第261話 ジプシー
そのとき、床をさまよっていた俺の視線が止まった。
頬に痛いほど、京一郎の視線がささっていることは知っている。
だが、そのことを一瞬忘れてしまうくらいの衝撃で、俺の時間が停止した。
目の端に、自習室の中央に設置された柱の一部が見えた。
柱の表面を覆っていた壁紙がはがれ、むき出しになったコンクリートの面は、教師には内緒の、だが生徒のあいだでは皆が知っている伝言板と化している。
利用する生徒同士の暗黙の了解で、時間が経つと薄れて風化するように、それらは鉛筆で書かれている。
暇つぶしの落書きや友人や恋人たちの伝言であろう、いくつもの短い文。
柱の中ほどに書かれてある、そのうちのひとつが、俺の瞳に映りこんだのだ。
俺の異変に対して訝しげな表情を浮かべた京一郎に気がついたが、俺は構わず確認するように柱に近寄った。
左手をあげて、柱の表面を触る。
指先が、そのかすれた文字を読んだ。
ジプシーがピアノをきかせてくれますように
名前はなかった。
だが、試験前にさんざん勉強をみてやったんだ。
ノートにたくさん書き連ねていた、ほーりゅうの丸い文字を、俺が見間違えるわけがない。
これは、いつごろ書かれたのだろう。
鉛筆のかすれ具合から、最近のものじゃない。
去年のあいだだろうか。
俺がピアノを弾けることをほーりゅうが知ったのは、高橋麗香との闘いのときだった。
ならば、クリスマスの旅行へ行く前くらいだろうか。
自然と俺は、目を閉じた。
柱に額をつける。
彼女との約束を、俺はまだ、果たしていない。
いつも俺の感情が揺さぶられるときに、ほーりゅうがいる。
彼女の存在は、常に冷静であろうとする俺の心を掻き乱す。
いまの俺は、ほーりゅうと別れることだけしか考えていなかった。
だが。
ほーりゅうがそばにいたら、俺は彼女と共に過去と向き合えるだろうか。
ほーりゅうは俺に、未来と闘う勇気をくれるだろうか。
感情がなければただの人形。
怒りでも悲しみでも喜びでも、感情が動けば生きているというものだ。
昔、悲しみから逃れるために感情を殺して生きようとしていた俺に、拳法を教えてくれた師匠が言った。
あの当時は、ならば我龍に対する憎しみだけで生きていこうと決めたんだ。
「――京ちゃん」
いつの間にか、俺は言葉に出していた。
「俺は、これから変わることができるのかな。彼女のそばで、人間らしく生きることができるのかな」
目を開いて、俺は京一郎を見つめた。
京一郎は、俺の迷いを断ち切る笑顔を浮かべて、大きくうなずいてくれる。
飛びだしていくつもりで、俺は自習室のドアのほうへ振り向いた。
すると、京一郎が察したように制服のポケットへ手を入れ、バイクのキーを取りだすと、そのまま俺のほうへ投げてよこす。
「絶対こっちのほうが早い」
俺は、京一郎へ片手をあげてキーを受け取った。
「場所は」
「知っている」
続けて場所を告げようとした京一郎の言葉をさえぎり、俺は駆けだした。
知っている。
ほーりゅうの現在いる場所を。
この三日間のほーりゅうの行動も、すべて知っている。
結局無視しきれなかった俺は、せめて彼女が目覚めてから行ってしまうまで、ただ黙って見守り続ける気でいたからだ。
いまも、俺のその『眼』が、ほーりゅうが奴らと待ち合わせて合流した瞬間をとらえている。
だが、自習室のドアへ手を触れようとした瞬間、外に人の気配を感じて、俺の動きが止まった。
見ている前で、すっとドアが横滑りに開けられる。
ドアの向こうに立っていた、短髪で黒い革ジャケット姿の男と、俺は目が合った。
「――ああ。きみ、急ぐんだろう? どうぞ」
そう告げると身体をずらし、男は笑みを浮かべて俺のために通り道をあける。
その顔は見たことはあるが、反射的に思いだせなかった。
直接会ったことがなく、資料や写真だけで確認した人物だということだろうか。
口もとは笑っているが、隙のない眼光。
柔らかな物腰だが、無駄のない動き。
やや京一郎の家に出入りする若い連中に似ているが、明らかに只者ではないうえに、まとう空気が堅気寄りだ。
警戒しながらも、俺に対して殺気を感じさせなかった男の脇を、無言ですり抜ける。
そのまま俺は、走りだした。
「今日子に呼びだされたんだ。京、久しぶりに俺のケツに乗っていくか?」
廊下を駈ける俺の後ろで聞こえた男の言葉に、俺はようやく思いだした。
この男は、京一郎のまとめている族の先代リーダー、泉だ。






