き出してしまった。

 笑ったことで、それまで頑なだった香月の気持ちもなんだかほぐれた。せっかくの王凱の好意なのだ。意地を張らずに、たまには他人の好意に甘えてみてもいいかもしれない。

「わかりました。わざわざ持ってきていただいたんですから、このまま頂戴いたしますわ」

 その言葉に家具屋も食器屋もほっとした表情を隠しきれずにいた。そして香月の気持ちが変わる前にと、挨拶もそこそこに荷車を引いて帰っていった。

 飛鷹も万南も香月の気持ちが変わったことについては触れなかった。それよりも新しい家具や食器に感嘆の声を上げる。

「これはすごい。綺麗な食器ですね。大きさや形もいろいろ種類があって、重宝しそうですよ」

「姉さん、この椅子、座り心地いいよ。でもあんまりよすぎるとお客さんが長居しちゃうかもね」

「そうね」

 香月がにこにこ笑っていると、蝶歌がここぞとばかりに突っ込んでくる。

「どうしたの。あんたにしては珍しく素直じゃないのよ」

「たまには人の好意を受け取るのもいいかと思って。それにこの家具や食器の代金分までは、王凱さんの食事代はただにするつもりです。好きなものを好きなだけ食べていただきますわ」

 それでは家具も食器も香月が買ったのと同じことになるが、王凱の好意を受け止めたことは大きな違いだ。それに香月の矜持もわかる。錦凌で女が店を持ち、ここまで大きくすることは並大抵のことではない。それは同じ錦凌で芸館を営んでいる蝶歌だからこそ、理解できることなのだ。

「あんたらしいわね」

 蝶歌は納得したように笑みを浮かべた。






     4



 それからしばらく玖能は姿を見せなかった。天運飯店に被害をもたらしたことである程度満足したのかもしれないし、王凱にやられそうになったことが、彼のプライドを傷つけたのかもしれない。どちらにせよ香月にとっては、つかの間の安息の日々だった。

 王凱も以前よりまめに来るようになった。玖能を警戒してのことだろう。しかし玖能が姿を現さないので、もっぱら彼の腕は香月に言い寄るやもめに対して振るわれた。

「晋さん、こちら小籠包になります」

「ありがとう。そうだ香月ちゃん、今度花見に行かないかい? 良い場所があるんだよ」

「ありがとうございます、晋さん。ですが花見の時期は店が忙しいので、また今度お願いします」

「店が忙しいのはいつものことだろう? たまには息抜きもいいじゃないか」

「ええ、でも……」

 香月が口籠っていると、厨房に近い指定席に座っている王凱が口を挟んでくる。

「香月さんが困っているではないか。その辺にしておかれよ」

「何だって?」

 晋が王凱の方を向いて見とがめると、反対に王凱の鋭い視線に晒された。晋も玖能が店に来て暴れた時にいた一人である。なので、王凱の腕がどれぐらいのものかはよくわかっていた。

 晋はため息をつくと、香月に泣く泣く言った。

「ごめんよ。困らせるようなことを言って。また今度にしようね」

「すみません、晋さん」

謝る香月に、晋はこっそり呟く。

「……それにしてもこの店も、飛鷹君だけじゃなくて、もう一人護衛が増えたみたいだよ」

「え?」

「あ、いや、何でもない。こっちのことだよ」

 そう言うと晋は、何事もなかったかのように飯を食べている王凱の後姿を恨めしそうに睨み付けた。



 そんなある晩、最後の客を送り出した後、店の後片付けを終えると、香月は飛鷹、万南と共に夕食を食べた。万南が家へと帰っていった後、香月と飛鷹も店の二階にある居住部分へ移動しようとしていたところへ蝶歌が現れた。

「蝶歌さん。どうなさったんですか? お店はまだ営業中ですよね」

 蝶歌の営んでいる芸館・雲歌宴はたいてい朝方まで営業していた。

「うん。店の方は下の子たちに任せてきたわ。それより香月、これからうちに遊びに来ない?」

「蝶歌さんのお宅へですか? こんな遅い時間にいいんですか?」

「もちろん。飛鷹君も一緒にどう? 卓志も久しぶりに会いたがっているのよ」

 卓志は今年十三歳になる蝶歌の一人息子だ。

「どうする? 飛鷹」

「姉さんが行くなら、俺も行くよ」

「じゃあ決まりね。蝶歌さん、お邪魔します」

 店の二階に住んでいる香月たちと違い、蝶歌は錦凌の住宅街に家を持っていた。店から少し距離があるため、馬車で通っている。

香月と飛鷹もその馬車に乗り込み、蝶歌の家へ着くまでの間、馬車から錦凌の街を見ていると、休戦中とはいえ、あちらこちらに武装した兵士が見回っているのが嫌でも目に入った。普段は店か市場くらいしか出歩かないのであまり気が付かないが、こうして兵士たちの姿を見ると、街が緊張状態にあるのがよくわかる。

「なんとなく物々しいね」

 飛鷹が呟くと、香月も頷く。

「本当ね」

「そうか。あんたたちはずっと店の方にいるからね。私は毎日のことだからもう慣れたわ」

 蝶歌が笑い飛ばすように言っていると、間もなく馬車は一軒の家の前に停まる。立派な門構えの家だ。

「どうぞ」

「失礼します」

 香月と飛鷹が蝶歌の家に来るのは、これが初めてではない。何度か呼んでもらったことがあった。

錦凌の住宅街は富裕層が住んでいる。首都だけあって地価が高いので、蝶歌のように商売で成功している者や先祖代々家屋敷を引き継いだ者が住んでいる場合が多い。庶民は首都の中でも裏通りに建てられた長屋に住んでいることが多かった。そして貴族や官僚たちは、皇帝の住む龍呼城に近い場所に住むことがほとんどだった。皇帝にいつ呼び出されても、すぐ駆けつけることができるようにしているのだ。

「相変わらず綺麗にしていますね」

 蝶歌について、香月は渡り廊下を通りながら感嘆の声を上げた。中庭には桜の木が何本も植わっていて、今を盛りに咲いている。夜目にも白く浮かんで美しかった。

「そんなこともないわよ。たまに庭師に来てもらうぐらい」

 蝶歌は謙遜して言っているが、これだけ広い家を維持するのは金も時間もかかるだろう。

(すごいわね、蝶歌さんは)

 芸館も営み、家も人並み以上のものを手に入れている。その上、女手一つで子供まで育てていて、とても香月には真似できない芸当だった。

「さあ、どうぞ」

 香月の物思いを消し去るように、蝶歌が家の扉を開けた。と、同時に家の奥から走ってくる音がした。

「お邪魔します」

 香月と飛鷹が声を揃えて家へ入ると、卓志が顔を輝かせた。

「おかえりなさい、母さん。いらっしゃい、香月さん、飛鷹さん」

「こんばんは。卓志君、この間会った時よりまた背が伸びたんじゃない?」

「そうかもしれません」

 白い内衣の上に若葉色の袍を着た卓志は、照れくさそうに笑った。すでに蝶歌の背は追い越している。顔つきも大人びた様子になってきていた。

「俺の身長は越すなよな」

「どうかな。もしかするとそのうち超えちゃうかもしれないよ」

「何だと?」

 そう言いながら殴り合う真似をしている二人に、蝶歌は声を掛ける。

「玄関先で暴れないの。卓志はもう夕飯は食べたんでしょ?」

「うん」

「だったら卓志、飛鷹君と遊んで来たら?」

「いいの?」

 卓志が許しを請うように香月の方を見る。香月が頷くと、卓志は嬉しそうに飛鷹に言った。「飛鷹さん、庭に行こう」

「ああ」

 卓志に促され、飛鷹もその後をついていく。卓志は勉強も良く出来るが、母親を守りたいという気持ちが強く、そのためにも強くなりたいと願っており、飛鷹が遊びに来ると、いつも手合わせをしてもらっているのだ。

「じゃあ私たちは居間へ行きましょうか。あそこなら庭が見えるし、飲みながら話せるわ」

「いいですね」

 蝶歌に言われて、香月も顔を綻ばせる。


 居間には畳が敷かれ、卓と背もたれのついた椅子が四客ほど置かれていた。また部屋のあちこちに目にも鮮やかな節火地方独特の青い焼き物の花瓶が鎮座し、そこに色とりどりの花が飾られ、部屋に華やかな印象を与えていた。

「適当に座っていて」

「はい。失礼します」

 香月は答えて、庭がよく見える席に座った。

 するとしばらくすると、盆につまみのヒマワリの種と老酒を載せた蝶歌がやってきた。

「お待たせ」

「すみません。お手伝いもしないで」

「何固いこと言っているのよ。あんたと私の仲じゃない。それじゃとりあえず」

 蝶歌が香月の盃に老酒を注ぐと、自分の盃に酒を入れようとした蝶歌の手を止め。今度は香月が蝶歌の盃になみなみと老酒を注いだ。

「それじゃ改めて。乾杯!」

「乾杯!」

 飲みっぷりのいい蝶歌に煽られるように、香月も一気に盃の酒を飲み干す。

「う~ん。相変わらず酒が強いね」

「北生まれの北育ちですもの。あっちは寒くて、成人すぎると、皆毎晩酒で体を温めていましたから、これぐらいどうってことないですよ」

「これぐらいって、これ我が家の秘蔵、老酒の四十年ものよ」

「道理で美味しいと思いました」

 けろりとしている香月に、蝶歌は参ったと降参する。

 その間にも、香月の視線は庭で手合わせをしている飛鷹と卓志の動きを追っていた。二人ともいい動きをしていた。むろん本気を出せば飛鷹にかないっこないのだが、それでも卓志は前回来た時よりかなり腕を上げたようだ。飛鷹に打ちに行き、以前は五回に一回飛鷹の手のひらに当たれば良いぐらいだったが、今は三回に一回は確実に当ててきている。

「強くなりましたね、卓志君」

「……うん、まぁね。一応武術を習いに行っているからね」

「一応ってレベルじゃないですよ。あれは。だって実践用の型じゃないですか」 

 香月も、自身は父向陽から武術を習ったことはなかったが、幼いころから飛鷹を教えているのを目の当たりにしているので、そのあたりの事情には詳しかった。

「なんかね。『母さんを守るんだ』とかなんとか言っちゃってね」

「いい話じゃないですか」

「よくないわよ。あの子には玖能たちと関わってほしくないのよね」

「ああ……玖能ですね」

「そう。玖能」

 お互い顔と顔を見合わせて、ため息を吐いた。

「あれからとんと顔を見せませんけど」

「うちもよ。あれだけ頻繁に来ておいて、ご無沙汰も良いところ。ま、その方が商売に影響が出ないからいいけどね」

「ですね。うちも大助かりですわ。それにしても玖能はともかく古儀勝ですよ。あいつ、絶対玖能から金子をもらっていますよね」

 香月はまた盃に手酌で老酒を注ぐと、一口で飲み干した。

「わかりやすすぎるよね」

「でも憶測だけだと、『証拠でもあるのか』と一笑に付されそうですよね」

「そうね。玖能と古儀勝がつながっているのが立証できれば、玖能も今みたいに悪さが出来なくなるはずなんだけどね」

「私、証拠探しに行ってみましょうか」

 そう香月が提案すると、蝶歌の顔色が変わった。

「あんた、それだけは危ないからやめなさいよ」

「そんなに血相を変えなくても」

「あんたのことだから、釘でも刺しておかなきゃ、本当にやりそうで怖いよ」

 ある意味蝶歌の言葉は核心を突いていた。

「そうですか?」

 香月が首をかしげていると、蝶歌がそれまでとは打って変わって、にやにや笑いながら聞いてきた。

「それより坊ちゃんとはどうなっているのよ」

「坊ちゃん……、ああ、王凱さんのことですね」

「『王凱さん』! もう名前で呼び合っているのね」

 蝶歌はまなじりを下げた。それまでとは裏腹にうきうきした顔つきになっている。

「宗さんや楼さんたちも名前で呼んでいますけど」

「いいのよ、あんな爺たち放っておいて。それよりどうなの? 王凱さんとはどこまで進展があったの?」

 蝶歌は目の色を変えて尋ねてきた。

「進展があるもないも。王凱さんは良い客ですわ。うちの常連さんです」

「えー! 何それ。ちっとも色っぽくないじゃない」

「色っぽいって……。蝶歌さんこそ、何考えているんですか。もう」

 それからも蝶歌は根掘り葉掘り王凱のことを聞いてきたが、香月にはほとんど答えられないことばかりだった。

「何よ、本当にあんた、王凱さんのことを知らないのね」

 がっかりしたように蝶歌は言った。

「だから王凱さんは常連客の一人なんですよ」

「つまらなーい」

 蝶歌は口を尖らすと、もう何杯目になるかわからない老酒を飲んだ。それを呆れたような目で香月は見つめながら、

(だって向こうから話してくれなきゃ、こっちから色々聞くわけにいかないじゃないの)

 と、心の中で呟いた。



     5



 それは昼の仕込みがある程度終わったころだった。香月は気になっていた店の窓硝子を表通りに面した方から拭いていた。

 すると、通りの向こうに古儀勝が馬にも乗らず、歩いてどこかへ向かうのが目に入った。

(なんだか怪しいわね)

 都尉の仕事で市中を回るときは、ほとんどが馬に乗ってである。歩いてどこかへ向かうなどというのは見たことがなかった。

 香月は急いで店の中に戻ると、昼の準備をしていた飛鷹と万南に声をかけた。

「古儀勝が歩いているのよ。どこへ行くかちょっと見てくるわ」

「え?」

「姉さん、危ないよ」

「大丈夫。無茶はしないわよ」

 それだけ言うと、香月は桶と雑巾を置くと、古儀勝を見失わないように素早く店を出た。飛鷹が青い顔をしているのにも気が付かなかった。



 運よく馬車が何台も通っていて古儀勝の行く手を阻んでいたため、彼の姿を見失わずに済んだ。香月は適当な距離を保ちながら、古儀勝が歩いていく後をつけていく。

 やがて彼は一軒の賭場の裏口に入っていった。

(ここは……)

 香月も名前だけは知っている。「金剛石」という錦凌一と言っても過言ではない大きな賭場だった。そして玖能がここを根城にしているというのも有名な話である。

「やっぱりあの二人……」

 つながりがあるに違いなかった。古儀勝が「金剛石」に手入れをするというならが、一人で裏口から入るわけがない。

「どうしようかしら」

 このまま帰るのも癪である。しかし賭場の裏口には屈強そうな男が立って見張っていた。しばらく見張っていると、見張りの男が中から呼ばれているのが聞こえた。

「もう昼飯の時間ですかい」

「ああ、秦と交代だ」

「わかりました」

 見張りの男が賭場の中へ入っていく。ちょうど裏口はがら空きの状態になった。香月はこの時とばかりに、そっと忍んで「金剛石」へと入っていった。


 中は薄暗く、声がする方へ足音を立てないように静かに歩いていくのは至難の業だった。だがここで取り逃がすわけにはいかない。

 香月が用心深く歩いていくと、聞き覚えのある声が話しているのが耳に入ってきた。古儀勝と玖能だ。

「だからこれ以上派手にやるなと言っているんだ。あんまり目につくようだと俺だってかばいきれなくなる」

「へ、旦那らしくもない。それに相応のお礼はさせてもらっていると思いますがね」

「おまえ……。この俺を脅しているのか」

「脅すなんてとんでもない。錦凌の都尉、古儀勝様を脅すなんて滅相もありませんや。でもね、旦那。もうちょっとなんですよ。もう一息でこの錦凌にある店が、俺の支配下に――」

 そこまで聞いた時だった。香月がもう少しよく聞こえる場所へ移動しようとしたとき、何かを足で蹴っ飛ばしてしまった。

 静かな部屋の中で、その音が異様に大きく響き渡る。

「誰だ!」

 玖能の声に、香月は慌ててその場を逃げ出した。すると賭場にいた玖能の配下の者たちが、一斉に飛び出してくる。

 香月の心臓は爆発しそうに痛くなった。ここで捕まったら一巻の終わりだ。香月は走って走って走り抜いた。

 しかしいくら頑張っても、相手は男たちだ。速さが違う。それに賭場の中の位置関係が香月にはわからない。とにかく来たところを戻るしかない。

 そうしてようやく裏口に到着して、息も絶え絶えに開けた途端、横から伸びてきた手が香月の口を塞ぎ、物陰に引きずり込んだ。

「む! んぐぐぐっ!」

 てっきり玖能の手下かと思って暴れると、聞き慣れた声が耳に入ってきた。

「私だ。王凱だ。そう暴れないでくれ」

(王凱さん?)

 その言葉におとなしくなると、香月の口を塞いでいた王凱の手が外された。と、同時に裏口から玖能の手下が出てきた。

「どこへ行きやがった」

「まだそう遠くへは行っていないはずだ。探せ!」

「はい!」

久能の手下たちは目の色を変えて、香月の行方を追っていた。すんでのところで助かったのだ。

 それでも玖能の手下たちが四方八方に散っていくと、ようやく香月もほっとした。もう声を出しても大丈夫となった状況になると、香月は王凱に礼を言った。

「王凱さん。どうもありがとうございました。お陰様でなんとか助かりました」

 ところがそう言った香月を待っていたのは、王凱の予想だにしない怒りだった。

「ちょうど飯を食いに行ったら、万南さんと飛鷹君から君が古儀勝の後をつけていったって聞いたんだ! 久能のアジトじゃないかってね。一人でこんなところに来て危ないとは思わなかったのか! 無事だったからよかったものの、もし捕まっていたらどうなっていたと思うんだ!」

 いつも香月に対しては穏やかな顔しか見せていなかった王凱の真剣な憤りだった。

「……ごめんなさい……」

 そう呟くように謝ったものの、どうしたことだろう。不意に香月の胸が高鳴りだした。ドキドキする気持ちが止まらない。

 これはいったい何なんだろう。しかしこの気持ちは味わったことがある。もう十年以上前、伯栄西に感じていた気持ちと酷似していた。

(私……、私、もしかしたら)

 そう。そうなのだ。香月はいつの間にか王凱のことを好きになってしまっていたのだ。良いところの坊ちゃんで、世間の荒波を知らず、それでもいつも香月が危ないときに助けてくれるこの年下の男のことを――。

(どうしましょう。どうしたらいいの……)

 まるで少女のように、自分の気持ちにあたふたしている香月が顔を上げると、彼女を見守っていた王凱と目と目が合ってしまった。

 たぶんこんな至近距離で見合ったことはなかった。香月の顔が急に赤く染まる。と、それを見ていた王凱も、ふと顔を赤らめた。そこだけ空気がやたら熱いように感じる。

 それを振り払うように、王凱は言った。

「今なら手薄だ。ここを出るぞ」

「はい」

 王凱は香月の手を取ると、玖能の手下たちが戻ってくる前に急いでその場を離れた。



 脱出は成功したものの、それ以来どうにも香月の心臓がおかしい。急にドキドキしたり、落ち着かなくなったりする。

 特に王凱が来るともうだめだ。まともに顔を見られない。

「あ……、いらっしゃいませ」

「どうも」

だがそれは王凱も同じようで、天運飯店に食事をしに来るのは以前と変わらないのだが、香月と視線を合わせようとしなかった。明らかに二人とも意識している。

その様子に首をかしげているのが万南だった。

「あの二人、どうしちゃったのかな」

「そんなの俺にわかるわけないだろ!」

 万南の問いに、ぶっきらぼうに答える飛鷹だった。



     6



「万南、悪いけどちょっとこれ、味見してみてくれないかしら?」

「いいですよ。今日は肉入り饅頭ですか」

「ええ。これだと食べるのにもそんなに時間がかからないと思って」

「そうですね。では失礼して」

 ちょうど昼の仕込みに入っていた時だった。香月が万南と来るべき昼食のおすすめ料理を着々と用意していると、急に外から悲鳴が聞こえてきた。

「いや~! やめて! 離して!」

 途端に香月と万南は顔を見合わせた。店の卓を拭いていた飛鷹も、厨房に顔を出す。

「ねえ、今のってさ」

「蝶歌さんね」

 雲歌宴からだとしたら、絶叫だろう。天運飯店までは一角隣なので少し距離がある。それでもあれだけ聞こえたのだ。

「万南、悪いけどちょっと見てくるわね」

「ええ。こっちは私がやっておきますから」

「申し訳ないわね。飛鷹、行くわよ!」

「うん!」

 香月は飛鷹を伴って雲歌宴へ急いだ。どうか気のせいであってほしい。そんなむなしい祈りを胸に秘めながら。

 豪華絢爛な造りの雲歌宴は、蝶歌が贅の限りを尽くして、建てたものだ。門をくぐると、牡丹の花が庭一杯に咲き誇り、夜になると蠟燭を入れて明るさを演出できるように、木々には照明器具がぶら下げられている。障子を開けると、庭に面した部屋からは、庭園が見渡せるようになっていた。

 部屋には凌央の国の東に位置する計の国で作られた硝子の置物が置かれ、上部には凌央の国を代表する書家、玄冬が書いた書が掛けられている。

 どの部屋も蝶歌が手をかけて作り出した美が込められていた。

 それが今踏みにじられようとしていた。

 果たして、香月と飛鷹が雲歌宴に着くと、すでに玖能とその手下たち十人ほどが乗り込んできていた。蝶歌が綺麗に飾り付けていた部屋の調度品は粉々にされ、障子は破られ、見る影もなかった。夜だと名のある人間が遊びにやってくるので、客の来ない昼間の時間を狙ってきたのだろう。しかもそれだけではない。卑劣なことに玖能は卓志を人質に取って来ていたのだ。

「離せ! 離せよ!」

 卓志は身を捩って、何とか縄から抜け出そうとするが、そんなことではびくともしないぐらい頑丈に縄で縛られていた。

(なんて汚い真似をするの!)

 香月が憤りを感じていると、首筋に剣をあてがわれている蝶歌は、剣を持って彼女を威圧している玖能に悲鳴のような声を上げる。

「その子を離してよ! 玖能! 子供は関係ないでしょ!」

「ああ? 関係ない? 関係なくはないだろう。おまえの大事な息子なんだからよ」

 そう言って高笑いをする玖能に、庭にいた香月は思わず声を荒げた。

「汚いわよ! 玖能!」

 その声に玖能が反応した。何もかもが壊された部屋で、一人しゃれた木彫りの椅子に座って、王様然としていた玖能が庭を見た。

「おや、これは香月さんかい。こりゃ役者が揃ったな。ちょうどいいや。ま、こっちへ来いや」

 本当ならば玖能の言いなりになどなりたくなかったが、彼の手元には卓志がいた。両腕を後ろ手に組まされ、縄でぐるぐる巻きにされ、手下が卓志を逃げないように縄の先を持って監視をしている。

 渋々庭から部屋へ上がる香月と飛鷹を見て、玖能は留飲を下げた。

「蝶歌姐さんに香月さん、か。ここ錦凌でも知らぬ人はいない名店の店主様ときた。そして揃いも揃ってこの俺様の誘いを断っていらっしゃるお二人さんか」

 玖能は指を鳴らすと、手下の一人が胸元から恭しく書類を出した。

「さあ、どうする。お二人さんよ。おとなしく俺の傘下に入ることを誓うか。それとも可愛い坊ちゃんに泣いてもらうか」

 その言葉に飛鷹が久能に向かう態勢を取る。しかし香月が手でそれを押しとどめた。飛鷹なら確実に卓志を救うことはできるだろう。だが、それと同時に玖能が蝶歌をしとめる危険性があった。反対に蝶歌を助ければ、卓志の命が危なかった。危険な賭けは出来ない。

「どうするね、香月さん。ここに署名して押印してくれれば、こんな騒ぎすぐに終わるぜ」

「駄目よ! 香月! こいつの言うことなんか聞いちゃ駄目! あんたはここのこととは関係ないんだから!」

 気色ばんで蝶歌が反対すると、玖能の形相が変わった。椅子から立ち上がり、剣をひっこめ、その代わりに蝶歌の頬を殴った。

「余計なことは言うな! 引っ込んどけ! ババア!」

「ちょっと! 乱暴なことはやめなさいな!」

 殴られて畳に飛ばされた蝶歌のそばへ、香月は急いで行った。

「大丈夫?」

「私は平気よ。ごめんね。大変なことに巻き込んじゃって」

「水臭いわよ、蝶歌さん」

 二人で慰めあっていると、苛立ったように玖能が言い募る。

「おうおう。二人して何こそこそしてやがるんだ。署名するのか、しねぇのか!」

 香月は殴られて頬を腫らしている蝶歌と、玖能の手下に捕まって縄でがんじがらめに縛られて苦しそうな卓志を見た。

(……仕方ないわね)

 香月は覚悟を決めた。

 ここで玖能の言うことを聞かなかったら、二人の命はないかもしれない。

「姉さん」

 心配そうな飛鷹に、ちょっと笑って見せると、

「わかったわ。契約書とやらを貸して」

「おう。そうこなくちゃな」

「香月!」

「香月さん!」

 ご満悦そうな玖能と反対に、蝶歌と卓志が反対の声を上げる。

「いいのよ。命には代えられないわ」

「さすが香月さん。物分かりがよくて助かるね」

 香月の前に契約書が差し出される。ご丁寧に携帯用の筆と墨入れまで出してきた。こういうことに慣れているのだろう。

 内容を一応確認してみる。やはり思っていた通り、売り上げの半分以上を玖能に収めることになっていた。これを飲み、家賃を払えば、香月たちの利益は雀の涙ほどしかなくなる。万南に給料を払えるかどうかもわからないから、辞めてもらうしかない。そうすると店が回らなくなるのは目に見えていた。

 結局この契約を飲めば、天運飯店は今まで通りの品質を提供できなくなり、廃業するかもしれない可能性が高かった。

「あなた、馬鹿ね」

「何だと?」

「こんな契約で、本当にやっていけると思っているの? もう少し考えてみなさいな。あなたの傘下に入ったって、店がつぶれてしまったら、あなたの取り分なんてどこにもないのよ」

 香月の冷静な指摘に、玖能は青筋を浮かべて怒鳴り散らした。

「うるせぇ! 黙って従えばいいんだよ! ほかの店はこの条件でみんな飲んでやっているんだ!」

「……どうせ、あなたが傘下に入れる前より、どの店も売り上げが落ちているんでしょうね」

「どうしてそれを――」

「わからないわけないでしょう? わからない方がよっぽどどうかしているわ」

 香月があきれ返って答えると、それがますます玖能の怒りを助長させた。

「てめぇ、さっきから言いたい放題ぬかしやがって。とっとと署名しろって言うんだよ! 蝶歌とこっちの息子がどうなってもいいのかよ!」

「……わかったわ」

 香月が観念して、筆を墨入れに入れた時だった。

「そこまでだ! 玖能!」

 どこかで聞いた声だった。香月が思わず手を止めて振り返ると、兜と鎧を身にまとった古儀勝達都尉が雲歌宴に現れた。そして驚く香月や飛鷹、蝶歌や卓志を尻目に、古儀勝達は玖能たちめがけて突進し、続けざまに逮捕し始めたのだ。

「え……、どういうことなの……?」

 香月は目を丸くした。古儀勝は玖能から賄賂をもらって、彼らの所業を見て見ぬふりをしていたのではないのか。

 しかしそれは玖能も同じだったようで、不意を突かれたように都尉に後ろ手に縛られて、最初は口もきけないありさまだった。だが、自分だけでなく、手下たちも次々と捕まっていく様子に、ようやく我に返り、古儀勝に抗議する。

「旦那、一体これは何の冗談で」

「冗談ではない! 子供を人質に取り、雲歌宴に勝手に押し入り脅迫するなど許されることだと思うのか!」

「ええ! 旦那、今更そんな……」

「うるさい! ともかく話はあとでたっぷり聞いてやる。それ! ひったてぃ!」

 古儀勝が言うと、部下たちは玖能をはじめ手下たちを引き連れていった。

 香月たちは呆気にとられるばかりだ。どういうことなのだろう。

 すると古儀勝の後方で、腕組をして彼らの働きぶりを監視しているらしい見慣れない顔が目に入った。都尉たちがつけている鎧や兜より、もっと立派で高そうなものを身にまとっている。

(誰なのかしら)

 不審に思っていると、玖能たちを全員引き連れていった後、古儀勝が戻ってきて、その男にペコペコしながら尋ねた。

「監御史閣下。これでよろしいでしょうか」

「ああ」

 監御史が重々しく頷いた。その言葉に香月は驚いた。まさか本当に監御史が来てくれるとは! 庶民の事案など、鼻にもかけないと思ったのに、どうしたことだろう。

 しかし古儀勝は監御史の言葉にほっとしたらしく、何度もお辞儀をしながら玖能たちを引き連れて雲歌宴を後にした。

「あの……、ありがとうございました。お陰様で助かりました」

 どこから何を聞けばいいのかわからず、とりあえず香月が監御史に礼を言った。

「いや、これはだな」

 監御史が口籠っていると、思いもかけない人物がやってきた。

「遅くなった。どうだ、終わったか」

 王凱だった。

 すると監御史は慌てて王凱の方を向いた。

「は、お言いつけ通りに。あとはいかがいたしましょう」

「厳重にな」

「御意」

 監御史は王凱に恭しく首を垂れると、そのまま馬に乗って引き返していった。

 まさしく一陣の風のような出来事だった。

 それは香月だけでなく、飛鷹も蝶歌も、そして王凱に縄を解いてもらっている卓志にとっても同じことだった。

 皆、ただただ呆然とするのみである。

 すると、王凱が縄を解いた卓志を蝶歌に渡してやりながら言い訳するように言った。

「いや、ちょうど知り合いに監御史がいたんでな。ずっと調べさせていたんだ」

「え……? お知り合いに?」

「ああ。玖能が錦凌の街を食い物にしていた証拠がやっと揃ってな。それにこの雲歌宴の様子を見れば、玖能の所業は明らかだから、罰せられるのは間違いない。それから都尉の古儀勝だったか。あいつも玖能から賄賂をもらっていたのは調べがついたから、厳罰に処せられるはずだ。ともかく玖能が牛耳っている店の範囲が広くてな。それで思ったより時間を食ってしまった。蝶歌殿、ご子息ともども怖い目に合わせてしまい申し訳なかった。香月さんも肝を冷やしただろう。すまなかったな」

「そんなすまないなんて……。王凱さんが助けてくれたようなものじゃないですか」

「そうですよ。あのままだったら、うちの店だけじゃなくて、天運飯店まで危うく玖能の傘下に入れさせられるところだったんですから」

 知り合いに監御史がいるなんて、いったい王凱は何者なのか。そこまで名家の人間なのか。――多分そうなのだろう。

 もしかしたら香月ごときが、気安く話せる相手ではないのかもしれない。けれどもそれでもいい。

 こうして香月たちのために助けてくれたのだから。力を尽くしてくれたのだから。本当だったら王凱の胸に飛び込んでしまいたいぐらいの気持ちでいっぱいだった。もちろん人目もあるし、年増のいかず後家にそんなことをされたら王凱が困るだけなのは、香月も十分承知していた。

 だから、心を込めて言った。

「おかげさまで助かりました。本当にありがとうございました」

「いや、そんな大したことはしていないから」

 王凱はらしくなく照れくさそうに笑ったが、香月に礼を言われてやはり嬉しそうだった。







文字数が足りなくなりましたので、2に続きます。


よろしかったら、続きも読んでみてください。


よろしくお願い致します。

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