第135話 ほーりゅう
警察がホテルに出入りした関係で、わたしたちはホテルの一階のレストランで遅めの夕食をとる。
この場で、明日の朝は夢乃について帰ることを、瑠璃たちに告げた。
「そんな事件が、このホテルであったなんてね」
理沙が興味津々でそう口にしたけれど、核心からほど遠い、表向きの情報で話が続く。
「ほーりゅうの知り合いの警察の人たちが、ここまで追いかけてきていた詐欺師が海に落ちちゃったかも、なんでしょう? 犯人って断定じゃないし、本当に落ちたかどうかさえはっきりしないから、新聞には載らないんだって?」
「もう暗くなったから、捜査も打ち切りにされたみたいだね」
「また明日、朝早くから捜索でしょ?」
こんなに近くの事件でありながら、三面記事を読んでいる感じの感覚で話題にのぼる、他愛のない話に聞こえる。
わたしは、なにげなくレストランのそばにある、二十六日になるのに、まだ撤去されていない大きなクリスマスツリーへ視線が向いた。
その下には、もう演奏の予定が入っていないグランドピアノ。
「ツリー、まだ片づけていないんだね」
わたしのつぶやくような言葉に対して、瑠璃がため息まじりで返事をしてきた。
「そうなの。本当は今日の昼間に装飾を外して片付ける予定だったのに。部屋で爆発事故は起こるし、人は海に落ちるしで、警察の出入りが激しくてできなかったの」
それは悪いことをしたなぁ。
部屋の爆発、結局瑠璃に言いそびれちゃったけれど、原因はわたしだし。
そして、ツリーから目をそらして周りを見渡すと、レストランの入り口でひとり立つジプシーの姿を見つけた。
わたしの隣に座っていた理沙も、角度の関係か目ざとくジプシーの姿を見つけたようだ。
理沙がわたしに耳打ちした。
「あの人ってさ、本当に刑事なのかなぁって思うよね。なかなか整った顔をしているけれど、社会人に見えない顔というか。ほら、身長と顔だけをみたら、わたしたちより年下に思えないこともない?」
届く距離ではないのに、この声がジプシーに聞こえていないか、わたしは慌てて様子をうかがってしまった。
そうしながらも、わたしはジプシーを初めて見たときの印象を思いだす。
そうだ。
たしかわたしも最初、童顔のジプシーを中学生だと勘違いしたんだったっけ。
そんなことを考えていると、ジプシーはわたしの姿を確認したらしく、こちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
そばまできたジプシーは、最初に瑠璃へ目礼する。
すると、理沙が素早く声をかけた。
「刑事さん、もう仕事が終わったんですよね。約束通り一緒に食事、いかがですか?」
ジプシーは、社交辞令的な笑顔を浮かべながら言った。
「申しわけない。連れの刑事のひとりが体調を崩しているし、ほかの連中も今回の幕切れで、その気分にはなれないらしい」
それを聞いたわたしも夢乃の心痛を思う。
まだ、海に落ちて見つからない島本さん。
わたしは、理沙へ返事をしてからこちらへ顔を向けたジプシーの腕を引っ張って、皆の視線から隠すように背を向ける。
それから小さな声でささやいた。
「あんたこそ、こういうときには夢乃についていてあげるべきじゃないの。――家族なんでしょ?」
ジプシーは、演技ではないであろう困惑したような、なんとも言えない感情を目に浮かべると、わたしから隠すように視線を外した。
「ごめん。実際の話、あの状態の夢乃のそばについてあげられるほど、いまの俺の中に余裕がない。夢乃には悪いが、京一郎たちにまかせて、俺は逃げてきた感じなんだ」
そして、独り言のように続ける。
「ラストダンサー……島本さんが、B.M.D.に飛びかかる直前、夢乃に言ったそうだ。ジプシーに人殺しをさせたくないって。情報部の流花の話だと、部の中では以前から、性格が優しすぎて工作員に向かないエージェントという噂のあった人だったらしい。彼は、本当に優しい人だったんだと思う。――俺は、他人といままで深く関わることを避けてきたツケがいま回ってきた気分だ。こんなときに、夢乃にかけてやる言葉が思いつかない」
そんなジプシーにわたしは言った。
「あんたはまだ十六年しか生きていないじゃない? なに悲観的になって、もう人生が終わりのようなこと、言ってんのよ。人生これからだよ。いまから学んでいけばいいじゃん」
瑠璃たちには聞こえないように、彼の耳もとでささやく。
瑠璃たちにジプシーの年齢がバレたらまずいものね。
ジプシーはわたしへ視線を戻して、そして、ちょっと笑った。
「おまえみたいに能天気に物事を考えたいものだ」
能天気という、その言葉にむっとしたわたしは文句をぶつけるように言った。
「ああもう、二十五日のクリスマスも、二十六日の今日も、結局いろいろ事件に巻きこまれて、なんだか気分的に楽しめなかったよ」
それを聞いたジプシーは、少し考える顔をしたあと、グランドピアノに視線を向けた。
「それは悪かったな。お詫びになにか、――あいているようだからピアノでも弾いてやろうか?」
顔をあげて発したジプシーの声が聞こえたらしい。
瑠璃が、ぴしりと言葉を挟んできた。
「披露できる腕前、あなたは持っていらっしゃるのかしら?」
「また最近、指慣らし中でね。スローな曲ならぶっつけで」
自信が垣間見えるようなジプシーから、そう聞いた瑠璃は、うなずいてみせた。
すると、ジプシーはわたしのほうを向いて訊いてきた。
「ほーりゅう、前におまえがリクエストした『幻想即興曲』は、完璧な演奏でおまえひとりに聴かせてやる。それ以外でいま聴きたい曲、ある?」
そのとき、そのジプシーの台詞を聞いた瑠璃がなにかを感じたらしい。
理沙と亮子に目配せをし、理沙も、ああというような顔をする。
?
なんだろう。
でも、瑠璃たちの目配せの意味を考える前に、わたしはジプシーにふたたびせかされる。
「なんの曲がいい?」
なので、わたしは慌てて考える。
なににしよう。
ゆっくりの曲で、でしょ?
焦ったわたしは、考えがまとまらないまま、急いで答えようと口を開きかけると。
『荒野の果てに』
「荒野の果てに」
タイミング良く頭の中に響いた声につられて思わず口からこぼれた言葉に、ジプシーはなるほどと返してきた。
「たしかに昨日までクリスマスだったし、まだツリーもあるからな」
それからフロントのほうへ歩いていくと、ジプシーはピアノを指差しながら、フロント係に話を通しだした。
どんな曲なのか、わたしは題名だけではわからなかったけれど、ジプシーの許容範囲内の曲だったらしい。
でも。
わたしは内心、冷や汗モノだった。
我龍ったら!
急に突然、テレパシーで頭の中に言葉を送ってこないでよ!
そばで会話を聞いていた瑠璃が、そんなわたしへ向かって言った。
「一日遅れになるけれど、讃美歌、いいんじゃない?」
あ、その曲、賛美歌なんだ。
そう思ったとき、ピアノの鍵をもらったジプシーが、戻ってきた。
「それじゃあ、『荒野の果てに』からはじまっての賛美歌メドレーってことで。それでホテル側から許可をもらった。以前に教会のボランティアで弾いたことがあるから構成は大丈夫」
そして、わたしを見ながら続けた。
「おまえ、今年のクリスマスに、誰かからなにかプレゼント、もらった?」
プレゼント?
そういえば、ここへくる前に皆でパーティらしきものはしたけれど、プレゼントっていうのは、もらっていないなぁ。
もう、サンタさんを信じている歳でもないし。
「別に? なにも。誰からももらっていないよ」
そう告げたわたし。
するとジプシーは、わたしの耳もとまで近寄り、本当に小さな声でささやいた。
「じゃあ、昨日のキスが、俺からのクリスマスプレゼントってことで」
わたしは、かっと頬が熱くなり、思わずジプシーに向かって拳を振った。
難なくよけたジプシーは、そのままピアノのほうに笑みを浮かべつつ向かう。
わたしの中では、ジプシー自身が覚えていない行動だと思って納得しかけていたのに。
ジプシー、あのとき、意識が飛んでいたわけじゃないんだ!
なんて男だ!
ピアノの前に座り、ジプシーは鍵盤に指を置く。
ゆっくりと弾きはじめる曲は、どこかで聴いたことのある旋律だった。
これが『荒野の果てに』かぁ。
そして、歌詞は向こうの言語で歌う。
これは――フランス語かな。
そうだった。
ジプシーって、陰でバンドのボーカルをしているくらい、歌のうまい奴だったっけ。
そしてそのときわたしは、友人たちと一緒に聴いているわたしの後ろの吹き抜けの二階で、我龍が嬉しそうに手すりに頬杖をついて聴いていることに気がつかなかった。






