とろける瞬間
朝一番、私はチャイムの音で目を覚ました。
覚ましたというより、飛び起きた。
目覚めたというより、起きていたから目を開けた。
私は昨日、決めたのだ。
これ以上、優ちゃんに振り回されないようにしよう、と。
よくよく考えれば、朝起きるにしても勉強にしても、私は優ちゃんを頼ることが多い。
……そうやって甘えてるのが良くないんだよね、たぶん。
もっと気を引き締めれば、もっと私自身がしっかりすれば、振り回されることなんてないはずだ。たぶん。
そう思って、思ったら上手く寝付けなくて、結局朝になった。
うわー……何やってんだろう、私……。
ベットの端に置いてある、折りたたみの三面鏡を開く。
うん、ひどいクマだ。
顔洗って、少しでもメイクしてごまかしたいけど、下に降りれば優ちゃんと鉢合わせしちゃうよなぁ。
優ちゃんはいつも起床のチャイムより早く起きている、と思う。だって、私を起こすときには、もう身支度が終わっているから。
……目覚ましなしにどうやって起きるんだろう。私にはまったくわからない。
「深月?」
ふいに、下から優ちゃんの声が投げかけられた。
「ずいぶん早いね。何かあった訳?」
「ううん、ちょっと目、覚ましちゃったっていうか」
二階のベットから、わずかに顔をだす。
優ちゃんは既に制服に着替えていた。その右手首には、文字盤の中央が花の形になっている腕時計もされていた。
準備、早いなぁ。
いつもと違うのは、髪がまだ結い上げられてないこと位。
普段私が起きるときには、編み込んできっちり結い上げ、お気に入りのピアスを耳に揺らしている。
けど今はまだ、ゆるりとしたウエーブを肩まで流していた。
その優ちゃんの表情が、疑わしげに私を見た。
「目を覚ましたって……。地震がきたって起きない深月が?」
「そ、そういう日だってあるの!」
「ふぅん……。まぁ、いいけど」
「あ! あと優ちゃん!」
「なぁに?」
「お昼、しばらく行けないんだけど、大丈夫かな?」
私は、思い切って提案してみた。優ちゃんの猫目が、数回瞬く。
部屋が一緒なのは変えられないにしても、昼まで一緒じゃなくても……いいはず。
そうすれば、変な雰囲気にはならないはず、だ。
「ずいぶん唐突だけど、何か不満でも?」
「不満じゃないよ! 不満じゃなくて、クラスの子と一緒に食べたいなぁって思っただけで」
「へぇ。一緒に食べたい、ねぇ。……優より?」
「ゆ、優ちゃんより、とかそういうことじゃないってば。ただ、優ちゃんとは部屋も一緒だし、お昼まで一緒じゃなくてもいいんじゃないかなって思っただけで」
「ふぅん。…………ま、いいけど、別に」
冷めた視線。つまらなそうに答えるのが伝わってきて『優ちゃんが嫌なんじゃなくて』とか『ごめんね』とか言いそうになったけれど、ぐっと堪える。自分で考えて決めたことだ。言い訳してもしょうがない。
唇を、ひき結ぶ。
それから少しの間、優ちゃんからの視線を感じていたけど、すっと優ちゃんは興味をなくしたように机に置いてある鏡に向かう。
机の鏡に向かうには、私やベットに背中を向けて座ることになる。
だから、私が優ちゃんの視線から外れる。それを見て、強ばっていた身体の緊張をふっと解いた。
ひっそりと、その場で息を吐き出していると
「そのクマ。きちんとしたほうがいいよ?」
「!」
鏡越しに優ちゃんと目が合う。言われて、心臓が飛び跳ねた。
鏡がいつの間にか角度を変えていて、二階の私を映している。……固定の鏡を置いといて下さい、ほんと、心臓に悪い。
「……はぁい」
とりあえず、おとなしく返事をした。
優ちゃんとの距離をとるのは……一苦労だ。
そして私は、朝、起こされないように起きる、昼食を別々にする、そんな日々を何日が続けた。
その間は少し寝不足だったけど、だいたい順調に思えた。
でも、そうじゃないと気づいたのは、担任の一言だった。
帰りのホームルーム後に、担任に呼ばれた。
「高梨さん。最近の小テスト、点数落としてませんか?」
教壇の前でそう言われて、口を閉ざした。
気まずい。心当たりがあるかないかと聞かれたら、正直ある。
先生は、一見穏やかでほわほわ~とした人なのだけど、意外にきめ細かく見てる……らしい。先生の『派手でダサい』と噂されてるネクタイが、今日はやけに目に痛い気がした。
「はい……」
この学園は、毎週のように小テストがある。小テストの点数なんて少し落ちたって大丈夫なんじゃないかな、と思ったりするけれど……そうじゃないらしい。
前より点数が落ちてる自覚はあるから、ハイとしか言えなかった。
「大丈夫ですか? 顔色もあまりよくないし、他の先生方から居眠りをしてるという話も聞くし。……ルームメイトとケンカでもしました?」
「……」
なんて答えればいいのか、よくわからない。
『ルームメイトとケンカでもしました?』
そう聞くのはたぶん、何か噂で聞いてるんだと思う。
普通、誰とご飯が一緒でもみんな気にしないはずなのに、【優ちゃん】という有名人と一緒にご飯をとらない、という選択をしただけで、噂が一瞬で広まる。
ケンカしているとか、していないとか。
周りの友達にも、そういうことを聞かれた。
……そんなつもりは、なかったんだけど。自分が思うよりずっと、大ごとになっている気がする。
でもまさか、先生にまでそんなこと言われるなんて思ってなかった。
しかも、何回か居眠りしたのまで筒抜けだし。
うぅ、別に眠る気なんてなかったんだから!
……て、いうのは言い訳なんだけど。
「まぁ、早く仲直りできるといいですね。そしたら、小テストで引っかかることもなくなり……ますかね?」
聞かれて、曖昧に笑いを返す。
ため息をつきたくなった。どうやら、優ちゃんのおかげで成績がまともなのを、知っているみたいだ。
そう、今まではそこまでひどくなかった。でも、今は、優ちゃんに勉強の質問すらあまりしていない。
まずは、自分で考えてみよう! と挑戦して……失敗している
「わかりました。じゃあ、とりあえずは、居眠りに気をつけて下さいね」
「はい……」
蛍光イエローとライトグリーンのネクタイが、やけにまぶしい。
微妙な返事をして、私は重い足取りで自分の席に戻っていった。
ため息ひとつ。
気づけば、他のクラスメイト達は、ほとんどいなくなっていた。
「みーちゃん」
その中で一人、私に声をかけてくれたのは、グループが一緒の綾乃ちゃんだ。
「先生から、何の話だったの?」
クラス内で一番仲が良くて、おっとり和風美人で、大人っぽい感じのする子だ。
優ちゃんと並んでも釣り合いそうな感じがするな、と実はよく思ってる。
確か……今日は部活だったはずだけど、わざわざ待っててくれたのかな。
「えーっと、テストのこととか」
「テスト? ……そういえば、こないだ、ひどい点数だったって言ってたわね」
綾乃ちゃんは困ったわね、とばかりに眉を下げる。
「最近何かあった? 毎日眠そうだし、ぼんやりしてるし、ずっと気になってたの」
まっすぐに見つめられ、心が痛くなる。
この話について、どう話せばいいのか、わからない。迷ってる。
優ちゃんとの距離が近すぎて、離してるって?
離さないと、すぐ変な雰囲気になる……から?
……変な雰囲気って何だっけ……。
……甘い、まるで恋人同士のような………………。
……恋?
誰が、誰に。
…………。
……………………。
「みーちゃん。フリーズしてるけど、平気? 一人で考えすぎると、頭煮えちゃうわよ?」
「……うん」
生返事になってしまう。
考えたくない。考えこんだら、深みにはまって出られない気がする。
……どこから? 何から? ……わからない。
たぶんきっと、わかりたくないし、知りたくない。
「まぁ、いいわ。また聞くから。次は、ちゃんと話してね?」
「……うん。ありがとう」
綾乃ちゃんは、春のような温かい笑顔で笑う。
一緒にいると、いつものんびり、ひなたぼっこしてる気持ちになれる。だから、いつも安心できる。落ち着いていられる。
だからこそ、聞いてみたくなった。
「……綾乃ちゃんは、なんか悩んでること、ないの?」
「えぇ? 何突然」
「いつも、安定してるっていうか、穏やかだし、大人だなぁって思うから」
悩んでる姿を見たことがない。どちらかというと、私がいつも話しをして、綾乃ちゃんが聞き役だから。
綾乃ちゃんは、困ったように微笑んだ。
「そんなに大人じゃないよ。実はけっこう必死だし。必死すぎて、笑っちゃうくらい」
「は~。綾乃ちゃんが必死なの、あんま想像つかないけど……」
いつも、にっこり穏やかに笑っているイメージだ。
どちらかというと、必死なのは私だ。宿題をすっかり忘れてて写させてもらったり、慌てて廊下を走ったら、思いきり滑って転んだのを助けられたとか、……うん、色々ある。
綾乃ちゃんは、鎖骨下まである髪を揺らしながら、笑う。
「それは美化しすぎ。私もみーちゃんと一緒で、上手くいかないことくらいあるよ」
「うーん。想像つかない」
何が、上手くいかないんだろう、
そう思ったところで、チャイムが鳴り響いた。
「あ、ごめんね、みーちゃん。今日、部活あるから、もう行くね」
「うんうん、行ってらっしゃい。……話聞いてくれて、ありがとう」
私がそう言うと、綾乃ちゃんはにっこり微笑んで『今日はちゃんと寝るのよ?』と付け足してきた。
……今日もぐっすり眠る訳にはいかないんだけど、なぁ。
このまま少し眠って帰ろうか、そんな考えがよぎって、ふと気づく。
床に、何か落ちている。
手にとろうとして、それが綾乃ちゃんの鞄についてたものだと分かった。
フレンチブルドッグのストラップ。
綾乃ちゃんの手作りのものだ。部活で作ったって言ってたっけ。私は、フェルト地のストラップを手に取った。
綾乃ちゃん曰く、フレンチブルドッグは
くりくりした目なのに鼻ぺちゃで、しわくちゃの顔がかわいい! ……らしい。
ちなみに、優ちゃんにその話をしたら、『優は1ミリも興味ない』とあっさり一刀両断されました。
明日会ったら渡そう、そう思って、スカートのポケットにいれる。
結局、私はそのまま帰ることにした。
そして、私は昇降口を出て気づいた。
……あれ、綾乃ちゃん?
部活じゃなかったっけ? 綾乃ちゃんが歩いて行くのは旧校舎の方だ。部室へ向かうなら遠回りになる。
旧校舎自体は、古くなってきていて今はほとんど使われていない。北側にあるからか、暗いし、心なしか寒いし、あえて入る人はいない……はず。
もちろん旧校舎側の道を通って、部室へ向かうことはできるけど……。
部室へ行くのに、遠回り?
考えている間にも、綾乃ちゃんは旧校舎の方へ吸い込まれるように、消えていく。
追いかける必要はないのに。
私はそのとき、何故かとても気になって、見えなくなった影を追うように走った。
……あれ、いない……?
確かに、綾乃ちゃんの後を追いかけていたはずなのに、旧校舎の廊下はがらんとしていた。
お話の中の、古い洋館みたいだ。
木張りの廊下は、気をぬくとギィ、と音が鳴る。木の音を鳴らしながら歩いて行くと、
どこからか話し声が聞こえた。
それは、くぐもってよく聞こえない。ヒソヒソと囁き合うような声。
今度は、足音を立てないよう慎重に歩いて、その声に近づいた。
そして、見つける
……綾乃ちゃん?
綾乃ちゃんの後ろ姿を見つけて、咄嗟に声を上げようとした。
でも、それはできなかった。
――後ろから伸びてきた手に口を塞がれたから。
「~~~~!!」
「しっ」
瞬間、バラが香った。バラの中でもとりわけ深い、溢れかえりそうな濃い香り。
優ちゃんだ、と直感的にわかる。振り返れば、人差し指を唇に押し当てられる。優ちゃんは、私を目にしてから、視線を綾乃ちゃんのいた教室に向けた。
その視線の先を追いかけると、綾乃ちゃんの姿と――もう一人の姿があった。
先生……?
さっき私に注意を促してくれた、担任の先生だ。
何で――
そう思う前に、わかってしまう。
二人がキスをしたから。
「!!」
綾乃ちゃんが、つま先立ちで先生の首に手を回す。
二人が、何度も何度も、角度を変えてキスをする。
その度に、口からもれる濡れた音がして、今すぐ逃げ出したくなる。
でも、離れることもできずに、ただただ呆然と見ていることしかできない。
見たい訳じゃないのに、視界に二人が飛び込んでくる。
たった少しの時間が、永遠に続くように感じられた。
やがて、二人は少し言葉を交わすと、教室を出ようとする。
「深月こっち」
耳元にそっとつぶやくと同時に、腕を引っ張られる。
優ちゃんと一緒に、突き出した壁の影に隠れていると、二人が出てきた。
こっちに来たら見つかるかもしれない。
そう思って、息を潜める。自分の心音がやけに大きく聞こえた。
楽しげな、浮かれているような声がする。なのに、何を話しているか上手く聞き取れなかった。
そして二人は――
こちらとは反対の方へ歩いて行く。
仲よさげに、その手を握りながら。
「……深月、平気?」
どのくらい経っただろう。
二人の会話、足音が全くしなくなったところで、耳元をくすぐる優ちゃんの声がした。
私は思いっきり首を横に振って、へなへなと座り込む。
大丈夫、なはずがない。
綾乃ちゃんと先生が恋人同士だなんて、全く知らなかった。
綾乃ちゃんは、一言だってそんなこと言わなかったから。
それに……
先ほどの二人のやりとりを思い出して、また顔が熱くなる。
あんまりに大人っぽい展開に、見てるこっちが恥ずかしくなってしまった。
「あの二人、そうだったんだね。優もちょっと驚いた」
とても驚いたようには見えない。しれっと優ちゃんは言う。
「ちょっとどころじゃないよ! すっっっっごい驚いた!」
「ふぅん? でも、何か知ってたから、彼女を追ったんでしょう?」
「違うよ! ただ、綾乃ちゃんが旧校舎に行ったから何だろうって気になって……。あれ。優ちゃんこそ、何でここに?」
「優は深月を追いかけてきた訳。じゃなかったら、こんなほこりっぽい場所に入らないし」
「あ……そっか。ごめんね。なんか巻き込んじゃって」
「別に? それより、いつまで顔真っ赤にしてる訳?」
あきれたように優ちゃんが私の高さまでしゃがみ込んでくる。優ちゃんの目に私が映った。
「だ、だってあんなの……」
また思い出して、火照りそうなのをなんとか、堪える。すると、優ちゃんは上品にクスリと笑った。
「そうだね。何か見せつけられた感じ。……ねぇ、深月? 優もひとつ、聞きたいんだけど」
「何?」
「何で最近、優を避けてるの?」
聞かれて、ハッとする。
ずっと優ちゃんとの距離を離してたのに、今、ものすごく近くにいるのに気づく。
誰もいない。逃げ場がない。
そう思った瞬間、反射的に身体を後ろに引いた。後ろが壁だと知っている、分かっている。それでも尚、後ずさる。
「さ、避けてる訳じゃ……」
「よく言うよ。そんなクマつけて。そんなに、優に起こされるのが不満?」
私が後ろに引いた分、詰め寄られる。するりと目元をなでられて、身体がざわりとした。
「不満とかじゃなくて、だって優ちゃんが……」
「優が?」
立ち上がって逃げることも、敵わない。動けないほど近くに、優ちゃんがいるから。その吐息の熱っぽさに、泣きたくなる。
溶かされてしまうような錯覚を、起こしそうになる。
「ち、近いから」
「近いと、何がいけない訳?」
「だって……そんな必要ない、から」
優ちゃんの前髪が、私の前髪に触れた。
「必要があれば、いいの?」
優ちゃんの指が、今度はゆっくりと、その輪郭を味わうように私の唇をなぞる。酔いが回りそうな、深いバラの香がした。
同時にふわり、と唇にぬくもりを感じた。
「な……っ。なん、何で……」
遅れて、優ちゃんにキスされたのだと気づく。
たった一瞬。なのに、熱でもだしたかのように、顔が赤くなる。
優ちゃんは、動揺一つしていないのに。
「だって、この『みたらし団子しか入ってない頭』は、何も分かってないみたいだから。言ったよね? 優は『オトコ』だって。もう忘れたの?」
反射的に、首を振る。
忘れたんじゃない。よく、覚えてる。覚えてるからこそ、ここ最近の優ちゃんの振るまいに隙がなさすぎて、わからなくなってた。
「本当に? 深月はよく分かったフリをするからね」
優ちゃんはそう言うと、その滑らかな手のひらで、私の手を握りこむ。
ゆっくりと、言い聞かせるように、その唇が動く。
「教えてあげる」
優ちゃんは、私の手をとると、その手を自分の胸の辺りにピッタリと添えた。
「今でも、優には胸なんてないから。……ねぇ、オマエは今でもあの時みたいに、『私と変わらない』って触れさせてくれる訳?」
「し、しない……」
真っ赤になりながら、否定する。今も手は、まだ優ちゃんに触れたままだ。
あの時。
そのことを私はよく覚えてる。
あの頃は、本当にあまり女子としての自覚がなかった、というか何というか。
そう言われたのは、たぶん小学生5年生の頃だ。
確か、夏だった。
もうすぐ夏休みが近くて、私はワクワクしてたと思う。『一緒にプール行こう』そう誘ったら、優ちゃんはため息まじりに言い出したんだ。
『あのさぁ、勘違いしてるみたいだから言っとくけど、優はオトコだよ?』
『……スカートはいてるのに?』
『スカートはいてても』
この頃の私は、完璧に優ちゃんを女の子だと信じて疑っていなかった。
確かに、着替えるときは優ちゃんは別の教室にいたりするし、プールの授業だって優ちゃんが受けてるのは見たことがない。
でも、いつも女の子の服を着ていたし、よく男子から告白されてたし、疑うものが何一つなかった。
『えー……』
『えー、じゃないよ。プールなんて行ったら、男子に何されるか分かったもんじゃないし。だから一緒にプールは行かないし、行けないから』
『……そっかぁ……』
優ちゃんが男の子。
そのときはその事実より、一緒にプールに入れないことが残念で、がっくりしてしまった。
一気にテンションを落とした私を見てなのか、優ちゃんは苦笑いしてこう続けた。
『でも、まぁ、家のプールならいいけど……来る?』
『! うん! 優ちゃんちすごいねープールあるんだー』
『祖父の財力だし、自分が特別凄いわけではないと思うけどね』
『何で? そうじゃなくても優ちゃんはすごいよー。踏みつけて欲しいっていう男子がいるなんて、絶対ないよね』
今思い返せば、優ちゃんが不満に思ってそうなことも普通に言っていた気がする。
『……それ、汚点だからやめてくれる?』
『汚点?』
『不名誉ってことだよ』
『……? あーうん、なるほどなるほど』
そして、優ちゃんの言っていることを半分も理解してないことが多かった。
『あのさぁ』
『ん?』
『わかってないくせに、知っているように頷かないでくれる?』
『う』
『う、じゃないよ全く。分かってないならはっきり分からないっていいなよ。オマエさ、優がオトコっていうのも本当に理解してる訳?』
『え、えーと、うん。何となく?』
『何で疑問系なの。ほら、優に胸はないの。わかった?』
手を掴まれて、そのまま優ちゃんの胸のあたりに押しつけられる。確か、私は、思いっきり首をかしげていた。
『……え、うん。……?』
『何、今度は何が疑問な訳?』
『私と変わんないなぁって。ほら』
その時の私は、特に深く考えることもなく、優ちゃんの手を握り、自分の胸の辺りに触れさせた。
『―――!!』
『ね? ないよね?』
だから優ちゃんとそんな変わらない、そう続けようとして、見たことないほど顔を真っ赤にした優ちゃんに詰め寄られる。
『ば……バッカじゃないの!? 何やってる訳!? オマエは女だよね!? 簡単に胸触らせてどうすんの!?』
『えー、でも、……ないし』
『そういう問題じゃないんだよ。ほんっと馬鹿ほんと馬鹿。頭にみたらし団子しか詰まってないんじゃないの!?』
『えぇ~~~…………』
――その思い出は、今でもはっきりと覚えている。どっちかっていうと覚えていて欲しくない思い出だけど、何もごまかせない。
「ねぇ、深月」
あの時とは違う。だいぶ大人びた優ちゃんがじっと私を見てくる。
私は動けないまま、その瞳に囚われたまま、優ちゃんが、スローモーションのように『私』に触れようとするのを見ていた。
そのとき
遠くで、学校のチャイムの音がした。
ゆるやかなその音で、私の硬直が解ける。
瞬間、優ちゃんの手を振り払った。
優ちゃんがどんな表情をしてたのかは、知らない。わからない。
まともに顔をみることなんて、できない。
拘束は、思っているよりずっと簡単に解かれた。
後は、無我夢中になって校舎を走って行った。どこが出口とか、どこへ向かうとかそんなことを考えている余裕はなかった。
ただただ、走った。
いくら走っても、唇に触れられた感触が消えない。火照りが収まらない。
どうすればいいのか、どうしたらいいのか、何一つわからなかった。