第239話 ほーりゅう
朝から天気が悪かった。
空は、いまにも雨が降りそうな重たくて黒い雲で覆われている。
これは眼に見えるから、気のせいなんかじゃない。
わたしを包む異質な空気は、わたしだけが感じているのだろうか。
夢から戻ってきた全員が感じているのだろうか。
でも、この一週間ほど、誰も言いださないところをみると、これは、わたしひとりだけが感じているだけなのかもしれない。
いまのところ、危険が伴っているわけじゃない。
数日前に一度、ジプシーや京一郎と一緒にいるときに尾行らしきものをされたけれど、すぐにいなくなって害はなかった。
あの出来事と、わたしの感じている違和感は、関係がないよね。
今日もジプシーは、いつものように早めに迎えにきた。
そして、すでに朝の日課となっているため、座ったわたしの後ろへ回ると、丁寧に櫛を通して手慣れたように、わたしの髪を編み込んでいく。
ジプシーが無表情で黙ったままでも、髪を触られることが好きなわたしは、この時間は楽しい時間だった。
でも、今日のわたしは、そのあいだじゅう、言おうか言うまいか迷っていた。
けれど、実害がないし心配させるだけだから、中途半端に相談しなくてもいいよね。
そんなことを考えていると、ふと、わたしの髪を編んでいたジプシーの手が止まった。
「――おまえ、なにか言いたいこと、あるのか?」
鋭い。
「――なんで?」
「おとなしすぎる」
「そんなこと、あるわけないでしょ!」
ごまかすために、わたしは語尾が荒くなった。
不思議に思ったんだろうけれど、ジプシーはそれ以上、なにも言わない。
相変わらずの無表情なので、わたしもジプシーがなにを考えているのかわからない。
日増しに不安感が高まってきている。
今日は特に、きっと、この天気の悪さが気持ちを塞がせているんだ。
試験が終わっているから、そのあとの平日の授業は、終業式まで午前中だけになる。
しかも明日は三年生の卒業式のため、今日は予行練習があり、登校したけれども一、二年の授業はなかった。
それを見越していたのか、朝から京一郎の姿はなかった。
さっそくいくつか学年末考査の答案が返ってくる。
どれもが前回より点数が上がっていた。
この調子なら追試はないだろうなとほっとする。
さすが。
スパルタで叩きこんでくれたジプシー様々だよね。
「ほーりゅう、ごめん。このあと、夏樹さんと約束しているのよ」
帰り仕度をするころになると、こっそり耳打ちするように夢乃がささやいてきた。
スピーカーの明子ちゃんに、夏樹さんとの付き合いがバレていない夢乃は、すごいと思う。
わたしのように、あからさまに態度に変化がないせいなのだろうか。
常に明子ちゃんから突っ込まれるわたしって、そんなに顔に出ているのかなぁ。
「大丈夫。わたしのことは気にしないで、楽しんでおいでよ」
わたしはそう言って手を振り、廊下で夢乃と別れた。
ぼんやりと夢乃の後ろ姿を眺めていると、いきなり後頭部に、なにかがぶつかってきた。
「なにすんのよ。痛いなぁ!」
大げさに頭をおさえて、持っていたカバンを軽くぶつけてきたジプシーを振り返る。
口ではそう言いながらも、朝から気持ちが不安定でひとりになりたくなかったわたしは、ほっとして、いつものジプシーのポーカーフェイスを笑顔で見た。
「俺は、いまから委員会。明日の卒業式のための手伝いに駆り出されている。おまえは気をつけて帰れ」
そう言って、さっさとひとり、わたしの前を歩きだしたジプシー。
とっさにわたしは、後ろからジプシーの制服の上着をつかんでいた。
「なに?」
足を止めて振り返り、珍しく驚いた表情を浮かべて、ジプシーがわたしの顔を覗きこんだ。
わたしは、ついジプシーの服をつかんでしまったけれど、うまく理由を説明できない。
ただ、言い表せない不安がわきあがるだけだ。
「公衆の面前で彼女と見つめ合うとは。いい度胸だな、江沼」
後ろから突然、わたしの耳もとで生徒会長の声がした。
心臓が飛び出るほどびっくりしたわたしは、思いっきり悲鳴をあげる。
瞬間にジプシーの手のひらで口をふさがれた。
「驚き過ぎ」
片手で口をふさぐついでに抱きすくめられたわたしは、今度は別の声をあげたくてもできない。
「一体貴様らは、ここでなにをしているのだ?」
わたしの大声に耳をふさぎ、明らかに迷惑そうな顔をした会長を無視して、ジプシーは、おとなしくなったわたしの口から、ゆっくり手を離しながら聞いてきた。
「どうした? なにか心配事があるのか?」
慌ててわたしは、フルフルと頭を横に振った。
本当に、なにもまだ起こっていない。
そんなわたしの表情を一瞥した会長が言った。
「なんだ、彼女の心配事は江沼の身か。確かに私はいつも江沼にちょっかいを出しているが、仕事の場や皆の前で、喧嘩なぞ吹っ掛けないぞ。そんな大人気ない」
心外だと言わんばかりに不服そうな会長の言葉を聞いたジプシーは、わたしに向き直った。
「俺のことは大丈夫だ。それともなにか、――俺とは違う感覚で、おまえの中に予感めいたものがあるのか? 心配なら俺が見えるところで待っていてもいいが、俺の身になにか悪いことが起こる気がするなら、逆におまえは俺から離れていたほうがいい。おとなしく家に帰って待っていろ。用事が終わったら必ず連絡をするから」
そう言って、わたしの背に回していた手に力がこもった。
ジプシーが、真剣に心配してくれているのがわかる。
ただのわたしの胸騒ぎってだけで、ジプシーや会長に迷惑をかけられない。
それにわたしの不安は、たぶんわたし自身に対してだ。
そうなると、ジプシーを巻き込まないためにも、わたしがそばにいないほうがいい。
わたしは、ゆっくりジプシーから離れた。
そして二人に向き直り、満面の笑顔を向ける。
「ごめんね。気のせいだから大丈夫。なんでもない。今日はわたしの叔母が休みで家にいるし、まっすぐこのまま帰るよ。心配しないで二人とも委員会に行ってよね」
そして、わたしは背を向けて歩き出す。
ジプシーの視線を感じて、ついわたしは小走りになった。
「こら! 廊下を堂々と走るな!」
会長の声が追いかけてくるように聞こえたけれど。
きっとジプシーは、用事が終わったらすぐに電話をくれる気がする。
だから、寄り道をせずに、まっすぐ家に帰ろう。
仕事が休みの叔母さんが待っているのも事実だから。
わたしは校舎から、いまにも崩れ落ちそうな空の下へ走りでた。






