ひび割れたアクアリウム ~優摩ver~
「水族館に行きましょう?」
曇りのない微笑みで、母さんはそう言った。
「えっ……ちょっと待って。今日はCMのオーディションの日だよ!? しかも最終審査の! わかってる!? これを止めるなんて事務所になんて言われるか! 急な予定が入ったなんて言い訳聞くわけな……!」
電話を切る。
ついでにスマホの電源も切った。マネージャーの小言は、始まるといつも長い。
普段、学園でスマホは禁止されてるから使わないけれど、休日外に出る場合は使う。仕事用に一つ。でも、別に今は必要ない。
「言われなくたって理解してるし」
無意味にスマホに悪態をついて、ワンピースのポケットに投げ込む。私服の中でも着慣れた黒いシャツのワンピース。
これを着て、オーディションに行く予定だった。
――でも。
くるりと踵を返して、実家の廊下を歩き出す。
向かう先は、突然『水族館へ行きましょう』と言い出した人間の所。ソレがいる部屋の前にたどり着くと、無遠慮にその扉を開ける。
その先には普段と変わらぬ、儚げで簡単に折れそうな笑みを浮かべた母さんの姿。
知ってる。一番馬鹿なのは、優だ。
気まぐれな母さんの誘いを優先するなんて、意味が無い。価値がない。馬鹿げている。馬鹿げているのに、迷うことなく選んだのは――――
優を『りん』と呼ぶこの人だ。
「で、この服は何なの?」
大きな紙袋から取り出したのは、ふわふわしたフリルがついたワンピースだ。今着てる服とは対照的な、白くて若干ロリータな服。しかも一着じゃなくて、他にも数着出される。
撮影で着ることはあっても、私服ではまず着ない。装飾の多いものより、シンプルで肌触りが良いもののが肌になじむ。
母さんは今にも歌い出しそうな様子で、『どっちがいい?』と聞いてくる。
自分だってストレートラインのシンプルなワンピースを着ているくせに、何故、異様に装飾した服を着せたがるのだろう。
正直、どちらでも構わない。
どれも好みじゃないからだ。
「りんとのお出かけ用に買ったのよ。かわいいでしょう? りんは、こういう女の子らしい服が本当に似合うわよね」
「……そう?」
「ええ、りんは本当に可愛い女の子ね」
手のひらを合わせて笑みを零す母さんは………歪んでいる。
一見、普通そうにも見える母さんは、記憶が【混濁】している。母さんにとっては旦那、優からすると――吐き気がするけれど――父親にあたる、あの男がまだ生きていると思っている。
そして優を……女だと思いこんでいる。
それが、心の問題なのか、事故で頭を損傷したせいなのかわからない。事故後にこうなったことを思えば、損傷のせいかもしれない。でも、その直接的原因はわからず、今も尚、母さんは歪んだ思い込みを続けている。
……まるで壊れた時計だ。
針は進もうとしているはずなのに、一向に進まない。カチ、カチ、カチ、と同じ場所を同じ時間を延々と繰り返す。
延々と……優を、『りん』と呼び続ける。
女の子が産まれる際につけるはずだった名前を、呼び続ける。
「……わかったよ。着ればいいんでしょう」
「ええ。こっちは可愛らしいけど、こっちのが少し大人っぽくて似合うかしら? どれが、りんの好み?」
りんの好みなんて一つも無い。
思いながら、手前の服を手にとる。制服のリボンに似た色のくすんだ赤のワンピース。ウエストが細くなってふわりとスカートが広がる型のものだ。やっぱりフリルやリボンがしっかりついている。
……でも、別にどうでもいい。
どれをとったとしても、何を選んだとしても、どうせ何も変わらないから。
一つだって、変わらない。
そして、優は母さんと二人で水族館に来た。
水族館の良いところは、声をかけられることがほぼない所だ。皆、魚に注目してるし、基本薄暗い。だからこの場所自体は……嫌いじゃない。
……けど……
今日はやたら、人が多い。休日だから仕方ないけど。正直、ごみごみしていて鬱陶しい。けれど、母さんは特に気にした風でもなく、水族館に来るといつも向かう【あの場所】へと足を進めていく。
「うわぁっ!?」
その背についていこうとして、突然、背後の足下で声が上がった。
痛くはない。ただ、ぶつかられたような衝撃があった。
振り返れば、幼児が床に倒れ込んでいた。
見かけた以上、無視もできずしゃがみ込んで、床に顔をくっつけている子どもの、恐らく男子であろうその子の様子をうかがう。
「う……うわぁぁぁぁぁん!!」
…………盛大に泣き出した。
見たところ、傷口はない。けれど、泣き止まない……どころかもっと激しく泣く。ぶっさいくな顔をして、涙と鼻水を流している。
泣いたってどうにもならないから。
とは思うけど、目の前で大泣きされて放っておく訳にもいかない。どうしようかと辺りを見回して
「ママー!」
母親が目についたらしい。子どもは情けない声をあげて、その母親の元へ駆けていく。
女性は子どもを抱き留めると、『だから、勝手に行かないって言ったでしょう!?』と叱りつけながら、今度は子どもの手をとった。
「ほら、今度は手を繋ぎましょう」
「ヤだー! 僕、走りたい!」
「水族館は走る場所じゃないでしょう!?」
そんなことを言い合いながら、二人はそこから去って行く。
繋がれた手。
あの母親はあの子を見ていて、あの子も母親を見ている。
あれを、【親子の愛】とでも言うんだろうか。
「……」
一度目を閉じて、青くて薄暗い館内を見渡す。
死ぬほど人の数はあるのに、やっぱりというべきか、母さんの姿はない。
いつもこうだ。いつも……こうだ、
決まって水族館しか行きたがらない。決まって、ある一個所しか見たがらない。探しに行くのはいつも優だ。
探して貰ったことなんてあったのだろうか。
遠い昔、もしかしたらあったのかもしれないでも、今はもう……わからない。
「やっぱりここな訳」
たどり着いた先に、やはり母さんはいた。
薄暗い館内の中でも一際暗い部屋。水槽の中の生き物は、水槽下からのライトに照らされ、仄かに光りながらふわりと浮かび上がる。
水母だ。
この人は、いつもこれを楽しそうに見ている。
「あら、りん。どこへ行っていたの? 私、探したのよ」
母さんはふふ、と笑みを零す。
簡単に、嘘をつく。
母さんが優を探した事なんて無い。そしてこの人は、嘘をついたという感覚すら無い。
「ねぇ、りん。この水母、りんみたいでしょう? ふわふわで可愛らしくて、綺麗で」
見入るように見つめる母さんの横顔は、純粋そのものだ。
「……母さんは、汚い物を見ようとしないよね」
「え?」
「……母さん」
「なぁに? りん」
「……」
呼びかけても、この人が呼ぶのは【優】じゃない。
いつだってこの人は、【優】を目に映していないのだから。
そんなことは知っている。ずっとずっと判っている。そんなの、今更だ。なのに、何で……。
「どうかしたの、りん?」
いかにも心配といった表情で、母さんが覗きこんでくる。
「別に、何でも無い」
一方通行だ。決して交わることの無い一方通行。馬鹿げている。あまりに馬鹿げていて、いっそ笑いたくなる。それでも……。
「っくしゅっ」
母さんが細い肩を震わせてくしゃみをする。……確かに、ここは少し空調の風がよく当たるかも知れない。
「……寒いならこれ、貸してあげてもいいけど?」
羽織っていた長袖のカーディガンを脱いで、手渡す。
「あらあら、やっぱり【女の子】は優しいわね」
優のカーディガンを手にとって、母さんは優しく微笑んだ。
優は…………
その柔らかな笑顔を見てると、擦り潰してやりたくなる。
優は、この人が苦手だ。死ぬほど嫌いだ。
でも
「……りんは、母さんが好きだからね」
「ふふ、ありがとう」
きっと、
この人が笑うのなら手を貸しに行くのだろう。
滑稽だ。
何をしても無意味だと知っているのにわかっているはずなのに、それでも――。
目に映る水母。
水槽を隔てて決して触れることが出来ない。それはまるで、母さんと優の関係性に似ている気がした。
読んでいただき、ありがとうございます。
5月は、優ちゃんこと優摩視点「ひび割れたアクアリウム」「果実の蜜」と、
綾乃視点「白すぎる雪と青すぎる空」「消し炭色の夕焼け」を投稿します。
よろしくお願いします。