第118話 B.M.D.
昨日の昼、あそこまで追いつめた男が、私のターゲットとしている『ジプシー』ではなかったかもしれない。
そう思って様子をうかがうために、攻撃をやめたのだが。
あのとき邪魔をしてきた男の姿も、それ以後はまったく見かけなくなった。
邪魔をしてきた男こそが『ジプシー』なのか、それとも、最初に私が目をつけた男が『ジプシー』なのか。
釘を刺されてしまった私は、それがはっきりするまで迂闊に動けない。
一度に両方と相手をするには、こちらの準備が整っていないからだ。
邪魔をしてきた男のほうが『ジプシー』であるのなら、力の差は歴然としており、私が太刀打ちできる相手ではない。
経験からわかる。『ジプシー』抹殺どころか、任務遂行やこちらの命さえ危うくなる。
さらに時間をかけて対策を練らねばならない。
ただ、最初に目をつけた男のほうが『ジプシー』ならば、様子をうかがい、彼が情報を手にいれたあと、彼を殺ると同時に情報を手にいれるという一石二鳥を狙うことができる。
だが、よく思い返してみると、邪魔をしてきた男はかばうようにでてきた。
単純に、ふたりが仲間ということも考えられる。
そうなると、どちらが『ジプシー』という以前の問題にもなってくる。
私はどうにかして、『ジプシー』を特定したい。
私が到着直後にホテル内へ設置していた盗聴・盗撮器は、すべて機能が停止されていた。
邪魔をしてきた男の能力によるものだと、私の勘がささやく。
そのため、今日の朝、最初に目をつけたほうの男が食事のために、仲間とそろって部屋を空けたあと、すぐに彼らの部屋へ忍びこみ、あらためてその部屋にだけ盗聴器をいくつか仕掛けた。
これで会話から決定的ななにかがわかれば良いが、あまり期待はしていない。
そして、私はすぐに彼らのあとを追うように、このレストランへやってきた。
実際に食事をするためと、彼らの動向を探るためにだ。
邪魔をしてきた、もうひとりの男が姿を見せないため、この彼らの行動をうかがうしか動きようがないのだが。
――こうしているあいだにも、邪魔をしてきたほうの男は、わたしを監視しているのだろうか?
気配さえ感じられないが、私以上の力を持っているのであれば、監視の目を感じさせないことなど当たり前だろう。
それとも、任務遂行重視で、さっさと情報を手に入れようとしているのだろうか?
さまざまな憶測をしながら、私は目の前の画面をぼんやりと眺めていた。
そのうちに、最初に目をつけた男の仲間のひとりが、私へ視線を向けたことに気がつく。
――いい勘をしている。
その男がそばへくる前に、私は目の前のパソコンの画面を、用意していた風景や野鳥の写真の載ったホームページに変更した。
「おはようございます。こんなところまできて仕事ですか。大変ですね」
声をかけられた私は、わざとギクリとした素振りで彼を見上げた。
そして、いかにも昨日の朝の一件を見ていたといわんばかりに、ああ、という表情をしてみせる。
かなり接近しているが、私の特殊メイクは見破られないという自信があるために、堂々と演技もできる。
「いやいや、これは趣味のもので、仕事じゃないんですよ」
そういいながら、にこやかに身体をずらし、わざとパソコンの画面を見せつける。
当然、画面に映っているのは、風景や野鳥らしき写真だけだ。
「自分は一介の独身サラリーマンですが、休みに旅行先で写真を撮っては、ホームページで公開しているんですよ。将来的にはプロのカメラマンになりたいですねぇ」
架空の人物になりきることは楽しい。
いまの私は、本当に日本でいうところのサラリーマンと称される人種で、カメラマンを目指しているただの男の気分となっている。
役を演じることは、同じ世界に生きる目障りな同業者を潰すときと同じくらい、私の好きな趣味のひとつだった。
続けて私は、名前と部屋番号を確認される。
「いや、お邪魔しました」
一通り確認したらしい彼は頭を下げると、そう口にして、私から離れていった。
うまく騙し切れたことにたいして、私は大いに満足感を得る。
そして、そのまま彼の後ろ姿を見つめていると、今度は女子高生のグループから声を掛けられていた。
会話がぎりぎり聞こえるかどうかの距離だ。
どうやら男は、食事の誘いを女子高生側からされているようだ。
それを、男のほうは断っている。
その後も、ただの意味のない会話が続く。
たいした情報も得られないようだと、私の意識が彼らから目の前のパソコンへと戻りかけた瞬間。
ささやくようなその言葉が、耳に滑りこんできた。
「待って。ジプシーのことなんだけど」
私の意識のすべてが、いまの言葉を発した人物に集中した。
言葉を口にした人物は、女子高生四人組の中のひとりのようだ。
不自然に見えないように、ゆっくり視線を移して、私はその人物の顔を確認する。
たしか一昨日に確認したデータでは、このホテルのオーナーの娘の友人のひとりだった。
おそらく、日本人女子高生という種類では平均的な身長体重といえる。
軽い感じのロングストレートの髪。
見た目は幼そうだが、世間的には可愛いと呼べる部類に入るであろう、眼の大きさが印象的な顔立ちの少女だ。
その少女が、男に発した言葉だった。
その男は、忙しそうな素振りで素っ気なく、彼女とのそれ以上の接触をかわして離れたが、私は確信した。
ジプシーなんて言葉は、偶然に口にする単語ではない。
――彼女は、ジプシーという人物を知っている。
数分後に友人たちから離れると、彼女はひとりで、慌ただしくレストランから出ていった。
ここで、追いかけるように私が出ていけば、男のほかの仲間に気づかれるかもしれない。
はやる気持ちがあるが、私が気づいていることを、彼女は知らない。
知らない彼女は、まず、逃げることを考えないだろう。
すぐに、捕まえてやる。
ターゲットが決まった私は、とても楽しい気分になった。
自然に、口もとが緩んでしまう。
狙った獲物は逃がさない。






