バラ香る女王様
――覚えているのは、『黄色いバラ』
それを泣きながら、床に投げつけたママの姿。
たぶんママは、『赤バラ』がほしかったんだと思う。
だってママの誕生日には、いつもいつも赤バラが届いていた。
いつからだっただろう。パパじゃない男の人からだと、私は知っていた。
その日、赤に燃える夕日の時間、私が見たのは真っ赤に燃えるアパートだった。
そして――
燃え尽きた家から発見されたのは、ママと『栗花落』という知らない男の人の死体だった。
私は知ってる。
この男の人が、ママを『狂わせた』のだと――。
「深月」
私を呼ぶ、声がする。
昔は、こうやってママに起こされた。今となっては、甘い甘い甘たるいだけで意味のない記憶。
だって、ママはもういないから。
――じゃあ、今、私を呼ぶのは、誰?
「み・づ・き」
右頬に痛みを感じて
ぱちり
目を覚ます。
吐息がかかるほど近くに、目の覚めるような美少女がいた。
「オマエ、いつまで寝てる訳? とっくのとうに起床時間だけど?」
はちみつ色の髪の彼女――『優ちゃん』は、私の頬を思いきり指でつねっていた。
「いひゃい……」
「オマエが全く起きないからだよ。まったく寝起き悪いとは聞いてたけど、まさかここまでとはね。今までどうしてた訳?」
その、上から目線で小首をかしげる姿が、様になっている。
髪を編み込んでアップスタイルにしている彼女は、その『女王様』感からピンヒールで踏みつけて欲しい、という男子(優ちゃん曰くゴミ以下)が後をたたない。
「んー、もっと目覚まし時計置いてたの……」
家にいた時は、めざまし時計を三つは置いていた。けど、寮は相部屋だから申し訳なくて一個にしたのだ。
ちなみに、起床時間になるとちゃんと寮のチャイムも鳴る。……鳴ってももちろん、起きれない。
寝ぼけ眼のまま上半身を起こす。すると、一回離れた優ちゃんとの間隔がまたぐっと近くなる。
「じゃあ、これからは優が起こしてあげてもいいけど」
しょうがないなぁ、と言った風に優ちゃんが、そっと私の耳元に囁いてくる。
「利子は、高くつくよ?」
艶を帯びたその声は、ぞわりと私の背中を粟立たせる。
それは、むせ返るような甘いバラの香りと似てる。とろけるように甘く、洋酒入りのチョコレートのように、気持ちをクラリとさせる。
私は、反射的に目を覚ました。
「だっ、だい、大丈夫! 起きた! もう起きたから大丈夫! 優様のお手は煩わせないです!」
「何、突然。様づけはやめてっていったよね?」
髪と同じはちみつ色の瞳が、つまらなそうに私を見てくる。これもまた、優ちゃんラブの男子からしたら、『このゴミを見るような目が堪らない!』と言うんだろうな、とつい、考えてしまう。
「わ、わかってる! ええっと、あの、ねぇ、優ちゃん」
「ん?」
長いまつげで伏せられていた瞳が、私を映す。
ただそれだけで、心の奥底まで見透かされそうな気がして、言おうとした言葉が、散り散りになって消え去った。
「あ、あああああ後で、メイク見てもらってもいい?」
「別に構わないけど? なら早く着替えて、優に一声かけるんだよ?」
優ちゃんは誘いかけるような笑みをふっと浮かべると、二段ベットから降りていく。
私は、それを見送ってから、ゆるゆると長い息を吐いた。
私、こと『高梨 深月』は、ここ真朱学園の中等部2年生だ。
自宅通いから寮に移り変わって1ヶ月位経った、と思う。寮がずっと改装中だったから、秋から寮生活が始まることになった。
寮は基本的に相部屋で、私は一つ年上の優ちゃんと、たまたまルームメイトになったのだった。
そして、二段ベットの下が優ちゃん、上が私を使っていた。
だから、優ちゃんは上ってきて、私を起こしに来てくれたんだけど……。でも、一緒の部屋になってから【気がかり】なことがある。
そう、美少女とか、彼女とか、普段は思ってるけど、優ちゃんは【彼女】じゃない。
【男の子】のはずだ
…………たぶん。
昔、優ちゃん自身からそう聞いた気がするんだけど。なのに、だんだんその話が信じられなくなる。
私なんかよりメイクに詳しくて、しぐさや振る舞いもキレイだし。そもそもメイクだって、優ちゃんからやり方を教わったくらいだ。
だから、そのたびに優ちゃんが【男の子】説は嘘なんじゃないんだろうか、と思ってしまう。
何より、女子寮に優ちゃんはやってきた。
何の違和感もなく、誰に反対されるでもなく。
女の子の住んでる寮に、男の子が来て、しかも相部屋ってある?
ない……よね?
それを優ちゃん自身に確かめたくて、でも言い出せなくて、私はここ何日か、ずっともやもやしていた。
「深月、終わったの?」
当たり前のように、二階のベットに優ちゃんが乗り込んでくる。
優ちゃんはもう制服を着ていた。セピア色の、女の子仕様の制服だ。ペチコートのついたふんわりしたひだ付きのスカート、丸えりで袖はふんわりとしたパフスリーブ、胸元には褪せた赤いひものリボンがつく。
……うん、優ちゃんにバッチリ似合う。どっからどうみても、美少女だ。
やっぱり【男の子】説は優ちゃんの冗談なんじゃないかな……。
そう思えてしかたないのに、当たり前のようにベットに乗り込んでくることにやっぱり私は戸惑う。全く馴れない。
「ん、一応終わった、かな」
寝癖で肩上でぴょんぴょん跳ねていた髪は、まっすぐに落ち着かせたので、私は、2階のベットでメイクをしていた。三面鏡を見ながら、少しだけアイラインをいれてる。あとは、マスカラを少しするくらい。
『メイクは、武器だからね』
そう言って、優ちゃんに教えてもらったメイクのひとつ。
優ちゃんは小学生の時から、人よりひとつふたつ飛び抜けていた。
人目をひく見た目もそう、
この学園の、学園長の孫であることもそう、
モデルをしていることもそう、
そんな優ちゃんなので仲良くなった頃、周りから文句を言われることがチラホラあった。
人気者ってすごいなー。
なんて、脳天気なことを思ったのをよく覚えてる。
そのとき、『魅せ方次第で相手の反応も変わるから、やってごらん?』と言われてメイクをしてみた。
そしたら、変に絡まれることが減った気がした。
それが、メイクだけ、のせいなのかはわからないけれど、そのまま私はメイクを続けて、時々優ちゃんに確認してもらっていた。
「だから、机でやればいいのに。こんなところでやってたら姿勢も曲がるし、キレイにできないと思うけど?」
「だって、なんか優ちゃん隣にいると緊張するんだもん」
寮の机の配置は、優ちゃんと私と隣り合わせだ。
だから、そこでメイクをするのは優ちゃんに見られているように思えて、ちょっと気がひけるのだ。
「緊張ねぇ」
だからそれが何? とばかりに優ちゃんは肩を竦める。
優ちゃんは朝の準備は全部終わったようで、耳元にはアシンメトリーのピアスが揺れて、細い手首にはゴールドピンクの腕時計が巻いてあった。
それが、とても似合う。
何をしても、どの姿でも隙のない優ちゃんだからこそ、近すぎると一歩ひきたくなる。
そんな私の気持ちを知らない優ちゃんは、三面鏡をのぞき込みながら、私の浮いた髪をなでるように髪をとく。
耳のはしに触れた指先が、少しくすぐったくて身震いする。
するとそれが伝わったのか、クスリ、と笑う声がした。
瞬間、バラの香りが漂った気がした。たぶん、優ちゃんからだ。
「でも、まぁ、合格かな。うまくなったんじゃない?」
「ほんと?」
「優がそんなことで嘘つくと思う? ほら、そろそろ行くよ」
「うん」
私は最後に、刺繍のレースが編み込まれた大きめのカチューシャをつける。
ママに買ってもらって唯一残ったものだから、あれからずっと私はこれをつけている。
「行ってきます」
口の中で祈るように、つぶやく。
それから、私は優ちゃんの後を追った。
寮をでると、この時期はたくさんのバラに囲まれる。
雪のような白いバラもあれば、青みの残るローズピンク、オレンジよりのサーモンピンク、色々。 それが、このヨーロッパテイストの校舎とよく合ってる。
やっぱり、学園長の趣味なのかな……。制服もセピア色だけど、校舎も基本褪せた色合いをしていた。
鈍い赤いレンガ調の校舎、正門にある白い彫像と泉。時計塔。洋館を思わせる旧校舎。温室のバラ園。
ここのバラは、マスカットを口に入れたときのような、爽やかで澄んだ香りがする。
…………優ちゃんのこっくりとした深い香りとはだいぶ違った。
「この時期は、ほんとバラだらけだね」
「そうだね。バラと深月だけ愛でていられれば、それでいいんだけどね」
どこまで本気なのか、冗談なのか分からないことを言いながら、優ちゃんの手が私の手をとる。
そのあまりに自然な、当たり前、と言うような動きに、私はいつも為すがままだ。
優ちゃんの手は、陶磁器みたいだな、と思う。
少しひんやりして、なめらかで、心地よい。
。
そんなことをぼんやり考えていると、突然強い風が吹きあげてきた。どこからか、砂も巻き上げてきて、とっさに目を閉じると、
パシッ。
顔に何かがぶつかってきた。
「わぷっ」
視界が真っ白になる。
何、と思うより先に、紙が私の顔からヒラヒラと足下へ落ちていく。
一体何の紙? と拾おうとして、一瞬止まる。
A4サイズの紙は雑誌の1ページだった。
そこに映っていたのは――隣にいる優ちゃんだ。
間違いなく優ちゃんなのだけど……何というか……『セクシー』だ。
肩部分は透けた黒レース。足には黒い網タイツ。黒いタイトスカートに赤いピンヒール。紅いルージュ。
「………………」
何だろう。その色気が直視できなくて視線をそらしてしまった。
「あのねぇ、拾おうとした癖にフリーズしないでくれない?」
優ちゃんはその紙をショートブーツで踏みつけると、しなやかな指で摘まむ。
優ちゃん曰く、雑誌の特集で『絶対的女王様』をテーマに撮られたとか何とか。そのテーマの意味はよくわからないけど……つまり読者からそういう格好をして欲しいという希望があったらしい。
熱狂的ファンのためのオマケページっていう話だけど……
「それにしたって、すごいセクシーというかなんというか」
「そういう雰囲気を周りが作ってるだけで、たいしたものじゃないよ」
優ちゃんはさして興味なさげに、ためらいなくそれをビリビリ破く。
「え、えぇぇぇえ! 何で、もったいない……」
というか、それ誰かのものじゃないんだろうか。
「言ったよね? たいしたものじゃないって。それに、こんなところに落ちてるって事は、いらないものなんだよ」
「ええぇ、じゃ、じゃあ待って! 私がもらう!」
「はぁ?」
思わず優ちゃんの手を握って止めると、優ちゃんはアーモンド型の瞳を何回か瞬かせる。それから、理解できない、という表情をされた。
「……あのねぇ、もらってどうするつもり?」
「へ、部屋に飾って参考にする、とか」
「馬鹿じゃないの? この網タイツとピンヒールの何を参考にするつもりな訳? それに優は自分が載ってるものを部屋に飾る趣味はないから」
わぁ……。塵でも払うように、あっさりとはねつけられてしまった。
優ちゃんは深々とため息をついて、
「そもそも、こんなの参考にしなくても深月は、深月の良さがあ……」
「うああああああああああああーーーー!!」
「俺の青春の1ページがぁぁぁぁぁ!!!」
「でも、優たんが破ってるならそれも本望ーーーーーーっっ!!!!」
……優ちゃんが【何か】を言ってくれた気がする。
でも、背後からの叫び声にかき消されて、聞きそびれた。
驚いて振り返ると、叫んだ男子達が私たちの前で突然、跪いた。
「お願いします!!! それを返していただきた……!」
【それ】っていうのは、たぶん優ちゃんが持っているページのことだと思うけど……。
男子達がそろって頭を下げてる中、優ちゃんはためいき混じりに、あっさりとそのページをさらにビリビリに破いた。一切ためらいがない。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
タイミングよく吹いた風に、煽られるページの破片。
散っていったページを、男子達がかき集めだす。
う、うわぁ……。何してんだろうこの人達。
そう思ってる間にも優ちゃんは冷たい視線を男子に向けて、一言。
「もう一冊買ったら?」
驚くほど、ものすごい上から目線だ。
こんなことされて嫌じゃないんだろうか、毎回思うのだけど
「は……はいぃぃぃぃいl 買いますーーー!」
……毎回、その考えは裏切られる。
喜ぶところ、なのかな……。
優ちゃんといると、時々こういう場面に遭遇する。
『歩くフェロモン』
前に、誰かがそう言っていたけど、本当そうだなって思う。
見事にモテている。男子に。女子からだって、優ちゃんは憧れのお姉様、みたいな感じだし。【優ちゃん】と呼んでいるのは、私くらいだ。
大体みんな【優様】と呼んでいた。
「はぁ。深月。とりあえず行こう」
優ちゃんのすらりと伸びた長い指が、私の手に絡む。
……男の子の手、なんだろうか。ふと、思う。
確かにすらりとしてるけど、大きめの手のひらだ。
でも、ちらりと横目で見る優ちゃんはやっぱりキレイな【美少女】に見える。
「なぁに? 優に見惚れてた?」
「見、見惚れてないっ」
目だけで見てたはずなのに、優ちゃんの視線に捕まる。
何で気づかれたんだろう。
私は気持ちを落ちつけるのに一回、深呼吸をする。それから、思い切ってずっと考えていた疑問を口にする。
「……優ちゃんは、女の子……なんだよね?」
「そうだけど?」
「そっか、そうだよね」
当たり前のように、迷わず答えられてホッとする。
男の子っていうのは、何かで聞き間違えたのかもしれない。
私が気にしすぎだったんだ。
安堵のため息をついたそのとき、
「――て言ったら、安心?」
艶やかで華やかな笑みと、目が合う。
「え?」
思わず、間の抜けた返事をすれば
「じゃあ、またバラ園でね」
手のぬくもりがすっと、離れる。
いつも昇降口前で別れるから、それはとても自然な動作なのだけれど……
ぼんやり突っ立ったまま、優ちゃんの後ろ姿を見つめる。
今度は、何人かの女子が優ちゃんに話しかけていた。噂によると、私がいるときは遠慮して声をかけないでいる、らしい。
『――て言ったら、安心?』
さっきの言葉が甦ってくる。
……それは、どういう意味なんだろう……。
何で、はっきり言い切らないんだろう。
私を、わからなくさせるのだろう。
予鈴のチャイムが、聞こえた。
妙に間延びした高い音が、空に抜けていく。
私は、手のぬくもりを振り切るように、歩き出した。
私の気持ちを切り替えてくれる、チャイムの音。
体の奥に届くように、深く呼吸をした。
振り返らずに歩きだす。
私にとって優ちゃんは、憧れのお姉様でもなく、ヒールで踏んで欲しいわけでもなく……大事な友達、だ。
今までも、今も……これからも。
私は、ママのようにはならない、決して。
決して。