籠の鳥は本当に不幸なのか
籠の鳥。これは《自由を奪われている者》の意味で使われる言葉だ。その束縛するモノを鳥籠ということもある。
なるほど、《籠の鳥》は確かに自由は無いかもしれない。大空を羽ばたき、己の望む生き方はできないだろう。しかし、それが必ずしも不幸だとは限らない。
ここでは、比喩表現としての《籠の鳥》ではなく、物理的に《ペットとして飼われている鳥》の意味で考えてみよう。なぜなら、《自由を奪われている者》という意味での《籠の鳥》という表現そのものが、ペットとして鳥籠で飼われている鳥からきているからだ。
さて、飼い鳥を考える上で、まずは前提条件、つまり飼い主がどんな人間なのかを決めなくてはいけない。この飼い主はペットのことを第一に考え、人間が我が子に接するのと同様の愛情を持って、飼い鳥に接してくれるものとする。
おそらく、ペットを飼っていらっしゃる世の大多数の方々は、そのようにしておいでのことと思う。
ここからは、親と子、飼い主とペットという関係を比較しながら書いていくことにする。
まずは出会いだ。親が我が子と出会う、というと変な表現かもしれないが、要は《誕生した我が子との対面》だ。
飼い主とペットとは、殆どの場合はペットショップで買ってくるか、ブリーダーなどから譲り受けるかだろう。ペットにとっては本当の親と引き離されるのだから、この点でまず不幸だ。ただし、それを言うなら人間同士の場合であっても、養子縁組という制度がある。
養子を取るために他の親から子を奪う、というのはさすがに無いだろうが、やむを得ぬ事情によって親子が引き離され、その子は血の繋らない親に養育されるという状況は十分にあり得る。
次は生活面。人間同士の親子(肉親、継父母を問わず)では、病気や事故などの突発的事情が無ければ、親は必ず子より先に死ぬ。子はいずれ親元を離れ、独り立ちしなければならない。いわゆる《社会に出て荒波にもまれ》なければならない。
読者様の中にも、いつまでも親に甘え続けることが許される、子供のままでいられればどれほど幸せか、と、夢想した人はいらっしゃらないだろうか。
ペットならば、それが許される。もちろん、《実の親に》というのは無理だが、育ての親ともいえる飼い主になら、自分が死ぬまで甘え続けられる。
ヨウムやコンゴウインコなどの長命な種は、もしかしたら飼い主が先に死ぬおそれもあるが。それでも、飼い主は自分の死後、鳥の面倒を見てくれるよう、別の人間に話をつけておくだろう。飼い主との死別はあるかもしれないが、少なくとも《独り立ち》する必要は無い。
自分を守ってくれる飼い主の手。寒い夜も凍える心配をする必要は無く、外敵も居ない安全な鳥籠。寂しい時はなでてくれる飼い主の手。退屈しないように様々なおもちゃを用意してくれる飼い主。1日中遊んでいても、飼い主が毎日決まった時間に餌を用意してくれるので、飢えることも無い。
もし、飼い主がブリーダーだったのなら、恋人も用意してくれる。……まあ、その相手が自分の好みのタイプかは別問題かもしれないが。
最期は、そんな大好きな飼い主の手の上で、少なくとも、飼い主のそばで死ねる。
ペットは、社会に出て生存競争に勝ち残る必要は無い。いつまでも子供気分で、親(飼い主)に甘え続けていられる。ちょっとぐらい自由が無いかもしれないからといって、これが不幸といえるのか。