白すぎる雪と青すぎる空 ~綾乃ver~
――人はいつだって、知らぬ間に誰かを踏みにじる。
何気なく繰り返すそれが、降りつもる雪のように静かに、心の細い枝をポキリと折る。
折られた枝は見向きもされずに、雪の重みに埋もれていく。
真っ白な正しさに息が出来なくなる。
そういうものは、なくならない。どんなに願っても祈っても消えてなくならない。
なくならないんだと、思い知らされる。
屋上から見る学園の景色も、そう。
私はその日、旧校舎の屋上に向かっていた。
屋上は普段、鍵がかかっている。入れない。
でも、今日ここで待ち合わせた人が屋上の鍵を開けている、と知っている。
屋上の扉を開くと、赤い空が見えた。
風が強い。
雨上がりの湿った風が顔や髪に吹きつける。
「……?」
扉を開けた先に、目当ての相手はいなかった。
不思議に思って周囲を探れば、反対側の手すりで私とは反対方向を見ていた。声をかけようと歩いて、その先の景色、温室のバラ園に目が留まる。
人影が見えた。
二人。
一人はすぐにわかった。
普段から一緒にいる子だから。みーちゃんだ。
そしてその隣。
――優摩、じゃない男子。
みーちゃんの「兄」だ。
4月からこの学園の高等部に入ってきたみーちゃんのお兄さん。正確には、途中から兄になった人、だ。
【兄弟】という関係に固執した兄弟。
……それを、優摩が目にしたらどう思うのだろう。
思っている矢先、視界の端に映る、人影。
校舎の影から、動かないそれはさっき会ったばかりの人物。
私にとっては、従兄弟にあたる人間。
――涼しくて心地よかった風が、ひやりとしたものに変わる。
何で、こういう時に限ってそこに行くのよ……。
それに答えてくれる人は、誰も居ない。
「――あ、来てたんですね」
手すりの側でぼんやり景色を眺めていた待ち人が、振り返って私に軽く手を振った。
鍵のついた屋上の、鍵を持ってる人。
今日も彼は、趣味の悪い蛍光色のネクタイをしていた――。
「――空先輩と?」
「うん。優ちゃんとあまり仲よくなさそうなんだよね。何でだろう?」
中学三年になったある日、みーちゃんがそんなことを言い出した。
今年も同じクラスになった私たちは、相変わらず一緒にいることが多かった。今もそう、私たちは次の授業が移動教室だからと、二人で廊下に出る。
みーちゃんの家は、少し複雑な家庭環境だ。
彼女は、小学生の時に母親が亡くなった為に、離婚した父の方に預けられた。その頃、離婚した父には、既に再婚相手の【お母さん】がいて、【息子】もいた……。
息子、つまりみーちゃんのお兄さん、【高梨空】先輩だ。
中学までは違う学園に通っていたけど、この春、高一からここに通うことになったらしい。
けど…………
この先輩には、気がかりがある。
「みづ」
廊下を歩いていると、前から駆け寄ってくる姿があった。
空先輩だ。
駆けてくると、いや、駆けてこなくてもすぐわかる。人より頭一個分高い先輩は正直目立つ。そして、いつもネクタイをしていない。男子は指定の深緑のネクタイがあるはずなんだけど……いつもしていなくて、何度も教師に注意されているのを目にした。……改善する気はないのかもしれない。
先輩はよく現れた。
移動教室のときとか、放課後とか。
高等部と中等部は基本、校舎が違う。ただ、特別教室がほぼ南校舎だから、移動教室のとき中高等部ですれ違うことは多い。
確かに多いけれど……決まって先輩はみーちゃんに声をかける。
今日もまた、廊下の反対側から何気なくやってきた。多分、先輩も移動教室なのだろう。その腕に教科書やノートを抱えている。
「空? どうしたの?」
私の隣にいるみーちゃんが空先輩を見上げると、先輩は淡々と……
「ん。みづがいたから、ちょっと来ただけ」
どこか甘い言葉を吐いた。
「来ただけって。用があるなら私から行くよ?」
「用はないよ。ただ、みづの顔が見たかっただけだし」
「何それ。見てもどうにもならないから」
あはは、と笑うみーちゃん。普段、無表情の先輩の雰囲気が和らぐ。
二人そろってマイペースなのか、天然なのか……ツッコミ不在の会話が私には、とてもうすら寒い。みーちゃんもみーちゃんで、先輩の髪になにかついていたのか、つま先立ちして手を伸ばして払おうとしている。しかも、つまさきでバランスを軽く崩して空先輩に寄りかかるような格好になった。
……いやいや、そこは自分でやるように言えばいいから! 余計なことしなくて大丈夫だから!
ほんとに、誰も突っ込まないからひたすらに……怖い。
だって、みーちゃんの相手、あいつよ?
優摩が黙って、見ている気がしない。
みーちゃんはそうは思わないのかしら……。考えてみても、みーちゃんを見つめてみても、彼女は先輩ににっこりと笑いかけていて、何もわからない。
……とりあえず、この二人を一旦引き離そう。
そう思って口を開けた途端、背後から声が掛かる。
「深月」
温度のない声。冷たくも聞こえるその声は、燃えるような赤ではなく、色を全て無くした暗い熱を放ってる気がした。
……だから、嫌なのよ。
この女子、いや男だった。見た目は呆れるくらいに美少女だ。
月城優摩。
有り難くないことに、私の一つ上の従兄弟だ。
彼はみーちゃんを呼んだはずなのに、廊下に居合わせた何人かが優摩を見つめる。主に見ているのは【男子】だけど。本当に、呆気にとられる位この男はよくモテる。
……男子に。まぁ、女子にも人気は高いのだけど。
「優ちゃん? 何、何かあった?」
みーちゃんが私の隣、つまり空先輩の隣を離れ、優摩の方へ駆け寄る。
優摩が声をかけたんだから、自分からみーちゃんの方へ行けばいいのに。そう思うけど、基本、そんなことはしない。しないというか、する姿も想像できないけれど。
優摩は若干不機嫌そうな顔をしたまま、みーちゃんを手招きしている。みーちゃんは小首をかしげたまま、優摩の側に駆け寄った。
すると、優摩はみーちゃんにそっと顔を近づけ、何かを囁く。
「!」
その一瞬で、みーちゃんの顔が赤くなる。
「……」
みーちゃんが慌てたように何かを言っていて、優摩は上機嫌そうに答えている。
……一体何言ったのよ、あの男……。頭沸いてるんじゃないの、ほんと。
何を言ったのか、なんてろくでもないことのような気がして、知りたくもない。
それから、優摩は軽くみーちゃんに手を振ると、その場を立ち去る。
私や先輩に目もくれない。アウトオブ眼中っていうのかしら、こういうの。
まぁ、私も目なんて合わせたくないし、合っても気持ちが悪いけど。
みーちゃんは、顔を若干うつむけたままこちらへ戻ってきた。
「みづ、大丈夫?」
先輩は顔色を変えることも無く、みーちゃんに問いかける。みーちゃんは慌てた様子で顔を上げた。
「だ、大丈夫だよ!?」
「? 本当に?」
「本当に! ちょっと……からかわれただけ」
「そうなの? ……みづは、月城さんと仲いいよね。俺はなんか、いつも睨まれてる気がするから。何でだろう」
先輩はあくまで平坦に、下手すると眠そうに小首をかしげている。
でも先輩、それはたぶん気のせいじゃなくて、本気でアレに睨まれてますよ。というか、あのバカ、大人げないんじゃない?
校内のチャイムが鳴る。
その音で、皆が動き出す。
「残念。終わっちゃった。じゃあまたね、みづ」
そう言ってみーちゃんに軽く微笑むと、先輩は去って行く。
何も判ってないマイペースな先輩と敵意むき出しの優摩と。
……ヒヤヒヤする。
自分の話ではないのに、むしろ自分ではどうにもならないからこそ、不安ばかりよぎる。
急ぎ足で移動教室に向かいながら、そんなことを考える。
ふと目につく窓から見る空は、青い。
日差しが痛いくらい強くなる季節になっていく。
眩しい。
日差しが強ければ、その分くっきりと影は強く出る。
眩しければ眩しいほど、影はもっと暗くもっと濃く落ちていく。
みーちゃんと先輩と優摩の関係性も、照らし出されて真っ黒に浮かび上がる。
――そんな風に思えて仕方ない。
できればこれも、私の思い違いでありますように。
そんなことを、青すぎる空に――無意味と知りながら願った。