女王様のおねだり
「ヴァレンタインチョコ?」
優ちゃんが部屋に戻ってきてから、チョコレートの話を切り出してみた。
私は、すでにモコモコパジャマになっていたけど、優ちゃんはまだパフスリーブの制服姿だ。
休日に店を回って決めようか、とも思ったけど、やっぱり今年は聞いてみることにした。去年まで、私の一方通行なものを渡してた訳だし。
そう思って聞くと、優ちゃんは、口角をキレイに上向けた。その笑みのどこかに、意地悪いものを含ませながら。
「ふぅん? てっきり、今年も優に【みたらし団子】を渡そうとしてるのかと思ったけど」
「だって去年、優ちゃんが、みたらし団子は欲しくないって言ったでしょう?」
「そうだね。深月が覚えてるとは思わなかった」
「優ちゃん……」
思わず口をとがらすと『冗談だよ』と、艶のある声を返してくる。
「そうだねぇ……。優、実は欲しいチョコあるんだよね。ソレ、くれない?」
「欲しいチョコ?」
優ちゃんは頷くと、ポケットから、金色の縁が光るメモ帳を取り出す。そして、同じようにポケットから万年筆をとり、サラサラと何かを書く。
「メーカー名とチョコの商品名。今は、時期だから基本どこでも取り扱ってるんじゃない?」
万年筆を革のケースにしまいながら、メモを一枚渡された。
「?」
私は、思い切り首をかしげる。
カタカナで書かれたそれは、聞いたことのない名前のものだった。
そして、2月14日のヴァレンタインデー。
事前に買っておいたご希望のチョコを渡す日、だけど……でも、まぁ、そういう日に限って優ちゃんは【撮影】で、昼間からいなかった。
『夕方には帰れると思うよ?』
そう聞いたのに……もう夜だ。
ため息をついた。
こんなことなら、朝渡したほうが良かったかも……。朝は、わたしがすっきり目覚められないから、午後に渡そうと思っていたのに、もう点呼の時間も、終わってしまった。
たぶん、届け出は出していて、許可は下りてるんだろうけど……それにしたって、遅い。
さすがに、もう帰ってくると思うんだけど。
私は、チョコの入った袋を手にしながら、ベットに倒れ込んだ。
……別に、ムリに今日あげなくても明日だって、渡せればそれでいいんだけど。
でも、
……会いたい。
――なんて、何を考えているんだろう。
朝だって会ってる。
毎日、顔を合わせている。
会っているのに、会いたい、なんて何を言っているんだろう。
チョコの袋を、ベットの端に追いやる。
目を閉じて、まぶたに腕をかざした。
少しでも、思考回路を優ちゃんから離そうと思って。
いつ帰ってくるかが気になって、何も手につかないなんておかしい。
私は、もっともっと、しっかりしたい、そう思っていたはずなのに。
「……」
目を閉じて、呼吸を整える。呼吸だけに意識を集中させると、少し落ちついてくる。
暗闇に寄り添うように、ただ呼吸をする。
居心地が良い。
ゆったりとした気分になって、自然に意識が遠のく。
私は、気づけば意識を手放していた。
――――次に見た景色は、懐かしい思い出。
昔、暮らしていたアパート。
ママと二人。パパはいない。あの時のわたしは、知らない。
でも、ままは【しらないおとこのひと】のところへいくと、しっている。
『良い子にしてるのよ?』
『……うん、いってらっしゃい』
なるべく、笑う。良い子に見えるように。外は、暗い。
でも、ママは出かける。
ママに振っていた手は、やがて用済みになって、ゆるゆると下ろす。
ママのぬくもりは消えて、わたし一人が残される。
がらんとした部屋。
つけっぱなしのテレビと、白色の蛍光灯。
テレビの声が、賑やかにさわぐ。たくさんの声が、笑う。
こんなにも明るい部屋にいて、こんなにも楽しげな声を聞いても、
「……ママ」
なんとも思わなかった。
心にぽっかりと、穴が開いたみたいだ。。
穴の先は、何もない。何も見えない。ずっと、見えない。
くらいさむい。
――違う。そんなことない。
おかしい。
だって、こんなまぶしい部屋にいる。
おかしい。
だってこんな暖房の効いた暖かな部屋にいる。
ここは暗くない。私は寒くなんてない。
ここはあかるいここはあたたかい。
……なのに、何で……
頬につぅっと、何かが伝う。
このしょっぱいものは、何だろう。
これは、何なんだろう。
わたしは寂しくなんてないのに。少しも寂しくなんてないのに。
なのに何で――
わたしは泣いているのだろう。
――だから、わたしはけっして、ママのようにはならない――
「…………?」
自分が泣いている、と気づいた側から、誰かが頬の涙を拭う感触があった。
その指先が、心地良い。
熱い涙を冷ますように、丁寧になぞられる。
気持ちいい。
優しく、顔のラインに沿うように触れられて、満たされるような心地になる。
ぬるま湯につかっているみたいに、心地いい。
――優ちゃんかもしれない。
そう思って、まぶたを開けようとするのに、できない。
まだ、ここにいたい。
水面にたゆたうように、揺られていたい。
でも、優ちゃんに一言、言いたいことがあるんだ。
『お帰りなさい』
声にならない言葉を呟く。
呼応するように、額に温かみを感じる。
やわらかくて、あたたかい何か。
同じぬくもりを、今度は唇に感じた。
……あったかい。
ここはさむくない。ここはつめたくない。……ここは、あたたかい。
側にあるホッとする温度に、また、まどろむ。
わたしは、ちゃんとずっとまっていたんだよ。だから――
――今度こそ。
起きたら、優ちゃんに『お帰りなさい』と言おう。
きっと、きっと、笑い返してくれるから。
そんなことを心に決めながら、私の意識は、海の奥へと奥へと潜るように、溶けていった。