女房と僕とは
珠子おばあちゃんは、旅行のパンフレットが宝物だ。
若い頃は、行きたくても行けなかったので、65歳を過ぎた頃から、此処へ来るまでの十年間に、あちこちと、三十カ国は行って来たのだという。
脇をすり抜けようとしたら、いつものように話しかけてきた。
「どうせ、長生きするつもりはなかったから、興味のある国は全部行ってやろうと思ったのよ。パリとかロンドンとかミーハーが好きそうな所はあと回しよ。勿論、もう体力に自身がないから、ツアーを使ったわ。なるべく人数の少ないツアーよ。だから、10人以上のツアーには、なるべく参加しない事にしたの。もっとも旅行社の都合で、向こうへ行ってから、他のツアーと合流して、増えちゃった事は何べんもあったけどね。……そうそうあなた、小野寺さん。……よくご存知ね。──ポトラ宮へ行った時、酸欠になっちゃってね。それでも添乗員さんと若い男の人に抱きかかえてもらって、頑張ってちゃんと上まで行ったのよ。上の方のトイレはね……」
僕の記憶力が特に良いのではない。
この、旅ババの話は、もう何十回も聞かされているのだ。
もしかして百回以上かもしれない。
話は延々と続いている。
僕は話をするつもりは更々ないのだが、好意的な笑みを浮かべて、相槌だけは打ってやる。
──そうだ。その調子だ。旅ババさん。生きるという事は、生存している喜びさえ噛み締めていればいいのだ。
それでいい。
「旅ババとはなによ! 偉そうに! 自分だってヌイグルミ抱いたボケジジイのくせに。いっその事、おんぶ紐で背中にくくりつけときゃいいのよ!」
まあ、怒るな怒るな。
話は今度また、暇な時にゆっくりと聞いてやる。
僕は玄関で靴を捜したのだが、片っぽしか見つからなかった。
中庭へ出ると凄い日差しだ。
本当に凄い。
凄く暑い。
くらくらする。
中庭の景色がまるでゴッホの絵の中のようだ。
植物も歪んで見える。
これは蜃気楼と同じ状態なのだという事を僕は知っている。
暑い!
こりゃたまらん。
たまらん。
たまらん。
早くバスに乗らなきゃ。
こんなに暑くちゃ脳みそも煮えてしまう。
バスの中なら冷房が効いているだろう。
だから煮えずに済む。
勿論、本当に煮えるなんて思っちゃいない。
あくまでこれは比喩だ。
死にそうな程暑いと言ったって、めったに死ぬもんじゃない。
それと同じだ。
頭の中で『パナマ』が鳴っている。
僕は耳が良いので若い人の音楽も、良いものは好きだ。
このバン・ヘイレンという楽団の曲は、お気に入りなのだ。
夏向きの曲だ。
実際、プレスリーなんかよりいい。
ずっといい。
中庭の扉は開かない。鍵がかけてあるという事だ。
そうだ、詰め所の脇の裏口から出よう。
「あら、小野寺のおじいちゃん。片っぽだけ靴はいて、土足は駄目ですよ」
「この人、出かけるつもりなのよ」
珍しく先生も見える。
椅子に座ってテレビを見ながら、アイスコーヒーを飲んでいる。
この施設は、岬に建っているのを僕は知っている。
だから僕は、バスで岬巡りをした後で、チロと海水浴へ行って、帰りは疲れちゃうだろうから、親切な女子学生にでも頼んで、救急車でもいい、パトカーでもいいから送ってもらって、ちゃんと此処へ帰ってくる予定なのだ。
「はははは抜群のプランだねえ。小野寺さん。いいねえ。岬巡り」
「先生ったら!」
「あははごめんごめん。でもね、小野寺さん、今日は猛暑の為、救急車はてんてこ舞いだそうだよ。それに近頃の女子学生は優しくないんだ」
「先生、もっと真面目に話してやってください」
「そうだな。……とにかく外出は禁止。いつもと同じ。海水浴なんてもってのほかだ」
「そうよ。どうせ監視員に捕まっちゃうのよ」
何が、監視員に捕まるだ。まったく。
低脳女め!
仕方がない。
今日のところは諦めよう。
とにかく、プランは悪くない筈だ。
先生だって褒めてくれたじゃないか。
……しかし、どうして知ってるんだろ?
……。まあいい。
そうだ。久しぶりに女房の見舞いに行こう。
実は、女房は死んではいないのだ。
ただし、可哀相な事に、ずっと寝たきりなのだ。
僕よりもずっと、足腰の丈夫なひとだったのに。
僕は久々に自分の口から、声を出して喋った。
「チロと海水浴へ行く予定だったんだけどね……」
「まあ、それはそれは」
と女房は、笑いながら病室に入ってきた。
そうだ。女房の足腰は、まだまだ達者なものだ。
そうしてみれば、やはり寝たきりなのは、僕の方らしい。
何故だか、さっきから、お寺の鐘が鳴りっぱなしだ。
僕は耳がいい。
聴力には自信がある。
だから、いささかうるさい。