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チロはチロ

 毎日暑い日が続くので、チロと海水浴に出かける事にした。

枕の脇で伸びをしているチロにさっそく尋ねてみると、すぐにでも行きたいと言う。

 いつからだろう?

 チロの声が聞こえるようになったのは。

 実は、僕はずっと長い間チロの事を、どういうわけか、ぬいぐるみだと思い込んでいた。

 不思議な事だ。

 こんなにも温かくて柔らかな腹をしている、れっきとしたオスの猫だというのに。

 まあ、だけど、認識というものは、多分に主観的なものなのだ。


 実を言えば、今でも他の人には、チロはぬいぐるみに見えるらしいのだ。

 もしかしてチロはチロの都合で、ぬいぐるみに化けている必要があるのかもしれない。

 人間にしたって、都合により一日中ロボットに成りきっている人を、僕は何人も知っている。

 そもそもチロは死んだ女房のつけた名前だ。

 いまいち僕の趣味じゃないが仕方が無い。

 いまさら代えたってしょうがないじゃないか。

 もはやチロはチロなのだから。

 けちをつけちゃいけない。

 第一、けちをつけたら恐い事になるのだ。

 チロ、ちろ、血路、うわっ!

 ほら、なってしまったじゃないか。

 だからチロはチロでいいのだ。

 チロだって、この名前は気に入っていると言っている。


「小野寺のおじいちゃん、またぬいぐるみ相手に独り言を言ってるわ。海に行きたいんですって」

「ダメよ! 小野寺のおじいちゃん。ついこのあいだ逃げ出して、大変なめに遭ったばかりでしょ」

 看護婦A子とB美の会話が、まる聞こえなのだ。

 僕は子供の時からピアノを習っていて、今でも週に一度は、ちゃんと上手くなっているのかどうか、母の前で弾かされるのだ。

 最近は、ほとんど練習してないのだが、母に怒られる心配はなくなった。

 何故かと言うと、いつの頃からか、母の好きなジムノペティさえ弾いて聞かせると、母は喜んでくれて、子供の頃のように、モノサシで太ももを叩いたりしなくなったのだ。

 このように音楽が得意な僕は、楽団の演奏なんか楽器別に、個々の音を聞き分ける事だって出来る。

 つまり耳が良いのだ。

 だから先生の言葉も、看護婦さんの言葉も、はっきりと聞こえる。


「小野寺さん、徘徊癖が本格的になってきたわね」

「まあでも、珠子おばあちゃん程ではないわね」

「ほら、僕は耳がいいって、また自慢してるわよ」

「何処でピアノを弾くのかしらねえ。くすくす」

「いくら耳が良くったって、脳まで届かなくっちゃ、困っちゃうわよね?」

「くすくすくす」

「とにかく、午後からは戸締りをしっかりしとかなくっちゃね。……珠子さん……ちゃんとそこに居るわね?」

 女というものはどんな馬鹿でも、やたら勘がいいものだ。

 いつのまにか僕の耳が良いという事を知っている。

 これからは年相応に、耳が悪いふりをした方が良さそうだ。

 いらぬ警戒心を持たれると、不自由な暮らしが、ますます不自由になるという事を僕は知っている。


 さて、何はともあれ朝飯をさっさとすまして、チロと出かけよう。


「はいはいなあに? 小野寺さん……あらそうなの? それは困ったわね。くすくす」

「でもね、小野寺のおじいちゃん、朝食はたった今、みんなで食べたばかりでしょ?」

 馬鹿な!

 空腹だから食事はまだか?

 と尋ねたんじゃないか。

 食べたばかりなら空腹な訳ないじゃないか!


 ──まあいいさ。


 一食くらい抜いたって人間、死にはしない。

 女共に、意地汚いと思われるのもしゃくだ。

 だから悔しいが、我慢しよう。

 我慢が肝心なのだ。

 我慢さえしていれば、そのうちには、きっと……。とにかく我慢だ。


「小野寺のおじいちゃん、我慢、我慢って言ってるわよ」

「嫌あね」

 ──え? 何を我慢してるんだっけ?

 何だっけ?

 まあいい。

 どうせ、たいした問題じゃあるまい。

 ところで腹が減った。朝飯はまだか?

 最近朝飯が遅い。

 さっさとすましたいこっちの身にもなって欲しいものだ。

 誰だって一日の予定というものがあるのだから。

 そうだ、チロと海水浴だ。

 早く行かなきゃ。

 もう朝飯はいらない!

 うかうかしてたら昼飯の時間になっちまう。


「いらないですって! まったく、失礼しちゃうわ。こっちの方が、よっぽど我慢の連続なのよ。ねえ、小野寺さん、聞こえてるの?」


 返事をしたら耳が良い事が分かってしまう。

 黙っていよう。



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