黒と闇と光と謎と
「ガゥル・・・・・」
うめき声の他にも何か聞こえるが、言葉のようでもあり不明瞭なので違うかもしれない。
いずれにしても膝を突き合わせて話のできるタイプではなさそうだ。
すばるとその一歩前で半身を被せる勇一、二人とも同じ感想を抱いたのだろう、無言でじりじりと下がる。しかし、いくらかでも灯りのある場所までとなると10メートル以上ある。背を向けて走ればおそらく数歩だろうが、大柄で低い体勢を保ったままと思われる(だって見えないんだもの)この黒い影が、黙って許すとは到底思えなかった。
手にした買い物袋が街路脇の柵に触れる。がさっ。
闇の中の黒い影が消えた気がする。始めからろくに見えていなかったのだから気がするだけなのだが、それでも勘に任せてその場を飛び退くと耳元に風圧がのしかかる、ごおっという音。まるで大型トラックか鉄道の通過だ。
体勢を立て直そうとした瞬間、すばるが勇一の背中を付き飛ばす。片足で跳ねる勇一の横をまたも爆風が舞う。勇一の手にあった買い物袋は取っ手から先がなかった。無理に首をねじると路上に散乱する食材の先に、見上げる黒。突き飛ばしたすばるも反動を利用して跳ね、そこそこの距離で尻もちをついている。そのあられもない姿はぼんやりと見えるのに黒い巨体は黒々と暗闇よりも深い黒だった。
「ナゼダ」
そう聞こえた。いや、気のせいということにしておこう。影は振り返るように勇一をねめつけ、一歩踏み出す。
すばるの反応は早かった。膝立ちからわずかな時間でステップを踏み、わざと影の視界に入るよう、距離を取りつつ左右に動ける広い場所へ移動。すばるは剣技が得意だと勇一の耳にも入っていた。
腰を落としフレアスカートから伸びる白い足を大胆に開き左足を引く。力を込めた肩をくいとゆすると、腰だめにした手に長剣が現れる。手首だけですいと回し両手に持ちゆっくりと正眼に運ぶ。静かに息を吐きながら剣先がゆっくりと下がり、間合いを計る。その視線が影の注意を引く。
真正面に向き合う勇一は必死に目を凝らすが、やはり黒い影は巨体を覆い隠す闇の中だ。
睨み合いの中、動いたのは影の方だ。予備動作が感じられない瞬間的な横っ飛びを、すばるはぎりぎりでかわしつつ切っ先をぶつけ防御にする。ちょっと当たった程度だがすばるの細い体は軽々と吹き飛ばされる。
受け身を取ってくるりと転がるすばるの傍に駆け寄る勇一。影の獣はゆっくりと振り返り、何かまた唸っている。言葉のような、もしそうなら愚痴に近そうだ。
「すごいね鳩宮さん、あれが見えるんだ」
「勘ですよ、と言うと格好をつけすぎでしょうか」
綺麗な耳元に顔を寄せ、できるだけ小さな声で伝える。
「・・・・・」
対してすばるは声ではなく口だけ「はい」と返す。辛うじてそれとわかる唇が触れるほど近くに寄ってきて、どきりとする勇一。
分析の名目でアプリケを研究室に預けている勇一には能力を使った攻撃はできない。できたとしても元々期待できる威力など望めないが素手よりはましだったろう。せめて先手を取りたい。両足に目いっぱいの力を込めて飛び出すと、すばるの前を横切るように影の獣に突っ込む。獣は躊躇なく真っ黒な腕を振り下ろす。両足で蹴り体を捻って剛腕の向こう側へ転がって避ける。地面を撃つ怪力。そこへ勇一の背中から飛び出したすばるが横薙ぎに剣を当てる。ヒット!
始めから切り落とせるとは思っていない、力をうまく逃がしながら獣の背後に駆け抜ける。勇一も転がりながら這いながら距離を取る。
「当たった!」
「わずかですが、手応えがありました。お見事です」
「そんな大層なものじゃないよ。避けられたのも奇跡みたいなもんだ。だけど効果はどうだろうねえ。事態がよくなった気は全然しないけどね」
紙一重でかわせたが無傷なのが不思議なくらいだ。互いの位置を入れ替えて背中に街灯の明るさを感じる。ひょっとして獣はちっとも本気じゃないのかもしれないと勇一は思う。今は真っ黒な巨躯がぼんやりとわかる。剣の当たった右腕を左腕でさすりながら首だけ回して睨む影の獣。多少でもダメージがあったと信じたい。
「睨んでる睨んでる。どっか行ってくれないかなあ」
「恨みを買うようなことをしたでしょうか。そもそもどなたなんでしょう」
またも、掻き消えるように移動する獣。先ほどまでよりもぐっと速い。すばると勇一、お互いを突き飛ばし、左右に跳ねる。が、奴の狙いはすばるだった。
「きゃ!」
小さな悲鳴に姿を探すと、丸太のような腕に片足を掴まれ、今まさに持ち上げられようとしているすばる。
すばるは「きっ!」と歯ぎしりと共に剣を振り回す。ガンガンとそこにあるはずの巨体を打つが小枝ほどの効果もなさそうだ。
あのとてつもない腕力で地面に叩きつけられでもしたら、ひとたまりもない。能力による防御はジオビーストの放つビーム攻撃以外には効果がほぼない。勇一は考えもなしに突進する。踏み出して拳を構えてから、この非力な腕で殴っても注意を引くことさえできないだろうと今更思う。と、奴のもう一方の手が突き出されるのが見えた。勇一の目が慣れたのか、あるいはバカにされてわざとゆっくり動いているのか、今の勇一には考える余裕もなくたたらを踏んでかわす。かわした先にはすばるが、もう逆さまになって勇一の顔の高さまで持ち上げられている。
何の案もなかった。無我夢中ですばるを助けなくてはと精一杯ジャンプする。少しでも考えていたならばそんなことをすればすばるの体に負担がかかることは分かった筈だ。しかし、急に止まれるはずもなく彼女に体当たりで絡みついたその瞬間、バチッと何かが弾けるような感覚があり獣はすばるの足を離す。
ひと塊にもつれ合って道路に転がる二人。
「痛てて。大丈夫?」
目を開けた勇一の両の頬にはほわんと暖かい何かが押し付けられていて、暗闇に慣れた目に白く、それがすばるの両足だと気付くのに0.1秒だった。
「うわたわたああ」
失敗と失態を詫びようと飛び退くが、そのすばるは怒るでも恥ずかしがるでもなくただ無言でどこを見ているのかもわからない無表情を帯び、剣を杖に立ち上がろうとしている。ゆらりと覇気の感じられない動きはどこかで見た気がする。
獣は突然の衝撃から1歩だけ足を引き、向き直ると再び低く構える。だが、すばるの雰囲気に何かを感じたのかすぐには動かなかった。
剣を、ゆっくりと、澱みなく頭上に高く構えるすばる。腰を下げ右足を半歩だけ出しつま先を地面に擦り付ける、じりっという音。同時に剣に煌びやかな光がほとばしる。放たれた光は剣を赤く輝かせ10mはあろうかという長大な姿に変えていた。
「はっ」と息を吐いた次の瞬間には振り下ろされていた。神速とでも言えばいいのか。ルビーカラーに飲まれる影の獣。
真っ赤な光が収まると地面にはちょうど剣の長さを半径にした丸いくぼみができていた。深さは2mほどか。ぐずぐずに割れた舗装が上から押しつぶされたことを物語っている。すばるはその淵に立っている。すでに剣は元の姿に戻っていて間もなく消えるようにアプリケへと戻った。
奴は。黒い暗闇の影の獣は姿が見えない。勇一は慎重に辺りを伺う。
「今の光でやっちゃった・・・?それにしては跡形もなく、って都合がよすぎるよな。てゆか、これって・・・」
考えることが多すぎて混乱を極めているところだが、すばるの膝がかくんと折れるのだけは見逃さず、彼女の体の下に両腕を差し入れることができた。
ふぅと息を吐くと遠く近くたくさんのサイレンが聞こえる。重ねて警報が響き渡る。
「・・・非常配備。繰り返す!警報警報、ジオビースト出現の感あり。警戒されたし。B11区画付近に非常配備」
どれほど集中していたのか少し前から耳に届いていたはずのやかましい非常警報は、内容こそわかるものの勇一にはまだ区画がどうこうと言われても見当がつかない。何ができるわけでもなく、どこかにいるらしいジオビーストより腕の中のすばるだ。すっかり脱力しているが耳を寄せると寝息が聞こえる。安心しながらも足元の大穴も目に入る。
「やばいやばい」
とりあえず、すばるの鞄を引っ掛けその場を離れ寮へと向かう。お姫様抱っこのすばるは美しい寝顔だった。
公園の中ほどまで来るとお姫様が目を開ける。ここまで早足で駆けてきたのでそれなりにがくがくと揺さぶられたことだろう。ついでに勇一の膝もがくがくだ。
「あ、鷹城さん。ごきげんよう」
「大丈夫?怪我はない?」
ゆっくりと立たせる。呑気な挨拶に気が気じゃない勇一。髪の毛に付いたごみに気付き、頭、肩、背中をぽんぽんと叩いて砂粒やなんやを落としてあげる。左手で。すばるはゆるゆるした動きで腕や踵のあたりを見ている。
「いえ、特に。えーと、ここは」
「寮に帰るところだよ」
「あ、そうでしたね」
じーーーっと勇一の顔を見つめるすばる。ゆうに20秒は仰視注視正視黙視され、そのまま一歩下がり、今日何度目かの美しいお辞儀を見せる。
「では、ごきげんよう。また明朝に」
「あ、うん。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
くるりと翻り、遠ざかる姿がまた美しい。公園の出口で振り返り再びお辞儀をして女子寮へと消えた。消えてもなお見惚れるように目で追う勇一。
「これは、やっぱりアレだよなあ」
自分の右手に目を移す。
「どこに触っただろう。もし、触るっていう条件じゃなかったら、んーーーー」
にぎにぎする右手と、暗がりにあってさえ目にまぶしかった白い肌と白い布切れ、ついでに冗談ではすまない闇の影の黒の獣。考えようとするが全く一つの方向を向かない。
「あ、明日は検査だから教室には行かないんだった。鳩宮さんごめんね、明日はなかったよ・・・」
いろんなことを思い出しながら、すり減った神経をこれ以上何かに費やすことが、勇一にはできなかった。
「ふぅ」
夜の街を走るたくさんの赤色灯を眺める女性。少しだけ背を起こしたベッドに横たわって小さくため息をつく。建物の2階部分は周囲よりもやや床が高く窓も大きく作ってあるため眺めがいい。白い壁、白い天井、広めの部屋にマルチ可動ベッドと大ぶりなテーブルがあり、生活空間とも事務室とも様子が違う。
インターホンの軽やかな音色が来客を知らせる。
手元のマルチ端末に「どうぞ」と優しく返す。
「皇様、経過報告に参りました」
皇と呼ばれたその女性は可動ベッドの背をもう一段起こし上体を浮かせマルチ端末を操作、部屋の扉と短い廊下の先の扉を開錠する。熟年か初老か妙齢か、それなりの年齢にも若々しくも見える不思議な雰囲気を漂わせている。
扉が開き薄布をまとった女性が一礼の後、タブレット型の端末を携えてベッド脇まで歩み寄る。
「伺います」
首から下をすっぽり覆うゆったりしたその薄布は全身がほぼ透けており、ありありと見える下着も驚くことに同じ素材でできているらしい。裸ではないという程度で目を凝らせば実質は大差なかった。
「街に現れたらしいジオビーストは依然捜索中です。範囲を絞り込みB11および17区画に人員を配置していますが目撃者は報告されていません。反応はすでに途絶え、見失ったとみるのが妥当かと。ただ関係は不明ですが、当該区画で赤い光を見た者が多数おり、管制室でも衝撃波を検出しています」
「・・・あ、光ですか。誤認であって欲しかったのですが、見失ったことも含めてどうなのです?」
皇の反応が少し遅れた。なるべく薄布と素肌を意識しないよう難しい努力を強いたためだ。対する薄布は泰然自若。
「6地点で同時に反応しています。近地の2箇所は反応したものの知覚素子の破損か機能喪失か、少なくとも現時点で復旧不能とのことですから、司令部でも確実と見込んでいるようです」
「驚きましたね。誰の目にも留まらないというのは、いよいよ、ですかね。逃走、・・・か潜伏も考えるべきかしら、本島内に出現した事実は変わりませんからね。前代未聞?でいいわよね。光についても気になりますが、警戒には十分注意して欲しいと伝えておいてください」
「かしこまりました。隊本部との連携は熊野に任せてあります。では続いて、ブーストエクステンションの件ですが」
「あら、何かわかりましたか」
これまでとは一変、表情を明るくする皇。
「実は、正式に調査に当たっている保安部は大枠を捉えているにすぎず学生数名に絞り込んで内偵中とのことでして。これとは別に内々に動いている鴨目司令のほうが核心に近いようです。発動後の周辺事情からブーストにあたりを付けた模様」
「あらあら、ややこしいことになってますね。やはり彼ですか?」
「はい、そのようで。鷹城勇一。つい数日前に編入してきた男子です。様々な状況を突き合わせると彼以外には考えられません。射手は同じく4年の舞鶴鈴香でした。他に技術部の双次、担当教諭の井幡が関与している模様。ですが報告は断片的というよりもごく一部にすぎず、坂巻総司令の耳にも入っていないらしく」
「内緒?・・・ということかしら」
「そこは鴨目司令のことですから、このまま秘匿するとは考えられませんが、公表をためらう何かががあるのか、あるいは他に吟味している途中なのか、といったところでしょうか」
「いえいえ、言い方が悪かったわね。賢明な判断だと思いますよ。正規の隊員なら何も問題になっていないでしょう。学生を保安部に突き出すわけにはいきませんもの。慎重になって当然ですし、鴨目とて実態を知る立場にないまま運に味方されたのでしょうから、扱いに困って当然です。それよりもこうしていくつもの事案が重なるのは、・・・偶然なのでしょうかね。これが彼の残した予告で示されるものなら、次、があるはずです。あまり歓迎はできませんがね。準備が間に合えばよいのですが」
「何か助言でも致しますか」
「いけませんよ。現役を退いた者がとやかく口を出せばろくな結果になりませんし、却って判断を誤らせる材料にもなります。坂巻ならうまく立ち回れるでしょう。私たちは見守るだけです。そうですね、この懸念が現実味を帯びてくるまでは静観です。折を見てお話しする機会を設けましょうね」
再び窓の外に目をやり遠くを見る皇。赤色灯が流れる。報告を終えた薄布の女性は一呼吸おいて頭を下げる。
「では、失礼します」
挨拶を返そうと首を回し、背を向けドアに進む、どう見ても何かしら問題のある後姿とお尻を見て、出かかった言葉を一旦飲み込み質問に変える。
「それはそうと、塩見さん」
「は」
「その衣装は何か任務によるものですか?」
「いえ、趣味ですよ」
さも聞かれたから答えたまで、という平常ぶり。
「・・・趣味・・・ぃ。なかなか凝った作りに見えますが市中のお店で扱うには大胆な気がしますね」
「まさか、お手製ですよ。制服以外は大抵自分で作ります」
徐々に笑みが濃くなる塩見。皇の元に就くようになって数か月ほど。皇にしてみれば、ある程度は打ち解けたものだが趣味にまで関心を持たなかった。選択を誤ったらしい。まさかただの趣味とは。
「わりとかっちりしたものは教科書通りで作れるんですけどね。最近はファンタジーっぽいものを試行錯誤してるんです。トレーニングを終えたところに報告を受けたので、着替えるなら制服よりこっちのほうが雰囲気出るかなーと思って。これは自信作ですよ。厚みの調整と縁の処理が難しんです。いいでしょ」
説明に感情が乗り、腰をくりくりとゆすると薄布もふわふわ揺れる。皇の『やはり聞くべきではなかったわ後悔先に立たず』顔には興味がないようだ。
「・・・なかなかのものですね。お疲れ様」
「ありがとうございます!」
夜が明け、寮の部屋で目覚めた勇一は、どうやってベッドに入ったか記憶にないことと昨晩のことを井幡には報告しておくべきだったかもしれないと反省するのだった。軽く。
どうして朝は来るんだろうなどとぼやきながら疲れの抜けない体を励まして廊下に出ると、環と出くわしおはようを交わす。
早朝から無駄に朗らかな環に食堂まで背中を押してもらい、昨日の午後からの騒ぎや昔の噂話やらを聞きつつ適当に朝食をむさぼる。今日は研究棟で説教があると伝えると、環は井幡から聞いていると答えた。根回しが鮮やかな担任教師だ。
あれやこれや話し足りない環をなんとか引っぺがし、シャワーを浴びながらじゃあ鳩宮さんも知ってるかなと多少気が楽になる勇一だが、それも寮を出て、公園の入口にその姿を見るまでだった。
「あ」