第141話 ほーりゅう
「もう、筋肉痛で肩があがらない」
わたしはそう言うと、夢乃の家のキッチンに続く居間のソファの背へ、もたれかかった。
「信じられない。昨日はクリアーするまで、本当に帰らせてくれる気配がないし」
「わたしも、ロープウェーの先のアスレチックの存在は、前に話で聞いたことがあるけれど。実際に行ったことはないなぁ」
夢乃は、キッチンから返してくる。
「中学時代に、京一郎とふたりでよく行っていたみたいよ」
あの男!
結局、かなりの時間をかけて、根性で全部クリアーしたわよ!
この寒空にわざわざどうして、屋外のアスレチックに連れだされたのかがわからない。
わたしが我龍のことを隠していたと思って、やっぱり怒っていたのかな。
いくら危ないところや難しいところでは手をかしてくれても。
遅い昼食で、前にパフェを食べたことのある喫茶店でサンドウィッチを奢ってくれても。
帰りにスーパーで買い物に付き合って荷物を持ってくれても。
意地悪な奴だということに変わりはない。
旅行から帰ってきて、夢乃とは一日あけて会った。
そして、わたしが考えていたほど、夢乃に変化がないことに、じつはちょっと拍子抜けしていた。
夢乃、もっと恋する乙女の状態になっているかと思ったのに。
島本さんが生きていたというだけで御の字だと言っている。
夢乃ってば、それだけで満足なのだろうか。
意外というか、やっぱりというか。
夢乃って冷静だなぁ。
「ねえ。京一郎から、なにか連絡あったの?」
そういえばと、わたしは夢乃に声をかけた。
京一郎も、こちらに戻ってきてからは連絡をとっていない。
キッチンで、おせち料理の下ごしらえを母親としている夢乃は、忙しそうに手を動かしながら顔をあげずに返事をしてきた。
「もう年末だし。京一郎の家、毎年この時期はなにかとややこしいらしいから。旅行から戻ったあとは、来年の二日まで連絡しないかもって言っていたわ」
そうか、とわたしは考える。
極道である京一郎の家は、きっと堅気には想像できない決まりがある世界なのだろう。
あまり深く聞かないほうがいいかもしれない。
そういうわたしはというと、仕事で忙しい叔母とふたりで、このお正月を迎えることになっていた。
医師である働き者の両親とは、もともといままで日本にいたときから、ゆっくり年末年始を家族で過ごしていたわけでもない。
海外にいる両親には、向こうへ行って間もないし往復も大変だから、戻ってこなくていいよと連絡をした。
母親の反応は、残念そうな、ほっとしたような気配が電話から伝わってきた。
すると、それを聞いた夢乃のお母さんが、一軒分も二軒分も変わらないからと、おせち料理を作ってくれると言ってくれたのだ。
ありがたくいただく代わりに、肉体労働提供として、わたしは買出し係となった。
材料が足りなくなったり必要なものがでてきたりしたら、すぐにお店へ買いに走る役目だ。
実際の料理のお手伝いは、わたしには無理だからなぁ。
「ところで――いま、ジプシーは?」
「朝食と昼食のときには、部屋からでてきたけれど」
なんだ。
今日は、それ以外は部屋に閉じこもりなんだ。
わざわざでてきた昨日のアスレチックって、なんだったの?
やっぱりわたしへの意地悪だったのだろうか。
「ほーりゅうちゃんは、今日の夕食、食べて帰るでしょう? なにが食べたいかな?」
夢乃のお母さんが顔をあげると、キッチンからわたしへ向かって訊いてきた。
あ、なににしようかな?
いま食べたいものといえば……。
しばらく考えたわたしは、ふと思いついて、夢乃のお母さんに返事をする。
「わたし、煮込みハンバーグが食べたいかも」
「ハンバーグかぁ、そういえば最近、家では作っていないよね」
夢乃が返してきた。
お母さんもそうねぇと口にする。
「それじゃあ、今日の買い物のときに、夕食のためのミンチも買ってきてもらおうかな」
わたしもハンバーグは久しぶりだ。
夢乃のお母さんって、料理上手だから楽しみだなぁ。
そう思っていると、今度は夢乃から訊いてきた。
「ほーりゅう、元旦の日に明子ちゃんたちが初詣に行こうって誘ってきているんだけれど、どうする?」
「あ、行く行く!」
わたしは即答する。
お正月に初詣、これは行かないと。
「わたしは振袖も良いかなぁと思っているけれど、ほーりゅうは?」
「振袖ぇ?」
とたんに、わたしは自分の口が尖がるのがわかった。
人ごみの中へ行くのに振袖なんて、動きにくくて面倒だなと考える。
「わたしは普段着でいいや。振袖は、探せば持っていると思うけれど」
一年の最初を飾る初詣に、振袖が邪魔くさいって考え方が、わたしに色気のない原因かもしれないけれど。
もう少しオシャレしないと、花の女子高生とはいえないのかなぁ。
そんなことを考えながら、目の前のテーブルの上に置かれていた、夢乃が買ってきたらしいファッション雑誌を、なにげなく手に取った。
――あれ?
この家でこんな系統の雑誌、いままでに見たことあったっけ?
発売日を確認して、最新号だなぁと思いながら、ぱらぱらとめくってみる。
時期的に新年や春に向けてのファッション記事が多い中、ヘアー特集というページで手が止まった。
ストレートロングのわたしは、体育や食事のときに髪ゴムでくくることはあるけれど、普段は梳くだけでなにもしていない。
こんな雑誌に載っているような髪型なんて、特別な日に美容院でしてもらわないと、とてもマネなんてできないよなぁ。
うなり気味に、そう思いながら眺めていると。
突然、背後からわたしの左の耳もとをかすめて手がのび、誌面の編み込みをしている後向きの写真を指さした。
「これなら法則性がわかる」
「――びっくりしたぁ!」
わたしは、ソファから飛びあがらんばかりに驚いた。
ジプシーって、自分の部屋に閉じこもりじゃなかったの?
いつの間に後ろへ回ってきていたんだろう?
振り向くと、眼鏡をかけていないジプシーがいつもの無表情で、わたしの背後から雑誌をのぞきこんでいた。
「これ、真剣に見ていただろ? 櫛があればいま、おまえの髪でやってやるよ」
「え? 本当? できるの?」
さっそくわたしは、自分のトートバッグを引き寄せる。
中からポーチを取りだして、柄が細くなっているタイプの小さな櫛と髪ゴム、ピンをいそいそと取りだした。
そのあいだに、洗面台へヘアースプレーを取りにいっていたらしいジプシーが、部屋に戻ってくる。
そしてジプシーは、キッチンからちょっと楽しそうな表情で顔をだした夢乃と、一瞬言葉を交わした。
「アメとムチ?」
「るせぇ」
漏れ聞こえた暗号のような、ふたりの会話。
でも、期待でワクワクと真剣に雑誌を眺めていたわたしは、夢乃とジプシーの言葉の意味を深く考えなかった。
この雑誌の写真のように、本当にうまくできるのかなぁ?
あ、でも、意地悪なジプシーのことだ。
わざと変な髪型にされたらどうしよう?






