第三話 『苦変』
村本が十五分ほど車を走らせる。日本人は働きすぎだと世間ではよく言われているが、和哉は毎回現場へ向かうときにそのことを思い出す。大通りに差し掛かると多くの会社員であろう人々が出勤している姿が増えてきた。早朝からご苦労様です。和哉自身も今から仕事に向かうのに他人事のような目で見ている。ウィンドウに雨粒が落ちてきた。村本が口を開く。
「降ってきたな。」
並木が雨と風で揺れている。横断歩道を渡る人々も慌てて傘をさしている姿が映る。おもむろに村本がA4サイズの紙を広げる。
「ここら辺の近くなんだけども。」
初めて向かう現場は場所を探すところから始まる。和哉も地図を見せてもらう。
「ここからだと三つ目の信号を過ぎて次の脇道を右に曲がった角の所ですね。」
この道は脇に曲がる道が多く少々場所が分かりにくい。普段通らない道だとどこも景色が同じに見えるのである。
「三つ目の信号の次を右だな。」
村本はそうつぶやきアクセルをふかした。
◎
現場は大通りに面しており幸い見つけるのは安易だった。まだ土台作りの段階のようである。サイズ的にはそこまで大きくはないが三メートルほど下に掘られ、周りは鉄板や鉄筋で覆われていた。堀の中央の方にはビニールシートで包まれているが中は土が積まれている。近くには二階建てのプレハブが建っておりおそらく一階は休憩で二階は事務所になっているのであろう。ここまで本格的な場所は初めてなので一気に緊張感が高まる。近くの駐車場に車を止めてあっているかどうか村本が確認を取りに行く。和哉は安全靴に履き替えプレハブを眺めていた。五分もしないうちに村本が出てくる。
「ここであってるみたいだから準備をしようか。」
雨は降っているが雨具を使うほどでもない。タオルを頭に巻き上からヘルメットを被ると手袋を手にプレハブへ向かった。
始業は八時からのようでまだ人はほとんど来ていなかった。若い作業服の方が和哉と村本の姿を見て声をかけてくる。
「おはようございます。新規の方ですよね。雇用契約書を書いてもらわないといけないので。」
二枚の紙を二人に渡す。何やら建築の現場では万が一のために書かないといけない情報があるようだ。
血液型はもちろん、最近測った血圧や緊急連絡先など項目は多い。契約書を渡してくれた若い作業員の方は小園さんと言うらしい、作業服に刺繍されている。身長も一六〇センチ台ほどで童顔で短髪のせいか高卒だといわれても違和感はない。幾度となく年齢確認されてきたのだろうなと、はたから見ればいい迷惑な同情を思いめぐらせながら、いつ測ったかも覚えていない血圧の欄に記入していった。
◎
ちらほらと作業員の方々が出勤してきた。全員がたいのいい人ばかりである。最近少し下腹が気になってきた和哉には場違いな感覚に見舞われていた。全員揃ったところで朝礼が始まる。小園が今日の作業の注意点などを説明しているが、全く無知な和哉にはちんぷんかんぷんである。一応聞いてはいるが右から左である。
「それではみなさん今日も、ご安全に。」
「ご安全に。」
決まり文句みたいなものであろうか、和哉もつられてつぶやく。とりあえず村本と一緒にいれば問題ないであろう。周りを見渡して村本を探すと、おそらく親方であろう人と話をしている。まだ寒いというのに半袖の肌着のような服を着ており、巨漢である。聞いてもわからないからあとで村本さんに確認しよう。
さて今日の仕事が始まる。無事に八時間終わることができるといいが。
しかし和哉の願いとは裏腹に午前中は単純ながら地獄のような作業だった。堀の側面にそびえ立つ波打った鉄板の隙間からこぼれている土をスコップでひたすらショベルカーの爪の中に入れる作業である。雨が降っているため土が水分を含み乾いた土より幾分か重くなっている。さらに鉄柱のようなものも建っているため少し体勢が窮屈なのである。始めて一時間で腰に違和感を感じ始めた。さらに普段使わない筋肉が震えはじめてきた。これだから土工は嫌なんだ。向いていない。村本の方に目をやると、流石と言わんばかりの体使いで山積みになっていた土がどんどん量を減らしていく。俺は何をやっているんだろうな。きつい仕事をやっているときに和哉が陥る思考である。悪い癖なのはわかっているが、なぜこんなことをしてまで生きているのか、なんのために頑張っているんだろうか、そう考え始めると悪い癖はさらに度を増して加速する。次に陥る思考回路はどう休憩するか。そう思い始めたら村本に水分補給だと伝え、梯子を上り、休憩室に足を運んでいた。この時点ですでに口で呼吸している。和哉の中では高々一時間しか作業していないのにすでに限界に近いのである。休憩室の椅子に座り肩で息をする。中にはウォーターサーバーが設置されているようで、適当に転がっていた紙コップで喉を潤す。熱をもってきた体内を冷水が通っていく感覚が分かる。しんどい、帰りたい。気持ちではそう思いながらも許されない環境にため息をつきながら、作業へと戻っていった。
うまくいくと思っていた休憩作戦もさすがに長くは続かなかった。二回目の自主休憩の時に熊のような親方があとから入ってきたのである。
「君、休憩多すぎるぞ。午後から他の業者が来るから今の作業は午前中に終わらせないといけない。やる気がないなら帰ってもらうけど。」
確かに休憩にここまで行けば怒られるのは重々承知だが少しずつ気温も上がってきた中倒れたらどうするんだと内心は思いつつも、すいません少し気分が悪いだけですとだけ伝える。
「こっちは本当に気分が悪いのかどうかなんて判断できないから、復帰が無理なら帰ってもらうよ、こっちは雇ってるんだから働いてもらわないと困るんだよ。気合と根性が足りない。」
和哉は、気合根性と言う言葉に少しムッとした。気合や根性でどうにでもなる世の中ならこんなに苦労はしていない。しかし確かに昔より物事に熱中したり上達するための努力をしなくなったのも事実である。和哉は何も言い返せないでいた。
「とりあえずしんどい作業は午前中だけで午後からの作業は楽だから。」
熊さんはそうとだけ言うと冷水を一気に飲み干し部屋を出ていった。和哉も内心申し訳なく思っている節もあるが体を売っているようなものであるから倒れてしまっては元も子もない。言い訳に近いことを自分に言い聞かせ、休憩室を出た。
作業に戻ってみるとすでに大半は終わっており、最後の砦のような土の壁を崩しているところだった。村本の方へ向かうとスコップを押し付けられる。さすがにあまり機嫌がよくないことはわかる。
小園が和哉の抜けたところをカバーしてくれていたようでもうすぐ昼になるが予定の時間に終わりそうである。和哉は急いで作業に戻るが腕の限界は近い。難攻不落の砦を崩すべく無心でスコップを振り下ろした。
最初は今までの分を取り返すべくハイペースで土を掘っていたが長くは続かないことは目に見えていた。ペースが落ちると温厚だった村本の怒号が耳に刺さる。
「早く掘らんか。」
途中で黙って休憩していたことが相当響いているようだ。だから迷惑をかけると言ったんだ。もって行き場のない悔しさと不甲斐なさが頭を駆け巡りながらペースを上げた。
◎
どうにか昼休みまでに掘り終わることができた。空腹は感じているが食べるとすべて吐き出してしまいそうだ。とりあえず車に朝買ったおにぎりを取りに行く。村本も車の方へとやってきた。今は雨はやんでいる。
「中の休憩室には冷水もあるからそこで休憩するといい。」
「わかりました。」
力ない返事を返し、休憩室へと向かう。午後からは楽だと言っていたが、実際の現場の人の楽が果たして自分にとっても楽なのかはわからないし、作業内容もまだ伝えられていない。少し寝よう。和哉は休憩室の机に頭をうずめ、目を閉じた。まだ半分そう考えるだけで気が重くなる。