第116話 京一郎
表面上は平静さを装っているが、本当に装っているだけなのが、俺にはわかる。
変な言い方だが、普段の奴の演技じゃない。
やることがすべて、上滑りしている。
ジプシーの精神状態で、こんなに影響がでるとは思わなかった。
こいつの統率力が欠けるだけで、俺らのやっていることは、単なる高校生の探偵ごっこに成りさがっていた。
こちらが警察だと思われている状態なので、滞りなく作業はできる。
最初の打ち合わせ通り、こちらの身元が警察だとばれたら、警察特権を活かしての作戦展開だった。
なぜか、ばったり敵の動きがないのをいいことに、ホテルの宿泊客の素性確認やホテル内のチェックなどを大っぴらにやる。
だが、身元の確認がとれていない宿泊客の部屋訪問は、ホテル側がいい顔をしないだろうから、後回しにするしかない。
この俺らの派手な動きだけで、目的の人物が名乗りでてくれたら万々歳なのだが、かなりの率で宿泊客が集まる朝のレストランでの騒ぎがあっても、その後の問い合わせがなかった。
もしかしたら、空振りかもしれない。
ただ、諜報員がいることは間違いない。
そこから考えられることは、すでに目的の人物は殺されていて、ジプシーだけが呼びだされた可能性がある。
俺が、撤退のタイミングをはかるべきだろうか。
ソファに腰掛け、宿泊客のリストをチェックしていたジプシーの手から、ペンがするりと抜け落ちた。
呆然とした表情で転がるペンを目で追うジプシーは、とっさに拾いに動くことさえできない。
俺は、なにげなく床に落ちたペンを拾いあげ、なんでもないことのように黙ってジプシーに手渡した。
動くことは動くが、ジプシーの注意散漫さと明らかな体調の悪さに、俺とトラは必要最低限の言葉しかかけられない。
本人しかわからない精神的打撃を受けていることだけはわかる俺らは、ただ、見守るだけしかできなかった。
こういうときには夜も寝られないものだろうが、体力温存のためにジプシーには眠ってもらおうと、トラの陰陽師の術をここぞとばかりに発揮してもらった。
相変わらずこの系統は、俺にはさっぱりなにもわからない。
だが、これで悪夢も見ずに眠れたら良いのだろう。
結局、これといった成果がないまま時間だけが過ぎ、次の日の朝を迎えた。
桜井刑事と夢乃が朝一番に訪ねてきた。
部屋に招きいれると、桜井刑事が挨拶もそこそこに一枚の紙を手渡してくる。
ジプシーが黙ったまま紙を受け取り、一分ほど内容を凝視した。
そして、そのまま俺に紙を回してくる。
その紙には、保護対象となる男の名前や大学の研究者としての肩書とともに、生真面目な表情の顔写真が印刷されていた。
情報部は、無事に保護対象を特定できたというわけだ。
四月に撮影された身分証の写真であれば、印象はかわっているかもしれないが、大きな手掛かりとなる。
しかしながら、このホテル内ではまだ見かけていない顔だった。
また、『情報部:ルカ』という文字と、『特設部』と書かれた下に、かなりの量のアルファベットと数字と記号が列記されていた。
ざっと見て、ネットのリンク先とパスワードらしい。
――昨日、ジプシーが襲撃されたことと保護対象者が特定されたことで、この件の信憑性が増したと判断したのだろうか。
ようやく味方の増員に加え、特設部門を作ってここへ手に入れた情報を送れという指示か。
そんなことを考えているあいだに、ジプシーが、桜井刑事にライターを要求した。
それを聞いたトラが気を利かせて、部屋のどこからか灰皿を探してくる。
まずい。
俺に、これを完璧に記憶しろってことか!
普段から俺とジプシーは、遊び代わりに記憶競争をしている。
この記憶マニアの男に勝てるとは思っていないが、いい頭の訓練になると思って、最近までフランス語、現在は韓国語を争うように習っている。
――ここでしっかりしないといけないのは自分だと考えた俺は、根性で、そのアドレスやらパスワードやらの規則性のない羅列を、頭に叩きこんだ。
桜井刑事と夢乃をホテルの入り口まで見送りがてら、朝食をとるために、俺たち三人は一階のレストランへ向かった。
朝食はバイキング形式だ。
一口も食べる気のなさそうなジプシーのために、適当に俺とトラで見繕って取ってくる。
そのあいだにも、俺は周囲をさりげなく観察した。
昨日のブロンドの女は、さすがに姿を見せない。
彼女の泊まっていた部屋は、戻った気配もなく放置されていた。
部屋をおさえただけで、本人はもともと泊っていなかったのだろうか。
そのほかにも、確認途中の宿泊客リストを思い浮かべながら、俺はジプシーにささやいた。
「飲み物、なにか持ってくるからさ」
オレンジジュースでもいいかと思いながら、席を立とうとした瞬間。
ふと、通路沿いのテーブルでノート型パソコンを開いている男に、俺の目が止まった。
ひとりだけで席に着き、風貌は銀行員といったお堅いイメージの小太りの男。
なぜか俺の勘に引っかかった。
気になるものは確認して、ひとつずつ不安要素を除外しておいたほうがいいだろう。
「おはようございます。こんなところまできて仕事ですか。大変ですね」
男はギクリと俺を見上げる。
見知らぬ人間に声をかけられたときの普通の反応だろう。
そして、声をかけたのが俺だと知ると、ああ、といった表情を見せた。
この表情なら、昨日のここでの件を見て、俺が警察の人間だと思っているクチだ。
「いやいや、これは趣味のもので、仕事じゃないんですよ」
おじさんかと思ったら意外と若い声で、にこやかにそう返事をした男は身体をずらし、俺にパソコンの画面を見やすくしてくれた。
画面に映っているのは、風景や野鳥らしき写真。
「自分は一介の独身サラリーマンですが、休みに旅行先で写真を撮っては、ホームページで公開しているんですよ。将来的にはプロのカメラマンになりたいですねぇ」
俺は、なるほどねと相槌を打ちながら、画面の中や男の言動におかしなところはないか、感覚を集中させる。
「失礼ですが、お名前と部屋の番号を確認させていただけますか?」
「ああ、いいですよ」
男がズボンのポケットから取りだした部屋のカードキーから、番号をチェックする。
不審な点はなく、俺は頭を下げた。
「いや、お邪魔しました」
そう告げると、俺はその場を離れた。
思い過ごしだったか。
神経が過敏になり過ぎるのも考えものだが。
宿泊客全員の変な動きや身元を短時間で調べるには、どう考えても人手が足りない。
それでも、目についたところから地道に不安要素を潰していくべきだ。
最初の打合せ通り、目的の相手が保護を求めているならば、こちらが大きく動くことによって、なにかしらアクションを起こすだろう。
その可能性に賭けるしかない。
そう思いながらドリンクバーに向かうべく歩いていると、ほーりゅうたちのグループのテーブルを横切った。
そのなかの、ショートの髪が似合うボーイッシュなひとりに、俺は声をかけられる。
「おはようございます。あなたも昨日声をかけてくれた男の人も、警察の方だったんですね」
俺らに関わらないようにと、ほーりゅうには釘を刺したが。
彼女の友だちではあるし、あまり無愛想で失礼な態度はできない。
俺は、社交辞令的に微笑み返した。
それを見て、気を良くしたらしいショートの髪の彼女は言葉を続ける。
「よろしければ時間が空いたときに、わたしたちと一緒に食事などしませんか?」
本来ならば、お嬢さま学校の、見目も悪くないグループからのお誘いだ。
だが、マジで俺たちには余裕がなかった。
「いや、残念なことに極秘捜査がばれた関係もあって、本当に休みなしの仕事になっちゃったんですよ。でも、もしこの一件が終わってフリーになったら、そのときにはこちらからお誘いさせてもらえるかな?」
「そうなんですか、それは残念。時間ができたら、ぜひ誘ってくださいね。お待ちしておりますわ」
ゆるく会話を交わしながら、そのあいだ、ほーりゅうとはあえて視線を合わせない。
そして、そそくさと俺は、そのテーブルから離れようとした。
なのに。
「待って。ジプシーのことなんだけど」
ほーりゅうがそう言いながら、席から立ちあがった。
俺は、内心舌打ちをする。
こんな公の場で俺と個人的な会話をして、敵に、俺らと係わりのある人物だと思われたらどうするんだ。
俺はポケットに手を入れると、すばやくスマホのボタンを手探りで打つ。
険しい表情を浮かべながら、ほーりゅうのほうへと顔を向けた。






