第166話 ほーりゅう
「あ、ちょうど呼びに行こうかと思ってたんだ。で、おまえも俺らと一緒に図書館へ行くか?」
階段下で鉢合わせし、呑気に訊いてきた京一郎へ、わたしは勢いよく答えた。
「図書館へは行かない! もう、京一郎からも言ってやってよ、あの抱きつき魔! 考えたら、麗香さんの事件のときも旅行先でもそうだったけれど、ことあるごとに女の子に抱きつき過ぎ!」
一気にまくしたてたわたしに、京一郎が気押されるような顔をして、それでも弁解がましく口にした。
「ジプシーは、そんなに誰にでも抱きつく奴じゃねぇよ。興味のない相手には目さえ合わさず完全無視な男だし。それだけ、おまえに近くなって、心を許してんじゃ……」
喋っている途中で、急に京一郎が驚いたような表情になり、じっとわたしを見つめた。
なに?
どうしたの?
「京一郎?」
わたしが声をかけて、ようやく京一郎は、ああと反応する。
そして、無言でわたしを洗面所へ追いたてた。
「なに? ここになにがあるのよ」
「鏡を見てみろって」
洗面台に備えつけられた大きな鏡を、京一郎は指さした。
訝しく思いながらも、鏡をのぞきこんだわたし。
でも、よくわからない。
「顔になにかついてるの?」
あまりにも京一郎が言うものだから、真剣に鏡を見るんだけれど。
全然見当がつかないわたしに、京一郎が短く言った。
「首」
首?
そしてやっと気がついた。
首の付け根のところに、ちょっと赤くなっている部分がある。
「あれ? 本当だ。なんか赤いや。蚊に刺されたのかな? でも、全然かゆくないし。第一こんな季節に蚊なんか飛んでいないよなぁ。なんの虫だろう?」
わたしがそう言いながら、鏡をのぞきこんでいる後ろで、がっくりと肩を落とした京一郎が、つぶやくように言った。
なかば、自分に言い聞かせるようにも聞こえる。
「そうか、そうだよな。経験がない初めて見る奴は、それがなにか知らなくて当たり前だよな」
意味不明な言葉を聞いて、怪訝な顔をして京一郎を見ているわたしが鏡に映る。
そんなわたしの様子に気がついた京一郎が言った。
「悪い虫がいるもんだよなぁ。俺がその虫と会ったら怒っておいてやるよ。でも、こんな冬に虫刺されだなんてのも、ドジな話になるよなぁ。おまえ、見えないように襟もとをしっかり正しとけよ」
しつこいくらいに京一郎が気にするので、わたしは言われた通りに襟を正して、見えないように整える。
でも、変なの。
そんなことをしているあいだに、外出のためのコートを腕にかけたジプシーが階段を降りてきた。
ジプシーの顔を見て、わたしは先ほどの怒りを思いだす。
わたしは玄関へ向かいながら、京一郎にもう一度叫んだ。
「今日は一緒に図書館へ行かない! ひとりで買い物に行ってくるもん!」
そして、返事を待たずにさっさと靴をはき、玄関のドアを押し開けた。
「それじゃあ、またね!」
そう言いながら振り返ったとき、それでも見送りに出てきてくれたジプシーを、肘で小突く京一郎が見えた。
わたしはドアを閉めて歩きだす。
さっき京一郎に文句を言ったから、少しはジプシーに注意をしてくれるだろう。
そして、歩きながら、わたしはこれからの暇な時間に、どこへ行こうかと考える。
やっぱり、本当に買い物へ行こうかな。
でも、ここからなら、商店街へ行く道と図書館へ向かう道は、途中まで同じになる。
なんとなく、あのふたりに追いつかれるのも癪なので、わたしは普段通らない道を行き、大きく迂回しながら商店街へ向かうことに決めた。
今日は時間がたっぷりある。
わたしは、人通りの少ない住宅街をゆっくり歩きながら、なにか心に引っかかるものを感じていた。
なんだろう? 誰かとの会話の中の違和感かな。
忘れている、思いださなくちゃいけないなにかかな?
そして、――唐突に思い当たった。
そうか。
さっき部屋で、ジプシーが声をあげて笑ったんだ!
気がついたわたしには、それがなにか特別で重大な出来事に思えた。
いつも無表情で、時々ムッとする感情しか出さなかった男が、最近急に表情が豊かになってきている気がする。
喜怒哀楽でいうと、笑うってのは楽しい感情の「楽」になるんだろうか。
以前から何度も見たことがある「怒」と、旅行先で偶然とはいえ見てしまった「哀」の感情。
となると、彼の喜ぶ「喜」だけが、まだ見ていないことになる。
こうなると、ジプシーの喜ぶ顔が見たい気もするなぁ。
ぬいぐるみのやまねちゃんをあげたときも、最初は迷惑そうな顔をした。
あれはどう考えても、喜んでいなかったよなぁ。
なにかジプシーの喜ぶこと、ないかなぁ。
わたしは、ゆるゆる歩きながら、ぼんやりと遠くの街並みを眺めて考える。
そして、わたしの足が止まった。
いままで考えていたことが、すべて頭から消えた。
わたしの目は、遠方のバス通りを隔てた向こう側の横断歩道を渡る人影を映す。
見間違ったりしない。
――あれは、我龍だ。






