この世界は二人だけ
月が見える。
三日月。
誰かがニヤリと笑っているようにも見える、そんな月の形。
月の淡い明かりは、仄かに、木や周囲のバラ達を浮かび上がらせる。
ぐぅ。
その静かな景色とは場違いな、ゆるい音がお腹から聞こえた。
……やっぱり、お腹減ったかも。
普段なら、食堂でご飯を食べ大浴場へ行く時間だ。
なのに、私はバラ園近くの木の枝に腰掛けたまま、そこでひたすら月を見上げていた。
ため息ひとつ。
何でこんなところに居るかなんて、それはもちろん【優ちゃん】のせいだ。
私はどうしても、寮に戻ることができなかった。
優ちゃんと旧校舎で別れてから、私は少しの間、教室のベランダで縮こまっていた。
気づけば下校時刻で、慌てて寮へ行こうとして……足を止めた。
部屋に行きたくないのはもちろん、優ちゃんと顔を合わすのさえ、気まずい。
エントランスでも、食堂でも、自習室でも、顔を合わせてもまともに会話できる自信がない。
結局、決められた食事時間をすっぽかした。もう、たぶん入浴時間も終わる。
基本的に、食事も入浴も時間が決められてるから、今日はお腹すいたままお風呂入らないまま過ごすしかない。この後は、自習時間になるけど……
問題なのは、自習時間後の【点呼】だ。
いないのは、やっぱ良くないよね……。
廊下にでて、名前を呼ばれる。いないのを誤魔化せそうには、ない気がする。誤魔化せたとして、その後どうすればいいんだろう……。わからない。
はぁ。
ため息をつく。
点呼だけ戻る? ……戻ったら、戻ってこれなそうな気がする……。
とりあえず今、優ちゃんに見つからなさそうな場所を考えて、バラ園裏手の木に座っている。
U字型の太めの枝で、ちょうど座れそうだったから。
ついでに、低い位置に足がかりになる幹があって、割とひょいと登れた。
そして、そのもう一段上の木でぼんやりと過ごしていた。
木の葉はなくなってきていて、割と見晴らしがいい。ここなら少し落ち着いていられそうだ。
他の場所も考えたけれど、バラ園の中も、綾乃ちゃんの部屋も、エントランスも、全部優ちゃんが顔を出しそうに思えたから。
でも、だからといって、これからどうするか、何も思い浮かばない。
。
もういっそこのまま、寝ようかな。なんて、落ちるか……。でも、二階のベットから落ちたことは今のところないし……。
そんな、とりとめないことを考えていた。
「――深月って、時々奇想天外なこと、するよね?」
この声がするまでは。
「ゆ、優ちゃん……?」
恐る恐る振り返る。まさか、と思う一方で、――この声を聞き間違えるはずがない。
射貫くようなその声音は、間違いなく、私に向けられている、ように思えた。
「こ、こんばんは……」
振り返った先、はちみつ色をした目に捕まる。
「はぁ? 優を馬鹿にしてるの?」
「イエ、滅相もゴザイマセン」
うわぁ……女王陛下はご立腹のようです。
優ちゃんは木の根元まで来ると、腕を組みながら私を見上げてきた。
「そう思うなら、早く降りてきたら? ……もうだいぶ寒くなってきてるから、風邪ひくよ」
「……お、降りない」
「……」
ピシィッと、空気が凍りつく。
苛立たせると知っていて、言った。
だって、優ちゃんの気づかいは嬉しいけど、でも、だからといって『はい、わかりました』とは言えない。
降りていって、私はどうすればいいのか、わからない。
「……じゃあ、追い詰めればいい訳?」
優ちゃんが木の幹に手をかけて、すぐ側まで顔をだす。
「!」
とっさに、その場から飛び降りることを考える。
ジャンプするには、正直勇気がいる。少し高い。怖い。
でも
「みづき?」
言い含めるように、言い聞かせるように、声が、私を引き留める。
たった一言、名前を呼ばれただけ。ただ、それだけなのに、ピタリと動けなくなる。そこを動いてはいけない、そんな気持ちにさせる。
「優から逃げる気?」
私の手首に、優ちゃんの手が滑るように添えられる。
だったそれだけで、茨が絡みついたような気がした。その棘に、痛みに捕まる。
「……あ、あの、あのね、優ちゃん。……やっぱり私は優ちゃんと友達で、いたいから。それをちゃんと言おうと思って……」
真っ白になった頭で、優ちゃんの顔も見ずにまくし立てる。
なのに、最後は言葉が尻すぼみになった。
私は間違ったことをいってない。それが一番最良で、一番平和で、一番賢い選択のはずだ。
なのに、シンとなった沈黙が耳に痛い。
優ちゃんの表情を見ることが、できない。
冷えた風が肌をなでた。
静けさを破ったのは、優ちゃんのため息交じりの声。
「……はぁ。優がそんなの許すと思う?」
優ちゃんは、私が座る木の枝に足をかけて、乗り込んでくる。
「!」
詰まる距離に、動揺して後ずさろうとする。
途端に、後ろ手が宙を掴んだ。
違う。
掴もうとした木がそこになくて、バランスを崩した。
ぐらり、と奇妙な浮遊感。
「っっ馬鹿!!」
落ちる……! そう思って身を固くして、目を閉じた。
「き、きゃぁぁぁぁぁ!!!」
ドサリ、と鈍い音がした。
…………。
痛い。
……ううん、痛く、ない?
私は伏せていた瞳を、恐る恐るあける。
覚悟していた痛みがないのを不思議に思って顔を上げれば、艶っぽい唇が動いた。
「……まったく、ほんとオマエは、優の予想を簡単に裏切ってくれるよね」
「ゆ、ゆゆゆゆゆゆゆ優ちゃん! ごめんね、ごめん! 今どくから……!」
気づけば、私は優ちゃんに思い切り覆い被さっていた。
慌ててそこから身を引こうとして、手をとられる。
「駄ぁ目」
「きゃぁっ!」
手の重心をなくして、また優ちゃんに倒れ込んでしまう。
倒れ込んだ先、優ちゃんの体温が直に伝わってきて、今すぐにでも離れたかった。
なのに、その手が私を引き寄せる。
「ねぇ、深月? 聞きたいんだけど、友達ってキスが許されるの?」
「違っ……! だ、だってあれは優ちゃんが……!」
「ろくな抵抗もしなかったのに?」
「そ、んなこと……」
抵抗していなかった? 受け入れてた? 私が? 優ちゃんを好きだから? 確かに優ちゃんは友達としてなら、絶対好き。だけど
「でも、私はママみたいに、なりたくない……だから、私は……」
言っている途中で、心地の良い冷たい指が、頬に触れた。優ちゃんが顔をのぞき込んで、近づく。私は思わず、身をぎゅっと縮めて叫んだ。
「優ちゃん!」
「……深月のいう『お友達』っていうのはどこまで許してくれるの? 抱きしめるまで? キスまで? それとも……もっと奥まで触れても許してくれるの?」
「優ちゃん、私は優ちゃんとは友……っ」
言い切る前に、唇に塞がれてしまう。距離がゼロになって、バラの香りが強くなった。
「あんまり強情だと、優に噛みつかれるよ?」
「んんっ。優ちゃん……っ!」
「まだ、駄目」
今度は深く舌を入れ込まれて、身体がぴくりと痙攣するように反応する。その熱い舌に溶かされるように、呼吸がうまくできない。視界が涙で滲んだ。
「~~~~優ちゃんっ」
「ここまで踏み込ませておいて、友達だなんて、恋はしたくないなんて、言わせない。優は、初めから逃がすつもりなんてないんだよ?」
「っ」
『好き』はどの『好き』なんだろう。どこまで『好き』なんだろう。どこまで許せる『好き』なのだろう。
強く握られた訳ではないのに、動くことができない。抵抗するより先に、痺れたように動けない。
動けない。
それは、本当に動けない?
本当は、本当は……このままでいいと思ってる……?
自分を見失いたくない。普通でいたい。たった一人だけしか目に映らないことが怖い。
なのに、
「ねぇ深月。もっと欲しいっていったら、優にくれる?」
なのに、私は……
拒めない。
ただただ、優ちゃんの熱に翻弄される。
拒めないのは
何も見えなくなるほど縛られたいと――本当は望んでいるから?
世界がぐるりと反転した。
さっきまで優ちゃんが私の下にいたはずなのに、私が下に敷かれてしまう。
夜空が見えた。
優ちゃんがいるその先で、三日月が私をせせら笑うように、見つめていた。