第32話 ジプシー
俺は、職員室の前を通過して生徒会室の前までくると、立ち止まった。
気分的に、眼鏡をかけなおす。
自分自身、いまは精神が不安定になっていることくらい、わかっている。
ほーりゅうとの先ほどの会話のせいだということも。
俺は、しばらくドアの前で佇み瞳をつむって、じっと平常心が戻ってくるのを待った。
あのとき。
ほーりゅうが転入してきた次の日の屋上で、賭けのように、みずから話を振って口にだし、そして誰もが気づかず聞き流すことを祈っていた言葉だった。
実際、あの場では誰も気にとめなかったから、すっかり過去のこととしていたのに。
ほーりゅうは、俺の言葉をしっかりと覚えていた。
油断していたからだろうか、精神的にここまで動揺するのは久しぶりだ。
ほーりゅうにしてみれば、単なる無邪気な質問だったのだろうが。
やはり、あの女には警戒する必要がある。
俺は、ゆっくりと深呼吸をした。
思いきり息を吐く。
どうにかいつもの調子が戻った感じがしたため、生徒会室の扉をノックした。
かすかに「どうぞ」との声が聞こえて、俺は、その扉を開ける。
だが。
まだ俺の感覚は、本調子ではなかったらしい。
扉を開けると、なんと生徒会長がひとりで机に向かって、視線を手もとに向けていたのだ。
校内では、いま、もっともふたりきりで顔を合わせたくない相手だというのに。
普段なら読みとることができる他人の気配を、俺は感じることができなかったらしい。
仕方がない。
「――あの、文化祭のクラスの出し物の詳細の書類を、持ってきたのですが……」
ささやくように口にした俺へ、生徒会長は顔をあげずに、持っていた鉛筆で壁際近くの机のほうを指し示した。
「ご苦労。文化祭関係の書類は、そちらの机の上の箱に入れておいてくれ」
その言葉に、小さな声で返事をした俺は、できるだけ会長の注意をひかないように、控え目に動いて箱へと近寄った。
文化祭関係の書類は全部ここか。
だったら、ついでに後夜祭ライブ出場のための書類もだしておくか。
会長に背を向け、俺は、持ってきた書類を入れた。
そして、このまま気づかれずに部屋を退出したいところだったが。
――残念なことに、突き刺すくらいに強い視線を、背中へ感じた。
会長が、俺だと気がついたのだろう。
校内である上に、ここ生徒会室は向こうのテリトリーだ。
前回の事件のことを言及されるだろうが、俺は、徹底的にしらばっくれる覚悟を決める。
あのとき、会長が屋上で俺たちの会話を立ち聞きした以外に証拠はない。
当事者となる会長の妹は、俺との約束を守ってくれたようで、事件に俺の存在はないはずだ。
もっとも、他人を疑うことなど知らなさそうな彼女は、俺のことを高校生だとは思っておらず、いまだに警察のなかの人間だと信じているだろう。
椅子から立ちあがる音がした。
だが、しらばっくれる予定の俺は、慌てて逃げるなんて動きができない。
そして、近づいてくる気配がしたかと思うと、後ろから右肩に手が乗り、引っぱられた。
振り返ると同時に両手で胸倉をつかまれ、俺はそのまま、背中から近くの壁へと叩きつけられる。
「痛っ!」
思っていた以上の力があり、思わず声が漏れた。
会長の鋭い視線が、顔をそむけている俺の頬に突き刺さる。
「貴様、――いったい何者だ?」
「何者って? ただの一年です」
「嘘をつくな!」
会長の、俺の胸もとをつかんでいる両手に力がこもる。
「本当に、先輩がなんのことを言っているのか、さっぱりわからないんですが……」
俺のとぼけた態度のせいで会長の怒りが頂点に達したのか、いきなり右の膝蹴が俺の鳩尾に食いこんだ。
とっさに腹筋をしめてガードするものの、この近距離で的確な急所をとらえられて、かなり効いた。
膝が崩れかけるところだが、壁に押しつけられている力が強くて許されない。
空手有段者相手に白を切り通すのはきつそうだ。
――この会長相手に一方的に痛めつけられても、声はあげたくないと思っているのは俺のプライドか、などと関係のないことを考えて意識をそらす。
そして、上段への攻撃にも備えて、俺は会長から目をそらさずに歯を食いしばった。
そのとき、ふいに生徒会室の扉が開いた。
入ろうとした生徒会員らしき女生徒が、状況をみて小さな悲鳴をあげる。
ハッと顔をあげた会長の力がゆるんだ。
その意識をそらせた一瞬の隙に、俺は、会長の腕から滑り落ちるように振り切ってのがれる。
「あ! 待て!」
慌てて叫んだ会長を背に、俺は、口もとを押さえて入り口で立ち尽くす女生徒の脇を、するりとすり抜けた。






