ご褒美、ほしい?
私はゆっくりとゆっくりと、瞳を開いた。
部屋は明るい。部屋の明かりとは違う柔らかな光だから、朝になったんだ。そう思った。
ぼんやりとした頭のまま、目の前の景色を眺めた。
伏せられた睫が、きれいな人がいる。少し手を伸ばせば届く距離。陶磁器みたいな透明感のある肌。……この肌は、触れたらひんやりしているんだろうか。
そんなことを思って、頬に手を伸ばす。
……触れた指先から、温かみを感じた。
人のぬくもり、人の温度だ。
「ん……」
触れたからだろうか、目の前の人物が身じろぎをしたので、慌てて手を引っ込める。ついでに、180度回転して反対を向く。
目覚めた彼――優ちゃんと、間近で目を合わせる自信はない。
「深月?」
聞き慣れた声。起きたばっかりのはずなのに、その声は、クリアで、ゆとりがあって、とても寝起きとは思えない。
私は、反射的にぎゅっと目をつぶった。とりあえず、この近すぎる距離感で目を合わせづらくて、寝たふりをしよう、と思ったからだ。
すると、肩に手をかけられ、のぞき込まれた……ような気がした。
平常心、平常心。
目をつむったまま、やり過ごす。
何とかやり過ごせそうだ、そう思ったのに……触れるか触れないか、のゆるやかさで耳の縁をなぞられた。
っっ!!
一瞬、身震いしそうになる。
私は、奥歯をかみしめて、何とか堪える。
それで、すぐに離れてくれれば良かったけど、離れる気配がない。
視線を感じる。でも、ここまで来て今さら目を開けられない。
私は、ひたすら目を閉じていた。
その内に、顔に手を添えられた。
そして、ふぅっと、耳に息を吹きかけられる。
「っっひゃあぁっ」
途端に、背筋がびくりと震えてしまった。
思わず目を開ければ、ニッコリと微笑む優ちゃんと目が合ってしまう。
横になっていたはずなのに、優ちゃんの髪はきれいに上げられていて乱れが一つもない。
……えーと、笑顔が怖いのは、気のせいでしょうか……。
「優を欺こうなんて、いい度胸だね?」
「だ、だって何で私のベッドに居……」
言えなくなる。たった一瞬。
その一瞬で、唇を塞がれてしまう。
舌がなめらかに入り込んできて、濡れた感覚に、頭が蕩けそうになる。
離れようとすると、奥に滑り込まれて、少しだって抵抗できない。
結局、たっぷりと感覚を味わうように何度も混じり合う。
それから、そっと離れた。
「……優ちゃん……!」
ほぉっと息をついてから、優ちゃんを見据える。優ちゃんはしれっとした態度だ。
「深月が寝たふりなんてするから、悪いんじゃない?」
「そ、そんなことない! そもそも何で私のベッドで寝てたの!?」
身体を起こして、改めて優ちゃんを見た。
よく見てみれば、優ちゃんは制服を着ていた。帰ってそのまま、私の横で寝たんだろうか……。
……あぁ、そういえば、優ちゃんからいつもと違う匂いがした気がする。優ちゃんは、ヴァレンタインデーだと、男子からチョコをもらってくるときがあった。
……何故か、男子から。
でも、最近はチョコは受け取らないと公言したみたいで、代わりにバラの花束をもらって帰ってきたりする。
だから?
いつもと違うバラの匂いがした。緑茶のような凛とした、でも仄かに苦味を残す香り。いつもの溺れてしまうような奥深い香りは、薄い。
知らない匂い……。
そんな些細なことに、気持ちがざわつく。
そんな感情がわき上がるのが、少し、怖い。
「オマエが、白状にも先に寝てるから」
優ちゃんの声にハッとする。優ちゃんは、手を伸ばして、ベッドの端に追いやった袋を掴んできた。
「これ、優のでしょう?」
優ちゃんは、ビビットピンクの手のひらくらいの袋を手にとる。
「あ、うん、そう。……ごめんね。昨日渡すつもりだったんだけど……」
「別に、構わないけど?」
袋の中から出したのは、親指サイズのシルバーの箱。
その中身は、優ちゃんご要望の『ルージュ型』のチョコだ。
――うん、あの唇につける、ルージュだ。
言われなければ、普通にメイク用品と勘違いしそうだった。
優ちゃんがくるくる回せば、ルージュの芯が出てくる。ビビットピンクに金のラメが混ざっていて、……この部分がチョコらしいのだけど……。
これ本当に食べられるのかな……と、買ってきた今でも疑っていたりする。
「それより深月、よく寝られた訳?」
「…………うん」
ふいに、気遣われてるような言葉をかけてくるから、ふわふわした気分になる。
昨日は……
……あったかくて心地よかった……。
昨日のぬくもりを思い出しながら、ふと気づく。
「……もしかして、優ちゃん……」
――私が泣いているのを見てた? そう、額にも唇にも感じた温かみは――もしかして、私に、キスをしてた?
思ったけれど、さすがにそのまま聞くのはできなかった。
だから、違うことを口にする。
「ええっと……優ちゃん、おかえりなさい」
「……ただいま。ねぇ、深月」
優ちゃんの笑みが、ぐっと深みを増す。指先ひとつ、下からすくい上げられるように顎に添えられる。
「待たせたお詫びの…………ご褒美、ほしい?」
顎を固定されたまま、持っていたルージュを、唇に寄せられた。
「コレ、つけてみる?」
「つ、つけてみるって……チョコだよね?」
「チョコだから、だよ」
二の腕を引き寄せられた。簡単に距離を詰められて、唇をぺろりと舐められる。
「!! な、何……」
「濡れてるほうが、発色いいでしょう?」
「えぇ? チョコなのに……色つくの?」
買ったのは、あくまでチョコだ。確かにかわいいピンク色ではあるけど、色なんてつくんだろうか。
「チョコだから、溶ければつくよ」
優ちゃんは、自分の親指の根元にルージュの先をのせた。
鮮やかなピンクが、肌に色づく。
「ね?」
優ちゃんは、チラリと目を合わせ、今度はそのルージュチョコを私の唇に、丁寧に塗り広げていく。
「ふ、普通に食べた方がいいと思うんですけど……」
わざわざこんなコトをする理由は、ないような気がする。
「そう? この方が絶対、ハマると思うけど」
いつもそうだ。
え、と思う間もなく、
甘く、キスをされる。……実際、甘い。溶けたチョコの甘さが口に広がった。
ただそれだけで解きほぐされて、流される。溺れる。唇を何度もなぞられて、熱い吐息が漏れた。
「ん……優ちゃ……」
甘さをたっぷりと行き渡らせるように口内をなぞられて、熱に浮かされたようになる。こぼれてしまう涙が、何に対してなのかわからない。
「ねぇ、最近、よく泣いてる?」
静かに囁かれたのに、ハッとした。……やっぱり、泣いているのを見られていた。
「そ、そんなことは」
「あるよね? 一人で泣いていいと思ってる訳? ……寂しいのなら、優のベッドに来るべきだと思うけど」
「でも」
「……オマエの意見は聞かないよ」
「優ちゃ……ひゃあっ」
ふぅっと、耳に吐息をかけられた。それだけで、ぞわぞわと背筋に何かが走る。
「くすくす。ほんと、耳、敏感だよね、…………ねぇ、黒バラの花言葉、覚えてる?」
黒バラ。
そうだ。ピアスホールを開けた日、優ちゃんが言っていた。私にバラを渡すなら黒バラにする、と。
優ちゃんの滑らかな指が、耳の縁をなぞっていく。優しく、じんわりと、溶かされていきそうになる。
「『貴方はあくまで私のもの』……その涙まで、ね」
私の目尻の涙が、優ちゃんの触れた指に伝っていく。
手の甲まで落ちてきた涙を、優ちゃんがペロリと舐めとった。
「でしょう?」
まっすぐ見つめられて、思わず視線を外す。
惑いなく、射貫くようにこちらを見るから、私の方がすぐに耐えられなくなる。何もかも見透かすその瞳を、まともになんて見ていられない。
熱い。
……熱に溶けたのはチョコじゃなくて、私の方なのかもしれない。
「深月」
キスが降ってくる。
近づけば、いつもの優ちゃんの深いバラの香りがした。それと一緒に、うっとりとするような、チョコの匂いもした。
口づけられる度に、ほろ苦い気持ちがない交ぜになって、心地よい甘さが広がる。
それは、初め冷たい気がしたのに、溶け合って、熱をもつ。
一番冷たかったはずなのに、一番、熱くなる。
むせ返るほどの甘さに、纏い包まれてしまう。
もうすこし、このまま……。
そう、願う自分がいる、
いつの間に、こんなに自分から求めるようになったんだろう。
わからない。
でも、まだ、此処にいたい。
――わたしは、ちゃんとずっとまっていたんだよ。だから――
もう、どこにも行かないで。
チョコが口の中でトロリと蕩けるように、私の気持ちも唇の奥でトロリと蕩けた。
来月は、『ホワイトデー』をテーマに(ホワイトデーは過ぎると思いますが……)書く予定です。
ヴァレンタインとは違う甘さの話にしたい、と思ってます。
楽しみに待っていただければ、幸いです。
読んでいただき、誠にありがとうございました。