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キスメット 【第7章まで完結】  作者: くにざゎゆぅ
【第七章】巫女編 『ヴェナスカディアの巫女』
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第261話 ジプシー

 そのとき、床をさまよっていた俺の視線が止まった。


 頬に痛いほど、京一郎の視線がささっていることは知っている。

 だが、そのことを一瞬忘れてしまうくらいの衝撃で、俺の時間が停止した。


 目の端に、自習室の中央に設置された柱の一部が見えた。

 柱の表面を覆っていた壁紙がはがれ、むき出しになったコンクリートの面は、教師には内緒の、だが生徒のあいだでは皆が知っている伝言板と化している。


 利用する生徒同士の暗黙の了解で、時間が経つと薄れて風化するように、それらは鉛筆で書かれている。

 暇つぶしの落書きや友人や恋人たちの伝言であろう、いくつもの短い文。

 柱の中ほどに書かれてある、そのうちのひとつが、俺の瞳に映りこんだのだ。


 俺の異変に対して訝しげな表情を浮かべた京一郎に気がついたが、俺は構わず確認するように柱に近寄った。

 左手をあげて、柱の表面を触る。

 指先が、そのかすれた文字を読んだ。



    ジプシーがピアノをきかせてくれますように



 名前はなかった。

 だが、試験前にさんざん勉強をみてやったんだ。

 ノートにたくさん書き連ねていた、ほーりゅうの丸い文字を、俺が見間違えるわけがない。


 これは、いつごろ書かれたのだろう。

 鉛筆のかすれ具合から、最近のものじゃない。

 去年のあいだだろうか。


 俺がピアノを弾けることをほーりゅうが知ったのは、高橋麗香との闘いのときだった。

 ならば、クリスマスの旅行へ行く前くらいだろうか。


 自然と俺は、目を閉じた。

 柱に額をつける。



 彼女との約束を、俺はまだ、果たしていない。



 いつも俺の感情が揺さぶられるときに、ほーりゅうがいる。

 彼女の存在は、常に冷静であろうとする俺の心を掻き乱す。

 いまの俺は、ほーりゅうと別れることだけしか考えていなかった。


 だが。

 ほーりゅうがそばにいたら、俺は彼女と共に過去と向き合えるだろうか。

 ほーりゅうは俺に、未来と闘う勇気をくれるだろうか。


 感情がなければただの人形。

 怒りでも悲しみでも喜びでも、感情が動けば生きているというものだ。

 昔、悲しみから逃れるために感情を殺して生きようとしていた俺に、拳法を教えてくれた師匠が言った。

 あの当時は、ならば我龍に対する憎しみだけで生きていこうと決めたんだ。




「――京ちゃん」


 いつの間にか、俺は言葉に出していた。


「俺は、これから変わることができるのかな。彼女のそばで、人間らしく生きることができるのかな」


 目を開いて、俺は京一郎を見つめた。

 京一郎は、俺の迷いを断ち切る笑顔を浮かべて、大きくうなずいてくれる。


 飛びだしていくつもりで、俺は自習室のドアのほうへ振り向いた。


 すると、京一郎が察したように制服のポケットへ手を入れ、バイクのキーを取りだすと、そのまま俺のほうへ投げてよこす。


「絶対こっちのほうが早い」


 俺は、京一郎へ片手をあげてキーを受け取った。


「場所は」

「知っている」


 続けて場所を告げようとした京一郎の言葉をさえぎり、俺は駆けだした。


 知っている。

 ほーりゅうの現在いる場所を。

 この三日間のほーりゅうの行動も、すべて知っている。


 結局無視しきれなかった俺は、せめて彼女が目覚めてから行ってしまうまで、ただ黙って見守り続ける気でいたからだ。

 いまも、俺のその『眼』が、ほーりゅうが奴らと待ち合わせて合流した瞬間をとらえている。


 だが、自習室のドアへ手を触れようとした瞬間、外に人の気配を感じて、俺の動きが止まった。

 見ている前で、すっとドアが横滑りに開けられる。

 ドアの向こうに立っていた、短髪で黒い革ジャケット姿の男と、俺は目が合った。


「――ああ。きみ、急ぐんだろう? どうぞ」


 そう告げると身体をずらし、男は笑みを浮かべて俺のために通り道をあける。

 その顔は見たことはあるが、反射的に思いだせなかった。

 直接会ったことがなく、資料や写真だけで確認した人物だということだろうか。


 口もとは笑っているが、隙のない眼光。

 柔らかな物腰だが、無駄のない動き。

 やや京一郎の家に出入りする若い連中に似ているが、明らかに只者ではないうえに、まとう空気が堅気寄りだ。


 警戒しながらも、俺に対して殺気を感じさせなかった男の脇を、無言ですり抜ける。

 そのまま俺は、走りだした。


「今日子に呼びだされたんだ。京、久しぶりに俺のケツに乗っていくか?」


 廊下を駈ける俺の後ろで聞こえた男の言葉に、俺はようやく思いだした。


 この男は、京一郎のまとめている族の先代リーダー、泉だ。



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