第114話 夢乃
お礼を口にしながら、わたしはホテルのフロントへ救急箱を返す。
そして、桜井さんの連絡が、いまだこないのをいいことに、単独で調べる気になっていた。
そうひどくなかったのか、最初の手当がよかったのか。
捻挫の足もゆっくりなら我慢できる痛さで移動できる。
警察の特権で、部屋の番号は調べ済みだ。
わたしはふたたびエレベーターに乗り、迷いなく彼の部屋の前まで行くとノックをした。
ほどなくしてドアが開く。
驚いたような顔をした島本さんは、真意を探る視線をわたしへ向けた。
「佐伯さん、でしたね。なにかご用ですか?」
わたしには、確証がない。
けれど、やはり彼が今回の件に関係する人物のような気がしてならない。
だから、ゆっくり彼と話がしてみたいと思ったのだ。
「先ほどはありがとうございました。もう捻挫の痛みは、ほとんどないわ。その、――お礼と言ってはなんですが、お茶でもいかがかしら」
わたしの申し出に少し考えるような顔をしてから、島本さんは部屋の奥を振り返って声をかけた。
「如月、少し出てくるから」
そして、壁に掛けられていたカードキーを持ち、廊下に出てきながら微笑んだ。
「一緒にきている友人は極端な人嫌いなんです。それでは、一階の喫茶へ行きましょうか」
一階のレストランの横に、大きなクリスマスツリーが飾られていた。
今朝は周りに気を配る間もなかったので、気がつかなかった。
考えてみたら、今日はクリスマスだ。
その下には、大きな黒いグランドピアノが置かれている。
島本さんは、わたしの視線の意味に気がついたようだ。
「昨日はクリスマスイブだったので、夕方から深夜にかけて、ここでピアノの生演奏があったんですよ」
そう口にすると島本さんは、いまは弾き手のいないピアノのそばのテーブルを選んだ。
向かい合わせに座ったわたしは、温かいミルクティーを頼む。
彼は珈琲を選んだ。
あと、どう切りだそうかと考えていたら、先に島本さんが口を開いた。
「佐伯さん、警察の方だったのですね。じつは今朝、あなたと別れたすぐあとに、わたしもここへきていて、あの一件を見ていたんですよ」
そう告げてから、彼はゆっくり微笑んだ。
真正面から見つめられ、ちょっと赤くなりながらも、わたしは当初の目的通りに事務的に話しだす。
「ご存知なら話が早いです。島本さんのこと、少し教えてくださるかしら。大学に籍を置かれていると言われていましたよね。あと、家族の方のことなども」
「なんだか事情聴取みたいですね。聞かれたことは、あとで裏を取るって言うのかな、全部調べるのでしょう? 嘘やごまかしはできませんね」
島本さんは、笑みを浮かべたままで言った。
本当は警察の人間ではないわたしは、罪悪感を覚えて彼から視線をはずす。
そのわたしの様子を見ていた島本さんは、ゆっくり話しだした。
「わたしの父は仕事の関係で、もうかなり長く海外で暮らしています。母も父と一緒に海外におり、両親ともに健在です。十年……正確には十三年前になるのかな、わたしは両親と別れて日本の大学に通うために、生れ故郷となる日本へ戻ってきました。いまは弟とふたりでマンション暮らしです。家族構成はこれでいいのかな」
わたしは、よどみなく答えた彼の言葉を、頭のなかで繰り返しながら質問した。
「島本さんや弟さん、おいくつなんですか?」
そのとき。
気のせいか、彼の瞳の奥にいたずらっぽい光がよぎる。
「わたしはあなたから見て、いくつに見えますか? ――弟はたぶん、あなたと同じ歳だと思いますよ」
逆に問われ、わたしは困惑する。
わたしは島本さんから見て、いま、いくつに見られているのだろう?
十六歳の高校生だとばれないように、服装にも態度にも、気を使ったつもりだけれど。
――もしかして、見透かされているなんてこと、ないわよね……?
話題をそらせるように、わたしは違う質問を口にした。
「友人の方、如月さんとおっしゃったかしら。どのような関係なのでしょうか。同じ大学の方?」
「如月は同じ研究室の同期です。彼は、そうですね……。少し神経質な、外見は背が高い細身の眼鏡をかけた男です」
その言葉を聞いたわたしは、如月という友人が男性だったことに安堵して。
そして、そんな自分に驚いて、非常にうろたえた。
「なにかお礼をさせていただくようなことをいってお茶に誘ったのに、取り調べのような会話ばかり。無粋でごめんなさい。これ以上はけっこうよ」
いまのところ、彼は質問に対して嫌がっている様子はない。
訊いたことは快く話してくれるであろうこの機会だというのに、気が動転したわたしは、つい情報を断るようなことを口走ってしまった。
「え? いいんですか? 仕事なのでしょう?」
当然ながら、島本さんのほうが逆に驚いたような表情となる。
なので、わたしは慌てて笑顔を作りながら、思い切って核心になる話題を振った。
「あの、ひとつだけ確認を。――最近、なにかお困りのことはありませんか? もし警察が必要なことであれば協力いたしますよ」
その瞬間、島本さんの表情が固まった。
しばらく、わたしたちのあいだに沈黙が流れる。
その言葉を口にしたわたしでさえも、この空気をどうしたら良いのかわからず、思わず眼を閉じてしまった。
「――そうですね。心配ごとといえば、あるにはあります……が。ただ、警察の方とはいっても、まだ出会ったばかりのあなたに相談できる内容ではないですね」
ようやく、ささやくように告げた島本さんの言葉に、わたしは目を開けながら、つめていた息を吐きだした。
そして、落胆した表情を見せないように、紅茶のカップに視線を落とす。
そんなわたしに、どういうつもりなのか、島本さんは笑顔を向けながら続けた。
「でも、何度かこうしてお会いしたら、いろいろと話すことができるかもしれません。今度は、私がお茶に誘っても良いですか? ――いいえ、それよりも、今日の夕食を一緒にいかがでしょう? 昨日はイブでしたが今日はクリスマス。今夜もこのレストランで、ピアノの生演奏があるんですよ。ここの席で、ご一緒にどうでしょうか」
そう告げながら満面の笑みを浮かべた島本さんに、わたしは驚きながらも返事をする。
「いえ、仕事でこちらにきているので……。それにわたしの宿泊は、こちらのホテルではないから……」
「でも、二十四時間すべてが勤務中ではないでしょう? 休憩時間をあてて、ここで食事をしませんか? 警察の方はふたり組で行動すると聞きましたが、相棒の方に融通をきかせてもらえないのかな?」
島本さんの、優しくて心地良く響く声を耳にして。
わたしは、桜井さんの頼りなさそうな表情を思いだしながら、知らず知らずのうちに、彼へうなずいていた。






