第240話 ほーりゅう
見慣れた通学路を、わたしは家へ向かって足早に歩いた。
ガードレールはないけれど、車道と歩道を白いラインで区切った道路。
胸騒ぎがあるいまは、とくに事故に気をつけなくちゃと、車や通行人へ眼を配った。
ときどき車がゆっくりした速度で通り過ぎるけれど、いつもはちらほらと見かける、この付近の住人らしき姿が見当たらない。
この、いまにも雨が降りそうな天気のせいだろうか。
少しのことが気になると、すべてが不安に思える。
見慣れた風景。
両側に建ち並ぶ住宅、植木鉢、道路標識、曲がり角。
なにもおかしいところはないのに、とてつもなく心細かった。
わたしの持っているカディアの石も不安に反応しているのか、ずっと心の奥で波立っている感じがする。
そして、住宅に挟まれた、砂場と滑り台だけがある公園と呼べるかどうか首をかしげるような小さな広場の前を、通りかかった。
さっさと通り過ぎればいいところだけれど。
そこに、普段は子どもの姿さえ見たことがないのに、なぜか今日は、目をひくカップルを見かけて、つい、そのふたりの顔に視線を向けていた。
ひとりは、グレイのスーツを着こなした二十代半ばほどの、ほっそりとした美人の女性だった。
例えたら職業は、社長秘書と言ったところか。
綺麗なダークブラウンの髪を肩口でそろえたワンレングスで、わたしの視線を察知して見返してきた眼差しと、きりっと引き締まった唇の印象が、いかにも仕事ができそう。
もうひとりは、その秘書を従えた若社長と言う感じだろうか。
机に向かっているばかりではなさそうな、身長もある、がっしりとした体格が、黒に限りなく近い茶色の高級そうなスーツの下にうかがえた。
短く整えられたスポーツ選手のような髪型が、体育会系に仕上げている。
美形というより、なんとなく魅力のある男性という言葉が合いそうな、二十代前半だろう男の人だ。
そして、通りかかったわたしを凝視する眼は、誇らしげで自信にあふれた、いかにも上に立つ風格を持った力のある眼差しだった。
男性と眼が合った瞬間、わたしの心の奥のさざ波が、大きくうねった。
慌てて視線をそらす。
そして、その場から逃げるように小走りになった。
「なぜ、お声をかけてくださらないのですか?」
凛とした女性の声を背後に聞いて、わたしの足は止まる。
でも、振り返ることができなかった。
わたしの周りを包んでいる異質な空気は、濃厚で息苦しいくらいだった。
「ほらほら、そんなに、かたい挨拶をしなくても良いだろう? 十六年、いや十七年ぶりになるのだから。それだけの長い時間を離れていたから、恥ずかしさが先に立って、なんと言えば良いのかわからないこともあるだろう」
わたしの後ろで、嬉しそうな気持ちを隠しきれないように、男性が女性を戒める苦笑交じりの声が聞こえる。
わたしは両手で、カバンを胸の前に抱きかかえるように持ち直した。
このふたりは、わたしを、ほかの誰かと勘違いをしているんだ。
きっと、そうだ。
じゃないと、十六年や十七年ぶりだなんて言わない。
空一面が雲に覆われ薄暗いなか、色が白くなるくらいカバンを抱え握りしめるわたしの手に、一粒の雨が降りかかった。
続けて、二粒、三粒と大粒の雨が落ちてくる。
わたしは、それを合図に、ゆっくり振り返った。
そして、公園から通りの中ほどまで歩みでて、わたしのほうへ嬉しそうに両手を広げた男性が告げる言葉を、放心状態で聞いた。
「しかし、話を聞いたときには、最長老も、とんでもないことをしでかしてくれたと思ったが。実際こうなると、私としては感謝せねばなるまい。お互いに以前と、ほぼ同じ年齢で似たような姿形のままで再会できることになったのだ。結果として悪い対処ではなかったように思えるな。――どうした? 恋人の顔を見忘れたのか?」
わたしは、その最後の言葉を聞く前に、身を翻して駈け出していた。
――わたしは、この人たちを知らないはずだ。
走りだした先は、学校とは逆の方向だ。
ジプシーのところへ戻ることができない。
以前、ジプシーや京一郎と一緒にいるときに、家の前まで尾行をしてきたふたり組がいた。
この人たちかもしれない。
だとすると、いま、わたしが振り切って逃げても、わたしの自宅はバレている。
きっと待ち伏せされて捕まってしまう。
あてもなく、その場から闇雲に逃げだした。
けれど、駆けている途中から、見覚えのある道だと気がつき、その先に続く場所へ、わたしは一目散に走り続けた。
降りだした雨が、次第に激しさを増してくる。
雨に打たれたアスファルトの独特のにおいが、さらにわたしを精神的に追い詰める。
この突然の豪雨で、視界を奪われそうになりながらも、逆に先ほどのふたりから逃げ切れる眼隠しになればと祈った。
目指す建物が前方に現れ、扉を引っ張りあける時間ももどかしく、わたしは一気に走りこむ。
そのまま、細く短い廊下の先の扉も、倒れこむように勢いよく押し開いた。
「その開け方は紫織だろう? 礼拝堂ってのはだな、もっと静かに入ってくるもの……」
雨のためか、ステンドグラスを通しての光がない、薄暗い礼拝堂の一番前の椅子に座っていた我龍が、笑いを含んだ声でそう言いながら振り返ったとたんに、わたしは膝から崩れ落ちた。
そして、驚いた表情に変わって立ちあがる我龍の姿がかすんで、わたしの意識は暗闇へと落ちた。






