第196話 ほーりゅう
「キャリスに関しては、そんなものかな」
「ちょっと待て! さっきおまえが言っていた、キャリスが願いを叶えるための物質的条件をまだ聞いていない」
この話を切りあげかけた我龍へ、京一郎が気づいたように慌てて声をかける。
「それなんだけれど」
とたんに我龍が、言いにくそうにつぶやいた。
「はたしてここで言っていいものやら。俺としては、キャリスを目の前にしたギリギリのときに言いたいんだけれどね。その――おそらくキャリスを触ることができる紫織は、持っているものだし。それに、もしハイ・プリーエスティスが知らなかったり誤解している条件だったら、隠しておきたい気持ちがある」
わたしが持っているもの?
それって、もしかしたらロザリオの中の、カディアと呼ばれる石のことだろうか?
石の存在を知っているこの仲間内で、そんなに隠す必要もないと思うけれど。
それとも、なにかの拍子にハイ・プリーエスティスに石の存在を知られて、ロザリオごと奪われちゃったら困るからかな。
「ってことで、キャリスの話は以上。ほかの話は明日の朝にしよう。もう遅いものね。出発は明日の朝食後って言われているから、各自体調を整えるように。そうそう、もうすぐ風呂の準備ができるころかな。楽しめるものは楽しまなくっちゃね」
「え? 風呂って、ハイ・プリーエスティスの反応をみるためとかじゃなくて、本当に入る気なのか?」
驚いたように京一郎が言ったけれど。
「俺って、風呂が好きなんだよね。そういえば、以前に行った旅行先でも、皆は一度も温泉に入らなかったんじゃない? もったいないなぁ。風景の綺麗な露天風呂だったのに。俺なんか旅行中、何回も入っちゃった」
楽しそうに笑った我龍の言葉を聞いて、本当にお風呂が好きなんだなぁと、わたしは思った。
前に我龍と親しそうにしていた東条ツバサさんが口にしていた『我龍を探すなら、風呂場か教会』っていう言葉。
お風呂のほうも、冗談なんかじゃなかったんだ。
そして、揉めることなく穏やかな空気で、この場を締めようとした我龍だったけれど。
「能天気だな。よくこんな状況で風呂を楽しむ気になる」
我龍から視線をそらして、非難するようにつぶやいたジプシーの声に反応した我龍が、余裕の笑顔で返した。
「なに? さっきから何度も突っかかる言い方をするね。いまから目的達成まで、生死をともにする仲間になるんだろう? 貴様の世界では裸の付き合いって言葉があるそうじゃないか。風呂ぐらい一緒に楽しもうよ。俺は手を組んだ味方には、なにもしやしないって。それともなに? 自分がお得意の拳銃を持ってきていないから、丸腰で俺と同じ風呂に入るのが怖いんだ?」
気づいた京一郎や夢乃が静止をかける前に、さらに我龍が続けた。
「そういえば、精神的にダメージがあると食べられなくなるんだったっけ? 弱い奴だなあ。明日の朝食はしっかり食べろよヘタレ」
我龍の言葉が終わるや否や、椅子を蹴倒してテーブル越しに我龍へ飛びかかろうとしたジプシーへ、間一髪、京一郎が飛びついた。
「ナイスストッパー。京一郎が止めていなきゃ、俺が奴を石の壁に叩きつけて意識不明にしていた」
笑顔を崩さず、あっさりと告げた我龍に、夢乃が珍しく大声をだした。
「我龍!」
そして夢乃は立ちあがると、すたすたと我龍のそばまで近寄っていく。
「言い過ぎよ! 挑発しないって約束したじゃない!」
腰に手をあてて、たしなめる言い方をした夢乃に、我龍はちょっと首をすくめて返した。
「だってさ、いま、先に仕掛けてきたの、あっちじゃない? 言われたら言い返すって、俺は夢乃に言っていただろう?」
「それにしても、あなたは一言多いと思うわ」
夢乃と我龍の会話を聞きながら、あれ? っと、わたしは気がついた。
――夢乃って、いままで我龍に対して、嫌悪感や警戒心を抱いていた気がするのに。
いまの夢乃の言い方は、なんだか母親が子どもを教えさとす言い方だ。
近寄り方にも躊躇がなかった。
わたしがこの部屋を空けていたときに、夢乃と我龍のあいだには、いったいどのような会話がなされたのだろうか。
「そうだ。いまの言い方からすると、ジプシーの弱点、おまえは把握しているようだな」
京一郎は、起こした椅子に無理やりジプシーを座らせたあと、場の雰囲気を変えるように我龍のほうへ向かってにこやかに言った。
「弱点? まあ、夏樹が調査した中にも資料として記載されていたし。目立つ弱点じゃないの? ほかにもいろいろ、あるみたいだけれど」
なにを京一郎が言いたいのかつかめていないように、いぶかしげな表情で我龍は答えた。
そんな彼へ、京一郎は試すようにゆっくり口にする。
「なあ、おまえがジプシーの弱みだけ一方的に知っているのって、なんとなく不利じゃねぇ? おまえの弱点を教えろよ。別に弱みを握ろうっていう意味だけじゃない。俺らが知っていたほうが、いざというとき、弱点をカバーできるかもしれねぇだろ?」
我龍は、真正面から京一郎の視線を受けとめた。
そして、すぐに苦笑いを浮かべる。
「俺は、他人からフォローされるような弱点なんかないね。それに、普通は面と向かって聞かれても、弱点なんか言わないだろう?」
それでも、我龍は答えたあとに、ふと考える眼をした。
「でもまあ、苦手なものとしては。――ああ、そうだな。あることはあるが、突きつけられて、どうこうできるものじゃないし」
そう前置きをしてから、我龍はぽつりと口にする。
「海」
――海?
海って。
どういうことだろう?
不思議そうな顔をしたわたしたちに向かって、我龍は説明するように続けた。
「海が駄目だね。できれば近寄りたくない。以前、海に落ちた夏樹を助けるために飛びこんだことがあるが、あのときは死ぬかと思った」
「なんで海が嫌いなんだ? おまえ、水モノっていうか風呂も温泉も好きなんだろう? まさか本当は泳げないとか?」
不思議そうに、京一郎が聞く。
我龍は、目の前で片手を振りながら、京一郎に向かって笑顔で答えた。
「意味が違うんだよな。――風呂も温泉も、基本的に邪念がないんだよ。ただ、海は思念体なんだ。母なる海本来の思念に、海に係わった知的生命体の想いが大量に根深く入りこんでいる。精神感応者の俺には、気が狂うかと思うほどのいろんな思念が、俺の中へ入りこんでくるんだ。いくら俺でも、そんなに長く意識を遮断できない。だから、俺を拷問にかけたきゃ、海へ突き落として長時間沈めることだね」
「その前に、息が持たねぇ気もするけれど」
陽気を装って混ぜっ返した京一郎へ、我龍は楽しそうな笑い声をたてた。






