第二話 『普変』
和哉は六時に目が覚めた。睡眠時間は十分確保できている。派遣会社の事務所までは原付で十分とかからないので少々早く起きすぎたくらいだ。目を覚ますためにシャワーを浴びて一息つく。窓から外を眺めてみるが曇り空である。テレビをつけて今日の天気を確認する。降水確率は三十パーセント、土工現場だと足場が雨で濡れていると滑りやすく危険である。このまま雨が降らず曇り空のままで一日が終わるといいのだが。和哉はこの時間が一番苦痛である。仕事先である現場に向かってしまえば多少やる気が出るのだが仕事に出るまでの時間がどうしても億劫で憂鬱になり気分が沈む。いっそのこと今から土砂降りにでもなって中止の連絡が入らないか携帯電話の変わらない待ち受けをずっと眺めていた。六時五十分を過ぎたが連絡が来る気配はないし雨も降ってなさそうだ。大きくため息をついてボロボロになったリュックサックに昨日買った二リットルのスポーツドリンクとタオル、着替えを入れて事務所に向かうため家を出た。
◎
向かう途中にコンビニによりおにぎりを三つと惣菜パンを一つ買い、パンを食べながら原付を走らせる。昼間は暑くなるが朝晩はまだ肌寒い。本家の土木作業員のような服は持っていないため適当に動きやすく寒さを紛らわせられるような服を着合わせている。ズボンにいたっては黒川からの借りものだ。最初の面接のときにちょうどいいズボンを持っていないと伝えると貸してくれた。そのまま二年半ほど借りっぱなしというわけである。いい加減自分のものを買わないといけないとは思っているが服屋自体が近くになく遠出までして買いに行くのは面倒臭い。自分でも分かってはいるのだがやらなくてはいけない事でもぎりぎりまで先延ばししてしまう癖がある。今まで何度もそのことが原因で失敗しているはずなのだがその時は反省しても同じことを繰り返してしまう。そんな自分が嫌で仕方ない。などと自己嫌悪に陥っていると事務所が見えてきた。携帯で時間を確認すると七時十五分である。丁度いい時間か。原付を事務所の前に止め中に入る。
「お疲れ様です。おはようございます。」
「おはようございます~。」
中から黒川の声が聞こえ扉の方に目を向けてくる。前髪が後退し少々肌寒そうな頭が机の影から出てきた。一時期は丸刈りにしていたが最近は手入れいていないようだ。事務所自体はそう大きいものではなく事務員の机が三つほどありそれぞれの机にパソコンが乗っているが内二つは最近使われたような形跡はない。他に目立つようなものと言えば簡素な応接スペースぐらいであろうか。見渡してもそれ以外には作業道具の他に目立つものはない。黒川が一枚の紙を持って近寄ってくる。
「いつも早いですね。もう少ししたら村本さんも来られるのでちょっと待っててください。」
和哉は軽く頷き紙を受け取り事務所の外に出て煙草に火をつけ村本の到着を待った。
十分もしないうちに一台の水色の軽自動車が事務所の前に停まった。これは会社の車である。中から初老で白髪の男性が降りてくる。この方が村本さんのようだ。
「お疲れ様です。おはようございます。」
和哉が挨拶すると、こちらを見て村本も挨拶を返してくれる。
「あぁおはよう。」
表情は柔らかく堅苦しい感じはない。黒川が言っていたように頼りになりそうな雰囲気が出ている。
「ヘルメットと長靴を荷台に積んでおいて。」
そう言って村本は事務所に入っていった。和哉も吸い終わった煙草の火を消し事務所の中に入る。村本と黒川が談笑しているがそれを横目に事務所の隅に積んである貸し出し用の長靴とヘルメットを手に取り車の荷台に積んだ。村本も話が終わったのか事務所から出てきた。
「じゃあそろそろ向かおうか。」
そう言って運転席のドアを開け乗り込んだ。和哉は後部座席の助手席の後ろに座る。初めて会った人が運転する車の助手席に座ることに対して多少の抵抗があったからである。
「昼間は暑くなりそうだな。」
村本はそう言ってアクセルを踏んだ。
◎
「紙は貰ってきたか。」
村本は煙草に火を付けながら和哉に尋ねる。煙草はどうやらピースライトのようだ。
「はい受け取ってきました。」
それを見て和哉も窓を少し開け煙草に火をつける。今まで一緒に仕事してきた人の中で煙草を吸っていなかった人の方が少ない。そのためか同乗者に煙草を吸っていいかどうか聞く人もほとんどいない。
和哉は黒川から受け取った紙に目を落とす。『村本 義幸』と和哉の名前が書かれている。この紙は仕事終わりに現場の人に作業時間と簡単な作業内容を書いてもらう紙である。これを事務所の黒川に持っていくことで支払いが行われるシステムになっている。
「そう言えば自己紹介がまだだったね。僕は村本って言います。君の名前は?」
「自分は富山です。富山和哉、土木はほとんど初めてなのでよろしくお願いします。」
村本は何度か頷き笑顔で話しを続ける。
「今日はそんなに忙しくないと思うよ。おそらく簡単な片付けとかじゃないかな。まぁ現場の人に言われたらそっちを手伝えばいいし、中には変に突っかかってくる人もいると思うけど気にしなくていいから。」
村本のこの言葉に多少不安だった気分が少し軽くなった。とりあえず今日を乗り切ろう。和哉は自分にそう言い聞かせた。
「とは言っても土木作業で一日八千円は安いよなぁ一万くらいもらってもいいと思うんだが。」
村本が独り言のように話す。和哉もこの意見には大いに同意だ。倒れそうなほどしんどい作業でも、軽作業に近い作業でも同じ値段と言うのは納得いかないし、もちろん楽な現場がいいのはみんな同じ気持ちである。かと言って現場まで作業風景を確かめに来ることもできないのも事実であるため何とも言えないものである。確かにそうですねと相槌を打つ。
「黒川にがつんと言ってやらないといけないんだがな、この前も盛大に口喧嘩してしまってな。」
ハハハと笑いながら村本は話を続ける。
「現場のリサーチもせずに仕事回して実際向かうのは僕たち。一回自分で行ってみろってね。」
いたずらっ子のような笑いを見せる。現場への行き帰りの車内では基本的に愚痴が飛び交っている。日頃の鬱憤が溜まっているのだろう。確かに黒川から最初に聞かされていた仕事内容とは全く違うことをやることになったことが過去に何度もあった。和哉も黒川の簡単な作業ですよと言う言葉には入社して一か月で疑うようになった。しっかり内容を聞いて判断しないと本気で倒れると解体現場の時に学んだからである。
「もうすぐ着くぞ。」
さて、今日も何事もなく定時の時間まで過ぎてくれることを願うばかりだ。
窓を閉めるときに感じた風はじっとりと湿度が高く和哉の顔に不快にもまとわりついた。